騎士と女騎士 12歳
「クリス!」
上空に見える足に向かって、大きな声で呼びかける。わずかに木の枝が揺れ、葉が落ちてきた。そして身を乗り出すようにしてこちらを見下ろすクリスの姿。
「危ないだろ! 早く降りてこい!」
「んんん? ああ、しまった! 何も聞こえないな」
あまりにも白々しい声に思わず舌を打つ。
「私に話があるのなら、ここまで登ってきたらどうだ?」
淑女としての嗜みなどを説いたい気持ちでいっぱいになったが、言ってもどうせクリスは聞かない。なにしろこれまで散々言ってきた。
「それともあれか? 騎士になる者は木にも上れぬと?」
それがただの挑発だということは重々承知している。だが許せるはずがない。
「お前にできて俺にできないはずがないだろう」
「そうか。ならばここで待つとしよう」
クリスの姿が枝に隠れ見えなくなる。木登りなどしたことはないが、ここで登れなければ未来永劫馬鹿にされることは目に見えている。
足をひっかけられそうな部分を探し、少しずつ慎重に登っていく。嫌がらせか時折クリスが枝を揺らして葉を落としてくる。
「思ったよりも早かったな」
ようやくクリスのいる枝まで登ると、快活に笑いながら言われ、思わず頭を叩きたくなった。
さすがに不安定なこの場で叩いて落下でもされたらかなわない。ぐっと堪え、代わりに盛大に息を吐いた。
「ほら、見てみろ。よい眺めだろう」
前方に向けられた手の先を追うと、大小様々な屋根が見えた。道行く人がとても小さく見える。
「私はこの風景を守りたいと思っている」
「守る?」
「ああ、そうだ。私は騎士になりたい」
その言葉の意味を理解するのに一拍かかった。
「お前、騎士という仕事がどういうものなのかわかっているのか」
「わかっているとも。だからこそ騎士になりたいのだよ」
クリスの父親は騎士だった。そして魔物との戦いで命を落としている。
そして母親すらも父親の後を追うように亡くなった。騎士を恨むならともかくなりたいと言い出すとは思ってもみなかった。
「お前にはなれない」
思ってもみなかった言葉だが、答えは決まっている。
「ふむ。どうしてそう思う」
「お前は俺の妻になるからな。騎士になることを認めるわけにはいかない」
「熱烈な愛の言葉だとでも思えばいいのか、悩むところだな」
茶化すような口振りに眉をひそめる。
騎士というものは危険と隣合わせだ。そんなことは父親を失っているこいつが一番わかっているはず。それなのにどうして騎士になりたいなどと言い出すのか、理解できなかった。
「私とて考えに考えた結果なのだよ。愛しい婚約者の頼みとはいえ、聞くわけにはいかないな」
そこで話は終わりだとばかりに木を降りはじめた。
「おい!」
「早く降りた方がいいぞ」
気付けば地面に足をつけているクリスが、不思議なものを見るような目でこちらを見上げている。
言いたいことを必死に堪え、降りようと幹に手をついて、気付いた。
「もしかして、降りれないのか?」
登るのと降りるのはわけが違う。登るときは枝や出っ張りを簡単に視認できたが、降りる場合は視界が制限される。どこをどうやって登ってきたかなど、覚えていない。
「まったくしかたのないやつだ。ほら、受け止めてやるから飛び降りろ!」
「馬鹿かお前は!」
両手を広げて下で待ち構えるクリスに、思わず叱責を飛ばす。互いにまだ子どもで、身長差もそこまでないとはいえ支えられるはずがない。いや、それ以前に女に受け止めてもらうなど、恥以外のなにものでもない。
「いいから大人を呼んでこい! お前には無理だ!」
「やってみなければわからないだろう」
やらなくてもわかる。これで鍛えている同年代の男子ならともかく、クリスは女性だ。いくら活発とはいえ、その身が女性のものであることは変わらない。
「だがのんびりしている暇は――」
クリスが言い切る前に、枝が嫌な音を立てて折れた。完全に折れたわけではなく、根本に亀裂が入った程度ではあったが、俺を振り落とすには十分すぎるほどの変化だった。
「っう」
襲ってくる衝撃に身構えていたのだが、思ったよりもひどい痛みは感じなかった。むしろ柔らか――
「ほら、言っただろう? 受け止めてやると」
下からのんきな声が聞こえた。うっすらと目を開けると、クリスの着ていた服の色が視界に広がった。
「おま――大丈夫か!?」
慌てて身を起こし、下敷きになっていたクリスから離れる。クリスは上体を起こすと、自分の首に手を当てて軽く頭を揺らした。
「うむ、大丈夫そうだ」
だが手を差し伸べても取ろうとしない、どころか立ち上がろうとすらしない。
「どうした?」
「何、問題はないが念のため教会のものを呼んできてもらおうかと思案していたところだ」
一瞬だが、クリスの視線が足に注がれた。だがすぐに俺を見て、軽快に笑う。
「足がどうかしたのか? 見せてみろ」
「む、女性の足を見たいなどと軽々しく口にするものではないぞ」
「そんなことを言っている場合か。見せたくないというのなら、無理矢理見るまでだ」
「おいおい、今日はどうした。ずいぶんと積極的ではないか。そうか、女性の肢体に興味の出てくる年頃ということか」
こいつの軽口に付き合う義理はない。屈んで地面に投げ出されている足に手を伸ばすと、押し返された。
「いやはやまったく困った婚約者だ。性急すぎるのはよろしくないと思うのだがね。まあなんだ、足を捻ったようなのだが歩けないほどではない。だがまあ万全を考えるのであれば、誰か呼んできてもらうのが適切かと思っただけなのだよ」
ぺらぺらと捲し立てるのは、何か誤魔化しているときの癖だ。零しそうになる溜息を堪え、代わりにクリスの背中と足の下に手を入れて持ち上げる。
「私は誰か呼んで来いと頼んだはずだが」
「……俺のせいだから、俺が運ぶ」
「しかし腕が震えているぞ。無理せず大人を呼んできたほうがいいのでは?」
先ほど大人を呼んでこいと言ったのに呼んでこなかったのはどこのどいつだ。
「やってみなければわからない、だろ。いいから黙って掴まってろ」
「まったく、しかたのないやつだな」
軽快に笑って、首に腕を回すクリスの体を落とさないようにしっかりと抱える。くそ、重い。こいつは普段何を食べているんだ。
「言っておくが、重量のほとんどはドレスだからな」
それが真実かどうかはわからなかったが、クリスの名誉のためにそうすることにしておいた。
そしてその後、教会の者に「頭を打っている可能性もあるのだから動かさないでください」と叱られた。
そのときの、だから言っただろう、というクリスの顔は忘れられそうにない。