聖女の最期
長く、鬱々としています。ご注意ください。
「きっと君を幸せな花嫁にしてみせるよ」
そう言われてから幾日が経ったのだろう。閉め切られたカーテンのせいで陽の光は差さず、マティス様が来ない限り部屋の灯りも点かない。
暗く閉め切られた部屋の中で、私はただひとり寝台の上に転がっている。
切りつけられた肌はマティス様が治療したので痛みは残っていないはずなのに、与えられた痛みが忘れられず動くことすらもままならない。
「リリア」
暗い部屋の中にわずかに光が差す。扉の向こうは明るく、もしかしたら今は日中なのかもしれない。
青い瞳を細めて笑うマティス様を出迎えるために、緩慢な動きで身を起こす。
「ほら、食事を持ってきてあげたよ」
盆の上には平皿に注がれたスープがある。それを寝台の上に置くと、マティス様は寝台の横に備えつけられている椅子に座った。
私は平皿を持ち上げゆっくりとスープを喉の奥に流しこむ。前に食事をしたのはいつだろう。一日前にも思えるし、三日前にも思える。
「魔族は本当に薄情だね。君のことを心配すらしていない」
初夜では敵意剥き出しだったマティス様は、いつからか前のように優しく穏やかに笑うようになった。
魔族と密な関係ではないとわかったからか、思いのほか従順な私に気をよくしたのか、理由はわからないし、痛みが与えられることに変わりはないので、どうでもいい。
「もうすぐひと月が経つ」
空になった平皿を盆の上に置いて、首を傾げる。
「俺と君が結婚してからだよ」
まだひと月と思うべきか、もうひと月と思うべきか。
魔族は時間間隔が曖昧なので、一ヶ月もの間私と会っていなくても何も不思議には思わないだろう。下手するとほんの数日会っていないだけにしか思っていないかもしれない。
「陛下がそろそろ君を復帰させろとうるさくてね」
「……陛下が?」
「ああ、そうだよ。君と色々話したいらしい」
盆を文机に置き、代わりにマティス様が寝台の上に乗りあげてきた。ぎしりときしむ音に体が震えた。
マティス様が復讐を思う気もちも、私に当たることによって留飲を下げていることもわかる。
私もそうしたかもしれないのだから、当然だ。未来を知らなければ、私は復讐に身を任せていた。
わかっているはずなのに、痛みから逃がれたいと体が反応してしまう。
そんなこと、私は望んでいないのに。
「君はここから出たら陛下に泣きつくだろう?」
「そんなことは――」
「ああ、いい。この状況で肯定するわけがないことはわかっている」
口を手でふさがれ、それ以上は何も言えなくなった。
本当に何かを言うつもりはない。魔族に対する怒りを忘れられないのは当たり前だ。
それでも、もしかしたらと思ってしまった私が馬鹿だった。
そんなことは無理だと、いつまでも恨みを忘れられない私が一番わかっていたのに。
「だからね、ほら。これを用意したんだ」
その手にあるものがなんなのか、すぐにはわからなかった。
「君が罪人だということをその体に刻めば、助かろうなんて気はなくなるだろう」
口をふさいでいた手に力が入り、そのまま寝台に押し倒される。
ただの黒い鉄の棒に見えたそれの先がじわじわと赤く染まっていくのを、息をするのも忘れて見つめた。
「さて、どこがいいかな」
手が頬を撫で、首に振れ、寝衣のボタンを外していく。解放された口は声を出せず、ただ乱れた息を吐き出している。
「ああ、傷跡は残さないから安心してほしい。誰かに見られても困るからな」
じゅう、と胸の間に熱いものが押しつけられる。声にならない叫び声を上げて、頬を流れる涙で視界が潤む。
潤んだ視界の先で、無表情のマティス様が私を見下ろしていた。
もしもこれで、笑っていたり、痛ましいものを見る目で見ていたら恨み言のひとつでも言えたかもしれない。
だけどマティス様にとってこれは遊びでもなんでもない。ただ淡々と復讐しているだけに過ぎない。
――そして、死を望んでいるだけだ。
マティス様は魔法の概念を理解し扱っている。
だから私が持つ魔力量も、何ができるのかもわかっている。マティス様をたやすく殺せるだけの力があることを、知っている。
自分が死んだ後にどうなるのかも、全部理解してマティス様はこうしている。
「マティス、様」
息を何度も吸い、吐いて、途切れ途切れの声で夫の名を呼ぶ。
わかっている。全部、すべてわかっている。だって、私だってそうしただろうから。
伸ばした手で触れた頬は冷たく、さらりと流れる銀の髪は柔らかい。
「あなたは、私の、夫です」
「そうだね。君は俺の妻だ」
触れるだけの口づけをして、マティス様の顔が離れるとすぐに二度目の痛みが腹部を襲い――私は気を失った。
行き場のない怒りから解放されるために痛みを与える夫と、与えられる痛みで行き場のない怒りを鎮める妻。
本当に、私たちは似合いの夫婦だ。
両親のばらばらになった姿と、フィーネの目が抉られる瞬間。そして耳をつんざく悲鳴。
そのどれもが、つい先日のことのように思い出せる。忘れてはならないと何度も何度も思い出して、記憶に強く焼きつけた。
魔族に怒る権利があるフィーネはすべてを忘れていた。だから、私だけは覚えていないといけないと、ずっとそう考えて、忘れてはいけない、忘れてはならないと何度も自分に言い聞かせた。
彼らが村で何をしたか、フィーネに何をしたか。私だけが覚えていて、私だけが知っていた。
安穏とした生活の中で穏やかな気もちになるたびに、浮かぶ情景が私を苛めた。
すべて忘れているフィーネはいい。すべて覚えている私が彼らを許したら、あの日抱いた痛みや苦しみ、無力さに対する嘆きはどうなる。
許せるわけがない。許せるはずがない。
何度もそう自分に言い聞かせた。
――そしてあの日、私が前いた世界から来た勇者と出会った。
彼はとても普通の人だった。
普通に笑って普通に馬鹿をする。そんな人だった。
「そんなところでうずくまって、どうしたんだよ」
屋敷の庭でひとりでいた私に、彼は気軽に話しかけてきた。
魔族の緩やかな死を望み、聖女になる道を選んでフィーネの目まで食べたのに、計画を進めている間の穏やかな時間に心を預けてしまいそうになる自分に嫌気がさして、ひとりで落ちこんでいた。
「何か悩みがあるなら聞くぞ。あー、つっても、いい感じのことが言えるかはわかんねぇけど」
頬をかいて横に座り、へらりと相好を崩す彼に私は小さく息を吐いた。
彼はこの世界とは関係のない人間だ。ただ女神様に喚ばれただけの、魔族と人間との確執を知らない人だ。
そして、近いうちに帰る人でもあった。
だから私は、初めて戻ることも進むこともできない、どうしようもない感情を吐き出した。
全部、ではない。互いに傷つけ合った魔族と人間が本当に手を取り合えるのか、そんな不安と当時の怒りが風化してしまいそうな、死んだ人たちに対する罪悪感を語った。
「お、おお、そりゃあ、またなんとも……」
「このままだと忘れてしまいそうで、あの日抱いたものを全部なかったことにしてしまいそうなんです」
「あー、なるほどなぁ……。うーん、でもさ、忘れるのはしかたないんじゃねぇの? 俺のいた世界でも戦争とか、まあ色々あるけど……俺のいた国じゃ遠い昔の話になってるぐらいだからな」
その国は私がいた国でもある。
犯罪こそあるが、それは身近に迫らない限り遠い別の場所で起きた事件でしかなく、降りかからない限り他人事のように平和を謳歌していた。
「だからさ、結局時間と共に忘れるのはしかたないんだよ。いつまでも当時の気もちのままいられる奴なんて限られてるし」
腕を組んで真剣に悩んでいる彼を見て、私は思わず口にしかけた反論を引っこめた。
「俺はさ、あいつらが何をしたのかを実際に見たわけじゃねぇし、何も知らないけど……ひとつだけわかることがある。どんだけ戦争して、被害が出ていても、平和な時間が長いと人は平和ボケするってことだ」
「それって、胸を張って言えることですか」
「言えるんだよ。どんなことでも、結局は幸せになったもん勝ちだ。被害にあった奴は可哀相だとは思うけど、それであんたが幸せになれる道を放棄してもどうにもならないだろ」
彼は本当に、平和ボケした男だった。
綺麗事で、結局平和な世界から来たからにすぎない意見だった。
「あんたらのせいで不幸だったって嘆くよりもさ、あんたらに何をされても幸せになったぞ、ざまあみろって笑ってやればいいんだよ」
「ざまあみろって……子どもですか」
「いや別に、ざまあみろじゃなくてもいいんだけど……まあ、なんつーの? ひとりで抱えて泣いているよりも、あんたが笑ってるほうがあんたの姉貴も幸せになれるだろうし、ふたりで幸せになって見返してやればいいじゃんって、まあそういうことなんだけど」
そう言って、乱暴に頭をかくと真剣な顔で私に向き直った。
「それにさ、あんたは笑ってるほうが可愛いよ」
「そこで私を口説きますか? 普通」
「傷心の女の子につけこむのは軟派の常套手段だからな」
「前いた世界では軟派師でもしてたんですか」
「いや、違うけど。でもほら、可愛い女の子の前ではかっこつけたくなるのが男ってもんだろ。……まあそれで調子いいこと言ってここに連れて来られたんだけどな」
「馬鹿ですかあなたは」
「そうそう。馬鹿な俺でも勇者になれるような世界なんだ。あんたが聖女になって幸せになれても不思議じゃないだろ」
綺麗事ばかりで、何も知らないからこそ軽く言えるのだと思う気もちはあった。
だがそれでも、調子のよいことばかり言う彼に毒気を抜かれたのは確かだった。
そして、彼が帰った後に訪れた王城で王様と出会い、魔族と人間が語らう場ができた。
それは、魔族と人間が手を取り合い、彼みたいな人間が産まれることのできる、平和ボケした世界を作れるかもしれないと思えるような光景だった。
あの日から少しずつ減っていた肩の荷がさらに減り、このまますべて忘れて安穏とした生活に身を委ね、魔族に――ライアーにざまあみろと言える日も来ると、そう思えた。
――まあ、そんなことはなかったのだが。
結局怒りを忘れることはできないのだと、マティス様を見て気づいた。
目的のためには手段を選ばず、そのためには自身の死すらも厭わない人間もいるのだとわかった。
そして私も、そちら側の人間なのだと思い知らされた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
暗い部屋の中に差しこむ光と、マティス様ではない――聞き慣れた気軽い声。
明かりの中に浮かぶ水色の髪に、どうしてという言葉が浮かぶ。だけどそれを口にすることはできなかった。
にこやかに笑う彼の手に握られている、私の夫だったものの頭に目を奪われた。
――それはまるで、あの日見た両親のようだった。
「ボクたちを恨んでたなんて、こいつも馬鹿だよねぇ」
悪気のない顔に、私は泣きながら笑った。
夫が死んだ悲しみと、すべてを無駄にされた怒りと、私と似た夫が殺された恨みと痛み、そして会っていないことに気がついて来てくれた嬉しさが入り混じり、ぐちゃぐちゃの頭では流れる涙を止められなかった。
「どうしたの?」
夫だった者の頭が床に転がり、血に濡れた手が頭を撫でた。
「……アベルが死んだそうだな」
王城の執務室で、やつれた顔の王様に私は「はい」と短く返した。
「どうして、なのかは聞かない。病死、いや事故として処理するのだろう」
私はまた「はい」とだけ答えた。
「余に会いに来たということは、報告したいことがあるのだろう」
憔悴した紫の瞳が私を捉える。
本当にこれでいいのか、まだ迷いはある。だがそれでも、こうするしか道は残されていない。
「魔王と手を結ぶ道は閉ざされました」
「ああ、そうだろうな」
教会のトップを立つ者が魔王に連ねる者に殺されたとなっては、民衆も黙ってはいないだろう。教会も魔王を女神に仇なす者として拒絶するだろう。
元々不満を押さえこんでの政策だった。教皇の死をきっかけに、不満は爆発する。
「すべて、なかったことにします」
人間と魔族や魔王との確執は消えない。すべて覚えている限り、どうにもならない。
だから魔族のことも魔王のことも忘れさせて、人々から恨みと怒りを消さないといけない。
「魔王は……兄はそれを了承しているのか?」
「はい」
「……そうか。ならば余から言うことは何もない」
肘を机の上に置き、組んだ手の上に額を当てて俯く王様に私は何も言えず目を伏せた。
兄との距離を詰めようと頑張っていた王様。人の世をよりよくしようと切磋琢磨して、不満を押さえ続けていた王様。
彼の、これまで私と出会ってからの頑張りを私は無にしようとしている。
「ごめんなさ――」
「余は不甲斐ない王だ」
口にしかけた謝罪が遮られる。
王様は俯いたまま、私を目を合わせることなく細々と言葉を紡いだ。
「何もできず、何も成せず、幼い子どもであった勇者に手を貸すこともできず、聖女となり重荷を背負ったそなたを助けることもできなかった」
「そんなことは」
「よい、余については余が一番わかっている」
勇者が旅立ったとき、王様もまた幼い王様だった。
私の重荷は、ほとんどが私のせいだ。抱えた恨みや怒りをどうしようできずくすぶらせ続けたせいだ。
王様が自分を責める理由はどこにもない。
「……すまなかった」
か細く、下手すると聞き逃してしまいそうな小さな謝罪の言葉は、すぐに遠くから聞こえてきた歌にかき消された。
この日、魔族と魔王は人の世から消えた。
魔族と魔王の記憶がなくなったからといって、私が聖女でなくなったわけではない。夫を事故で失った聖女として教会を治めることになった。
フィーネが何度か心配して私の様子を見に来たが、普段はルースレスと共に生活しているので頻繁に来られるわけではない。
魔族はもはや存在していない生き物だ。人前に出てこられては困る。
ラストを通して魔王にお願いして、ノイジィの歌をラストの風に乗せて大陸中にばら撒いてから二ヶ月が経過した。
胸のむかつきと吐き気から、妊娠していることはすぐにわかった。父親が誰なのかは、考えるまでもない。
魔族の協力がなくなったことにより、身分問わず魔法について学べる場所の設営は予定よりも大幅に遅れている。
忙しいときに、なんと間の悪いことだろう。
だが、この子どもを産まなければ新たな夫が宛がわれることは目に見えている。教会を治める立場の人間がいなくては、教会はままならなくなる。
私の夫はマティス様だけだ。歪な関係だったが、私と彼は確かに夫婦だった。
安静を強いられたことによって無事子は産まれたが、学園の完成はより遅れてしまった。
遅れを取り戻すためには、一刻も早く復帰して計画を進めなくてはいけない。
腕に抱いた子は私と似た黒い髪に青い瞳をした女の子だった。可愛いか可愛くないかと聞かれたら、可愛くないと言えば嘘になる。
だがそれでも、かまけているような暇はない。
忘れたくないと思っていた人の記憶まで奪い、築き上げてきたはずのものを壊した私は、一日でも早く成果を出さないといけないと考え、がむしゃらに動いていた。
「リリア」
子どもを産んでから三ヶ月が経ったある日、ライアーが私を訪ねてきた。
ライアーには魔王を通して魔族と魔王について載っている書物を処分してもらっている。
忙しすぎるのだろう。こうして会うのはあの日以来だ。
「子どもを産んだんだって?」
「三ヶ月も前の話なのに、今さら?」
「忙しかったからね」
文机の上に置かれた蝋燭に火を灯し、寝台に腰を下ろして私を見つめる彼はいつまでも変わらず、いつもどおりだ。
「じゃあ、あまり長居すると魔王に怒られるんじゃない?」
「別にいいよ」
よくない。文献が残っていては困る。
すべてなくして、それから作り直さないといけないのに、悠長に構えてほしくはない。
「ねえ、キミが魔王にお願いしたって聞いたけど、本当?」
「……うん。そうだよ」
「どうして?」
――どうして、そう聞きたいのは私のほうだ。
どうして後少し待っていてくれなかった。どうしてマティス様を殺した。どうして、私に会いに来る。
「ライアーなら灰も残さず燃やせるから適任でしょ」
「……リリア」
赤い瞳が揺れ、伸ばされた手が水の膜に弾かれる。
濡れた指先をライアーは茫然と見つめていた。
「……どういうつもり?」
「どうって?」
呆然とした顔はすぐに怒りに染まった。
拒絶すればライアーが怒ることは嫌でも知っていた。だがそれでも今の私を殺すことはできない。魔王にそう命令されているはずだから。
「キミはボクのものなのに、こんなことをしていいと思ってるの?」
「違うよ」
首を横に振ると、ライアーは目を瞬かせ、言葉の意味を飲みこめずにいるのか固まった。
「私はもうライアーのものじゃないよ。マティス様の妻になったからね」
「だからって――」
「マティス様との結婚を許してくれたのはライアーでしょ?」
好きにすれば、とそう言って私をマティス様のもとに送り出した。あの時点で、私はライアーのものではなくなった。
そして今はマティス様もいなくなり、誰のものでもなくなった。
「私はもう、私のことを好きじゃない人のものになるのは嫌だよ」
マティス様と結婚すると報告したときのノイジィを思い出す。愛なきこんいんになんの意味があるのかと激昂していた彼の言葉に、今ならば「意味なんて何もなかった」と返すことができる。
「リリア、ボクは……」
そこまで言って、黙りこむライアーに私は苦笑を返す。
「ほら、もう行きなよ。早くしないと魔王に怒られちゃうよ」
もしもこのとき、嘘でも言ってくれていたら何か変わっていたのだろうか。
ああ、でもすでに手遅れだったろう。それに彼が私に向けてそんな言葉を言うことはないと、わかっていた。
何も言わず私に促されるまま姿を消した彼とまた会えたのは、私が死ぬ瞬間だった。
落石に巻き込まれ、馬車から這い出た私は搭乗していた人たちに向けて治癒魔法を施した。生きているかどうかはわからない。
だがそれでも、かけなくてはいけなかった。学園の設立を急いで馬車を急かしたのは私だった。
なけなしの力を振り絞り、力つきた私の前に水色の髪を私のあげた髪紐で結んでいる魔族が現れた。
「なんで」
呆然とした声を遠のく意識の中で聞いていた。
「なんで勝手に死んでるんだよ」
漏れ出たようなその声に、動くことをやめようとしている胸が痛んだ。
死ぬつもりはなかった。そんな声をさせるつもりはなかった。
なら私は、どうしたかったのだろう。
幸せにもなれず、何も成せず、何もできなかった。
――ごめんなさい。
それは目の前にいる彼と、私が歪めてしまったすべての人に向けて。
『俺の名前?』
きょとんとした顔が瞬くのを見ていた。
『勇者って名乗ったらいけないって言われたんだけど』
そんな決まりはない。
『え、マジで。あー……んー……じゃあ、そうだな。あんたが幸せになって笑えるようになったら、また女神に連れてきてもらうよ。そんで、そのときに教える』
だから、知りたかったら幸せになれよ――そう言った彼との約束すら私は果たせなかった。
だけどせめて、彼のくれた言葉を笑って言おう。
――ざまあみろ。
ちゃんと言葉になっていたのかどうかはわからない。目も耳も、すでに意味を失っていた。
ぐちゃぐちゃになった、もはやどうすることもできない気もちを抱いて、私は意識を手放した。
暗い闇の中で夢を見た。
「マティスと結婚することにしたよ」
「――は?」
ライアーがぽかんとした顔でカップを落としかけたのが少し面白くて、小さく笑みを零す。
「何故だ!? どうして! そこに愛などないだろうに!」
「教会の後ろ盾を強固にするためにはその方がいいって言われたから、かな」
「愛なき婚姻などになんの意味があるというのか! そうか、俺への挑戦だな。いいだろう、その挑戦を受けてやろうではないか! そしてその身に愛の素晴らしさを叩きこんで――」
ノイジィがわめくのを、ライアーが机の上に叩きつけて黙らせた。
痛そうだ、と他人事のように考えていた私に深い溜息が向けられる。
「勇者のためだからって、キミがそこまですることないんじゃないの?」
「勇者さまのためだけじゃないよ。そりゃあ勇者さまには幸せになってもらいたいとは思うけど、私とお姉ちゃんと気兼ねなく笑い合うためでもあるからね。それに、物語はハッピーエンドじゃないと」
ライアーが何を言うかなんてわかってる。好きにすれば、と言ってあっさり私を手放すのだろう。
何を言ってほしいのか、何を言ってほしくないのか、このときの私はよくわかっていなかった。
「――別に、あいつと結婚しなくてもハッピーエンドにはなれるんじゃないの?」
「え?」
その予想外の言葉に、私は目を瞬かせた。
「キミはボクのものなんだから、他の奴にやるわけないでしょ」
「いやいや、そこは置いておくべきだよね。このほうが皆にいいんだし、魔王だって――」
「どうでもいいよ」
あっさりと言い捨てるライアーの手が頬を撫でる。柔らかな動きに、私は言葉を失って立ちつくした。
「なるほど、我が友は我らの王の命などよりも、愛した女を取ると言うことか。我が友にも愛が芽生えるとは、愛とはなんと素晴らしいのだろう。これはもはや世界中に広めるべきだろう。そうとなればここで立ち止まっているわけにはいかないな。今すぐにでも皆にこのことを知らせねば」
「いやいやいや! それは飛躍しすぎだよ!? というか、何しようとしてるの! やめてよ!」
復活したノイジィが部屋を飛び出そうとするのを必死に止めていたら、ライアーの噛み殺したような笑いが聞こえてきた。
こんなときにまで遊ぶだなんて、本当にこの男はどうしようもない。
「ライアーもからかわないの。私はマティス様と結婚する! はい、決定!」
「いやだから、駄目だって言ったよね」
ひょい、と重さなんてまったく感じさせない動きで私を抱えると、ライアーはこれまでしたことがないような、優しい笑みを浮かべた。
「あ、あの?」
「愛、愛ねぇ。うん、まあそれでもいいか」
「いや、よくないよね。何言ってるの。ノイジィに魔法でもかけられたの?」
「そんなわけないでしょ」
呆れた声に遊びは終わりだとわかり、ほっと胸を撫で下ろした。人をからかうのもいい加減にしてほしい。
「ボクがキミを好きだっていうことに、そいつは関係ないよ」
「――な、は、はあ?」
「やはり愛ではないか! この吉報を知らせ、祝福の宴を開かねばならないな!」
「私はまだ何も言ってないのに、勝手に話を進めないでくれるかな!?」
走り出すノイジィを、抱えられた私では止められず、ただ背中を見送ることしかできなかった。
ライアーとふたりだけになり、ぽかんと口を開いていた私の耳に楽しくてたまらないといった笑い声が聞こえてきた。
「ああ、もう、どうしてくれるの。あれだと魔族だけじゃなくてお姉ちゃんにも魔女にも魔王にも伝わっちゃうよ」
「別にいいんじゃない?」
「よくないよ。もう、馬鹿じゃないの。私を好きとか、そんな嘘ついて……もっと状況とか、色々考えてよね」
「なんで嘘にするかなぁ」
「だって、そんな、ありえないでしょ」
私をペットか何かのように扱っていたのはライアーだ。それなのに、好きだとかなんとか言われても、愛玩動物に対して可愛いなぁと言うようなものとしか思えない。
ああ、そうか。きっとそうだ。きっとそういう意味の好きなんだ。
「好きだよ。嘘じゃなくね」
「うんうん、わかってるわかってる。だけどそれと結婚は別の話だよ」
「同じだよ。キミを他の男にやるつもりはないからね」
額に触れた柔らかな感触に、私は完全に言葉を失った。
――そんな、ありえない夢を見た。




