独りになりたい、のに。
昼休みのチャイムが鳴ると、お弁当と本を持って速やかに体育館裏へ向かう。それが私、桜木明里の日課だった。
日当たりが悪く湿った空気の中、独りで食べるお弁当は、お世辞にも美味しいとは言えない。静かなのは、いいことだけど。
せめて日の当たる屋上で、なんて思ったこともあったけど、あそこはリア充の溜まり場。とてもじゃないけど行けない。私にはこのじめじめした場所がお似合いなんだ。……『病原菌』の私には。
病原菌と言っても感染症を患っているわけじゃない。私は不幸の病原菌。私がいると周りを不幸にする、嫌な菌。
運動会が雨で台無しになった回数は数知れず、中学の修学旅行なんかは飛行機がトラブルを起こし、三泊四日の予定が二泊三日になった。
私が参加しなければそんなことはないのに、私が関わると途端によくないことが起こる。大抵は雨程度で、大事になることは稀にしかないんだけど。
だから、高校に入学して二ヶ月、私は最初からクラスに馴染まず、極力独りでいることを選んだ。『周りを不幸にする』なんて中二病もいいところで言い出せないし、理解されるはずもない。高校生にもなって大真面目にそんなこと語るイタイ人と思われるのはさすがに不本意だし、だったら最初から関わらない方がいいもの。
そうして自然と口数も減っていき、私の青春、いや、人生はぼっちで終わる…………はずだった。
「……また来た」
お弁当箱を開けたばかりの私が呟くと同時、体育館の影からひょこっと顔を覗かせる者が約一名。彼女は私を認めると、眩しすぎるほど屈託のない笑顔を見せた。
「明里ちゃん、やっぱりここにいた!」
「……弓ヶ崎さん」
弓ヶ崎優夢。明るく社交的で、クラス中が友達と言っても過言じゃない、コミュ力の塊。女子にとっては世間話兼敵味方判別機である陰口も、弓ヶ崎さんだけは言っているのも言われているのも見たことがない。
そしてなにより、純真で素直。想いを口にすることに躊躇いがない。それは、自分にも他人にも肯定的な環境で育ってきたことの証。
つまり、私とはまったくの対極に位置する人間ということ。
「隣座るね。よいしょっ」
「……いいって言ってない」
「ダメなの?」
「……別に」
「やたっ」
……そしてどういうわけか、二ヶ月経っても私に付きまとう、ただ一人のクラスメイトでもあった。
「今日のお弁当は~……あはっ、からあげ! あたしからあげ大好きなんだ!」
「……そう」
「すごいよね。冷めてもおいしいんだよ? 日本の鶏は優秀だよ! 軍事訓練とか受けてるのかなぁ?」
「……そうかもね」
食用鶏が軍事訓練とか意味わからないし、優秀なのは冷凍食品を作る技術だと思う。弓ヶ崎さんは明るいし素直だけど、頭が少し残念とも言えた。
それからも彼女は、反応を示さない私を意にも介さず、一人で昼食時を彩り続けた。よくまぁそんなに無視されても話せるものだと、私は感心しきりだ。
けど。
「それでね!」
「……弓ヶ崎さん」
「あっ。なーに?」
「……いい加減私に関わるのはやめて」
これっきりにしないと。私に関わるべきじゃない。……弓ヶ崎さんみたいな人は、特に。
「……私と関わるのは、あなたのためにならない」
「どーして?」
「……私がクラスに馴染んでいないの、知らないわけじゃないでしょ?」
「知ってるよ。でもあたしが明里ちゃんと仲良くするのとは関係ないと思う」
「……私とつるんでたら、あなたもそういう人だと思われる。それに昼休みの度にここに来てたら、他のクラスメイトと付き合う時間も減るでしょ」
「うーん……?」
理解できないのか、弓ヶ崎さんは首を傾げる。
それから、からあげを口に放り込み、ゆっくり噛みしめ、きちんと飲み込んでから、言った。
「明里ちゃんは、あたしのこと嫌い?」
「……いや、嫌いとかそういうことじゃなくて」
「あたしは明里ちゃんのこと好きだよ」
「……っ」
こんな恥ずかしいことを口にする時、普通はなにかしらの打算が見えるものだけど、コミュ力女王の笑顔に裏はない。誰にでもそうやって取り入って、心を開かせるのだろうか。
弓ヶ崎さんは続ける。
「明里ちゃんがあたしのこと嫌いじゃないなら、それでいいと思うんだけどな~。明里ちゃんはわざと他人を遠ざけてる気がする」
「……私は独りで本を読むのが好きなの。世の中、あなたみたいに誰かと喋ってないと死ぬ人種ばかりじゃない」
「読書が好きなのは本当だと思うけど……たまには本だけじゃなくて、誰かともお喋りしたいんじゃない?」
「……勝手なこと言わないで」
私は悟った。弓ヶ崎さんを遠ざけるには、強い語調で言わないといけない。変に傷つけるかも、なんて余計な気遣いのせいで、今まで弓ヶ崎さんの時間を無駄にさせてしまった。
ごめんなさい……でも、弓ヶ崎さんのためにも。
そう心の中で言い訳をして、私は純な瞳を睨みつける。
「……私とあなたは住む世界が違うの。弓ヶ崎さんから見れば私は憐れなのかもしれないけどね、私はそんな風に思ってない。自分の価値観押しつけて、他人を勝手に不幸認定するのはやめて」
「え、でも……」
「……友達でもないのに『明里ちゃん』とか呼ぶし、毎日毎日独りの時間は邪魔されるし。……正直ウザい」
「…………」
『あの』弓ヶ崎さんがうつむき、押し黙るのを見て、私はさっさと立ち上がって背を向けた。このまま悲しげな彼女を見ていたら、つい謝ってしまいそうだったから。
これでいい。嫌われれば上々だ。
明るい日射しの下に出ると、影に慣れた目が眩んだ。
……やっぱり私は、日陰の方がいい。
弓ヶ崎さんへの罪悪感と自己嫌悪、そして大反省会で満たされた昼休みも、ようやく終わりを迎えようとしていた。
世界史の教科書とノートを取り出そうと机を漁り、気づく。
……あれ?
ノートしかない。慌てて鞄の中を確認するも教科書はどこにもなく、私は焦りを覚えた。
忘れた……? いや、確かに朝入れた記憶がある。だとしたら隠された? 誰かの嫌がらせ?
周りを見回してみても、誰とも目は合わない。仮に嫌がらせだとしても、心当たりが多過ぎて犯人はわからない。私は意図的にクラスで浮いていて、誰から嫌われてても不思議はないし、嫌がらせの標的にされてもおかしくないのだから。
なんにせよ、残り三分ほどで昼休みは終わる。本来なら誰かに借りてくるべきなんだろうけど……そんな友達がいるわけもなし。
私は席から一歩も動かず、一言も発さないまま、リミットまでの時を過ごした。
そして中央最前列の席の私が、教師の目を逃れられるわけはなく。
「桜木……教科書はどうした」
「……すみません。忘れました」
「だったら昼休みの間に借りてくるとか、方法はいくらでもあったろう? 時間は散々あったのに、手を打たずぼけっとしてたわけか?」
「……すみません」
クラスに笑いが起きるでもなく、シンとした空気が流れる。それがなにより惨めだ。
……でもそれも仕方ない。こうなることも、私が選んだんだから。
「……やれやれ。仕方ないから隣に見せてもらえ」
世界史の教師は嫌味なため息を吐きながら言い、隣の席の女子は見せてくれる素振りを一切示さず、私は乾いた自嘲の笑いを漏らすしかなくなり、
「はい先生!」
「どうした弓ヶ崎?」
……なぜか弓ヶ崎さんが大きく手を挙げて立ち上がった。
「あたしが見せます!」
「なにをだ?」
「教科書です!」
「教科書……? もしかして、桜木の話をしているのか?」
「そうです!」
弓ヶ崎さんの提言に、教師も、クラスメイト達も、私でさえ、頭の上に疑問符を浮かべる。教室から、「……なんで?」以外の不純物がなくなる。
なぜなら、
「弓ヶ崎……お前と桜木は席がほぼ対角なんだが?」
私は中央最前列。弓ヶ崎さんは窓際最後列。弓ヶ崎さんがでしゃばるのはどう考えてもおかしい。
しかし弓ヶ崎さんはなぜか鋼鉄の意志を持っているらしく、全く退こうとしない。
「なら席を交換します! ね、ユリちゃん、今だけ席替わって! お願い!」
「いや、替わらんでも普通に隣から見せてもらえば……」
「どーしてもあたしが見せたいんです! あたしの教科書を見て欲しいんです!」
「どれも中身は一緒なんだが……まぁいい。授業は始まっているんだ。さっさとしなさい」
「はい!」
教師は投げやりな口調で言い、対照的な声音で応じた弓ヶ崎さんが私の隣へ。
弓ヶ崎さんはさっきのことをもう忘れてしまったのか。というか、こんな目立つ上になんの意味もないことしてなんになるの? 高校生にもなって羞恥心を知らない?
助けてもらった手前、そんな失礼は口にできないけど……色々と不可解だった。いつもと変わらずにこにこしてるのも含めて。
「…………あ、ありがとう。弓ヶ崎さん……」
「うんっ!」
授業中は落書きとアンダーラインだらけの難読教科書を見て過ごす。これならなにもない方がマシだとか、落書きとか小学生じゃないんだからとか、全部に線引いたら意味ないでしょとか、思わずツッコミたくなる衝動を抑えるのにいっぱいいっぱいで、授業どころではない。
けどそんな教科書でも、弓ヶ崎さんがどんな顔で私の隣にいるのかを見てしまうよりは、ずっとよかった。
「じゃあページ捲れー」
右側にいるのは私。だから持ち主は弓ヶ崎さんでも、ページを捲るのは私の役目だ。
教室中から、紙の擦れる音。
「――――!」
うっかり弓ヶ崎さんの方を見ないように注意してページを捲った私は、思わず声をあげそうになった。表面上はどうにか取り繕えたはずだけど。
その理由は簡単で、捲った先に大きな大きな落書きがしてあったからだった。
さっきはごめんね、と。
……なんなのこの人。なんで謝るの。謝るのは私の方じゃない。こんな風にされてなお、私は弓ヶ崎さんと目を合わせることもできないのに。
陰鬱な自己嫌悪に囚われる世界史の授業は、まるで拷問みたいに長く苦しかった。ようやく解放されると、私は弓ヶ崎さんに礼の一つも言わないまま、逃げるように席を立った。
逃げた先は……トイレの個室。私に相応しい湿った場所。
「はぁぁ……」
疲れた。弓ヶ崎さんはどうしたら離れてくれるだろう。結構キツめに言ったつもりなのに、まだ離れてくれないなんて。謝るのはなに? 仲直りのつもり? 愛想尽かしてさっさと離れればいいのに。みんな仲良くとか、みんな友達とか、ケンカしたら仲直りとか、本当に信じてるのは小学校低学年まで。嫌な奴とか、関わるとロクなことにならない奴とか、適度に距離を置いて上手くやるのが普通。高校生にもなればみんなそうしてる。
本当に不幸の病原菌なんだってこと、言うしかないのか……。
「はぁぁ……」
もう一度深いため息を吐いた時、女子トイレに新たな客がやってきた。
「正直ありえなくない?」
「弓ヶ崎ちゃんにお礼も言わないで黙って出てくとか」
「あれはない」
クラスの女子達だった。彼女達は怒りのない嫌悪感を露骨に表に出しながら、明らかに私のことを話題にしていた。
「つか何様? こっちから話しかけてやっても適当な返ししかしないし」
「入学式から誰とも話さないよね」
「コミュ障の陰キャが学校来んなよ。友達いないくせになにしに来てるわけ?」
「なんか病原菌らしーよ。アイツがいるといっつも不幸なことが起きるって」
「なにそれヤバ。え、なに怖い怖い怖い。アタシらも不幸になんの?」
「てか入学式が雨だったのもアイツのせいじゃね? ホンット迷惑」
「弓ヶ崎ちゃんもあんな陰キャ放っとけばいいのにねー」
いい気分はしないけど、彼女達の言う通り。これが普通。誰だって巻き込まれるのはゴメンなはず。弓ヶ崎さんの方がおかしい。
どうにか彼女達から弓ヶ崎さんに言ってくれないかなー。ついでに学校は一応勉強する場所で友達と遊ぶ場所じゃないから。
そう他力本願に考えていると、足音。
「あ、弓ヶ崎ちゃん」
どうやら入ってきたのは弓ヶ崎さんらしい。タイミングいいんだか悪いんだか……。
「噂をすれば。弓ヶ崎ちゃんさ、桜木? と関わるのやめた方がいいよ」
「そーそー。なんの得もないし、アイツは独りが好きなんだよ」
いいぞもっと言え。……って、私の悪口を私が応援するのはおかしいんだけど。
しかし弓ヶ崎さんは、普段より一段低い、戸惑うようなトーンで言った。
「明里ちゃんは悪い子じゃない……と思う」
「いやいや、だったらさっきのあれはないっしょ。教科書借りといて無視とかさ」
「それは……そうだけど……」
「いいじゃん。アイツがどうなろうがアタシらにはカンケーないし。近寄ると不幸にされるらしーよ?」
「それでも放っとけない。あたしが関わりたいの」
「「「…………」」」
もし彼女達がいなかったら、私は三度目のため息を吐いていたに違いない。
ハッキリ言って弓ヶ崎さんはバカだ。そんなことを言えば自分の立場がどうなるか、まるでわかってない。
思い起こされる。
『なんで私までこんな目に遭わなきゃいけないの……? 桜木さんのせいで……桜木さんになんか関わらなきゃよかった!』
庇えば仲間だと思われる。なにも悪くないのに、不幸な目に遭うことになる。
「心配してくれるのはありがとうって思うよ。でもあたし、もう少し頑張ってみたい」
「ま、まぁ……弓ヶ崎ちゃんがいいならアタシらは構わないけど……」
「カンケーないしね……」
私は決意する。
弓ヶ崎さんとちゃんと話して、ちゃんと突き放そう。
独りでいるために、ちゃんと。
翌日。昼休み。
「やっほー明里ちゃん!」
「…………」
いつものようにやって来た弓ヶ崎さんに、私は単刀直入に言った。昨日の謝罪もなしに。
「……弓ヶ崎さん。昨日も言ったけど、私と関わるのはもうやめて」
「どうして?」
「……私は不幸を振り撒く病原菌だから。私といれば必ず不幸になる」
「んー……そんなことないよ? あたし不幸じゃないもん。むしろ楽しいよ?」
「……クラスの子達から私は煙たがられてる。一緒にいたらあなたも煙たがられるって言ってるの」
「でもあたしがいないと、明里ちゃん本当に独りになっちゃうし」
「……私はそれでいいの。独りがいいの」
「嘘だよ。明里ちゃん嘘吐いてる」
「……そんなのわかるわけない。適当なこと言わないで」
「適当じゃないよ! そういう匂いがするんだもん!」
匂いって……動物か。
でもこの子は確かに、頭ではなく感性で生きてきたのかもしれない。だから私の言葉が理解できないのかも。
だったら。
「……なら、試してみる? 本当に不幸になるか」
「望むところだよ! ……でもどうやって?」
「……今度の日曜日、一緒に出かけるの。一日中一緒にいれば、私が病原菌って呼ばれる理由が嫌でもわかるはず」
「遊びに行くの!? やった! あたし明里ちゃんと行きたいところあるんだ!」
「……私の話聞いてた? 悪いことが起きるって」
「起きないよ」
やけに凛とした声音で遮られ、私は思わず押し黙る。
「明里ちゃんのせいで不幸が起きるなんてことあるはずない。もしあったとしても、それはただの偶然だよ」
「……偶然じゃない。私のせいで何人も不幸になった。母さんだって、私が生まれたせいで父さんと……」
「それも日曜日に全部わかるよ」
「……そうね」
口走りそうになった余計なことを飲み込み、私は弓ヶ崎さんに頷きを返した。
弓ヶ崎さんはさっきまでの凛とした態度が嘘のようにからっと笑う。
「あはっ。でも明里ちゃん、普通の高校生が不幸を呼ぶなんて本気で信じてるんだね。結構子供っぽいんだ」
「……あなたにだけは言われたくない」
日曜日の空はどんよりと曇っていた。私は待ち合わせ場所へ向かいながら、手元のスマホに目を落とす。
「……雨のち晴れ……ね。今は曇りなだけマシか」
お出かけ日和とは呼べない空に、しかし駅で待ち合わせた弓ヶ崎さんの顔は快晴。
「明里ちゃーん! おはよーう!」
「……そんな大声出さなくても聞こえるから」
元気印でどこまでも明るく、どう見ても私とは別世界の住人。それは今の私じゃなく、元々大人しい性格の私としてもそう。久々に出かけるのがこういうタイプの人なんて、なんだか変な感じ。
彼女は喜び勇んで私の手を取る。
「早く行こ! 水族館! イルカショーやるんだよ! イルカショーが観たい! ね、イルカ!」
「……わ、わかった、わかったから引っ張らないで……」
こんな天気でもテンションは高いらしい。改札を抜け、乗る予定の電車が来るのを待っていると、アナウンスが流れ始めた。
『一番線電車は人身事故の影響により遅れています。ご迷惑をおかけしまして……』
「……遅れだって」
「ありゃー。しょうがないねー」
「……早速不幸が」
「偶然偶然! ね、せっかく時間できたからお喋りしよ!」
あっけらかんと言い、飲み物調達に動く弓ヶ崎さん。……まぁ、一回くらいじゃ認めないか……。
自販機を前にして、彼女は目を輝かせる。
「見て見て! 超炭酸サイダー売ってる! これね、毎年夏になると売るんだけど、今年は早いんだね~!」
「……好きなの?」
「カレーピラフの次に好き!」
「……私、あなたの中でカレーピラフが何位か知らないから。それに……売り切れみたいだけど」
「え!」
元気だった弓ヶ崎さんがしおしおと萎れた。ぬか喜びというか、喜んだ分ガッカリも大きかろう。
もうひと押ししてみる。
「……ほらやっぱり」
「んーん。夏はまだこれからだし。こんなの不幸に入らないよ」
「……あ、そ」
頑なに認めようとしない弓ヶ崎さん。立て続けに二度もあったのだから諦めればいいのにと正直思うけど、焦ったりはしていなかった。
その内、嫌でもわかるから。
「えー! もうチケット買えないんですか?」
悲痛な叫びを上げるのはもちろん弓ヶ崎さん。遅れてきた電車で水族館に到着し、真っ先にイルカショーを観ようとチケット売り場にやって来て、そしてこれ。
がっくり肩を落とす彼女を見て、売り場の係員も本気で申し訳なさそうにしていた。
「申し訳ございません。大変人気で、午後三時からのチケットしか残っていなくて……」
「あと四時間かぁ……うぅ、早く観たかったのになぁ。イルカぁ……」
「……電車が遅れてなければ買えたかもね」
「しょうがない。三時からのチケット二枚ください!」
ガッカリしながらも二枚のチケットを買い、鞄にしまい込む弓ヶ崎さん。くるりと振り返った彼女は、既にいつものにこにこ顔。
「よし! 行こ!」
「……イルカショー、残念だったね」
「うん……あたし、好きなものは先に食べる派だから」
「……ふうん?」
「でも観られなくなったわけじゃないしね! 楽しみが後にあるのもワクワクしていいかも!」
「……だ、だから引っ張らないで」
それからまず、二人で館内を一周することになった。
けどそれも楽じゃなかった。行く先はことごとく混雑していてゆっくり観れず、アイスを持った子供にぶつかられて服は汚れ、ついでに泣かれた。トイレに行けば清掃中、クラゲの水槽は点検中、警備員は巡回中で、なぜか二人して荷物検査を受けたし。
午後一時を回った頃、私達は三十分ほど並んだ末に、ようやく昼食を食べるために腰を落ち着けられた。
テラス席。晴れていれば素敵なロケーションだろうけど、曇天の下のテラス席なんか、むしろ冷たい風に当たるだけの罰ゲームだ。
「ふぅー……あたしお腹空いちゃった」
「……寒い。空模様もよくないし」
「今にも降りそうだね」
「……今日は雨のち晴れの予報。曇りで済んでるのがラッキーなの」
「じゃあむしろ運がいいよね!」
「……あのねぇ。今日散々小さな不幸に見舞われたのを忘れたの?」
「大したことじゃないよ? 鮫に食べられてないし」
「……それは大惨事って言うの。そうじゃなくて……一個一個は小さくても、重なるとうんざりしてくる。せっかく遊びに来てるって時に、そういうの余計煩わしいでしょ?」
休日とか、学校行事とか、修学旅行とか。そういう、気分を上げたい、リフレッシュしたい時に一々邪魔が入るのは、一度の大きな不幸と遜色ないくらい、嫌なことだと思う。積み重なるのは、相当大きなストレス。それを弓ヶ崎さんも、既に十分味わっているはず。
けれど、彼女は屈託なく笑う。
「あたしは楽しいよ? 明里ちゃんといるの」
「…………」
その迷いのない断言に、私は返す言葉を失った。
普段ならいくらでも反論が思い浮かぶのに、なぜか頭が真っ白になっていて、全然思いつかない。
それは多分、不意を突かれたからだ。楽しいって言われると思っていなかったから、なんの準備もできていなくて、反応に困る。
煙たがられたことしか、なかったから。
「…………」
私の胸がなにかを訴え、言葉にさせようとしている。けれど上手くまとまらない。
私がもどかしさに詰まっていると、
「あ」
「……あ」
冷たい雫が頬に当たった。それを合図にしたかのように雨足は強くなり、床を乱暴に叩きはじめた。
私はなにを思ったのか。それを自覚して、形にするより先に、
「……中に避難しよう」
そう、口にするしかなかった。
午後二時半。豪雨に呑まれる巨大なプールを窓越しに見ながら、私と弓ヶ崎さんは立ち尽くしていた。
「雨やまないね」
「……雨は予報通りだから」
「イルカショー……観られないのかな……」
「……このままだと無理かもね」
もう何分もしない内に、きっとアナウンスが入る。弓ヶ崎さんが今日一番楽しみにしていた、イルカショー中止のアナウンスが。
弓ヶ崎さんが悲しそうに目を伏せる。あれだけ不幸続きでもあっけらかんとしていた彼女も、これはさすがに堪えているらしかった。
その顔がチクリと胸を刺す。
……やっぱり、弓ヶ崎さんは私と一緒にいるべきじゃない。
「……ほらね。私といると不幸になるでしょ。これに懲りたら、もう私に関わるのはやめなさい。あなたの生きる世界はこっちじゃない」
「え……明里ちゃん、どこ行くの?」
「……帰る」
「だ、だってすごい雨降ってるよ!? 傘持ってるの!?」
「……私にはお似合い」
くるりと背を向けて数歩を歩いた時、ふと、私の口から言葉が漏れた。
「……久しぶりに誰かと出かけて楽しかった。ありがとう……ごめんなさい」
そしてもう振り向くまいと決め、足を踏み出した、その時。
「待って!」
手を掴まれ、痛いほど引っ張られる。弓ヶ崎さんの決意に満ちた瞳が、私をまっすぐ射抜く。
「来て!」
「……ちょ、ちょっと……」
有無を言わさず引かれた先は、イルカショーのプール。観客入口手前でようやく解放された私は、混乱のままだった。
そんなわたしに弓ヶ崎さんは一言、
「待ってて! すぐ戻るから!」
と残し、扉を開けて外へ飛び出していった。
十数秒。意味のわからない状況からようやく復帰する私。
「……って、弓ヶ崎さんなにバカなこと……!」
勝手にプールに行くなんて、怒られるとかそういうレベルじゃない。非常識だ。学校に知れたら停学もありえる。
しかも豪雨の中に傘なしで、一人で飛び出して、もうツッコミが追いつかない。
「……弓ヶ崎さん!」
後を追う以外の選択肢は残されていなかった。
観客も演者もいないプール。そこで目にしたのは。
「雨ーーーーっ! やめーーーーっ!」
濡れ鼠になることも厭わず、黒雲に向けて叫びを上げる、弓ヶ崎さんの姿だった。
……なにやってるの? と、常識的な私は急いで彼女を連れ戻すため、駆け寄ろうとした。
けど。
「どうして!? どうして明里ちゃんに酷いことするの!?」
「……え?」
思わず、立ち止まる。
「イルカショーが中止になったら、明里ちゃんまた自分のせいだって思っちゃう! そんなわけない! 電車が遅れるのもチケットが買えないのも大雨が降るのも、明里ちゃんはなんにも悪くない! そうでしょ!?」
……なに、バカなことしてるの。私は納得してるし、空に向かって叫んだところで、なにか変わるわけでもないのに。
「明里ちゃんは優しいんだよ! みんなを巻き込みたくないから独りでいたがってるの! 本当は誰かと一緒にいるのも好きなのに、ううん、好きだからこそ不幸に巻き込みたくないって、そう思ってる! だって明里ちゃん、あたしのことを嫌いって言わなかった! 誰のことも嫌いって言わない!」
……そんなに熱くなって恥ずかしくないの? もう高校生なんだよ? しかも自分のためですらない。なんの得もないじゃない。
「あんなに優しい子に酷いことするのはやめてよ! 不幸の病原菌だなんて、明里ちゃんにそんなこと思わせたり、言わせたりしないで!」
……そんなことしてもなんの意味もない。でも、そんな無意味なことをさせてるのは私で……多分、私が認めるまでこの子は諦めないのだ。それを今日、私は嫌というほどわからされた。
「明里ちゃんは独りぼっちにならない! あたしがさせない! だって……だってあたし! 明里ちゃんといるとすっごく楽しいもん!」
……ここまで身体張られちゃったら、応えないわけにはいかないじゃない。弓ヶ崎さんにも……私の本音にも。
「……あーもう! バカなことはやめて!」
私は堪えきれず、暴走する弓ヶ崎さんを止めた。口で言っても聞かないだろうから、びしょ濡れの肩を掴んで。
「……本当にバカじゃないの!? 空を説得するとか、本当に意味あると思ってるの?」
「ある!」
「……ないから! いいから早く戻って! びしょびしょだし、水族館の人に怒られるって!」
「でもまだ雨をやませてない! 明里ちゃんのせいで不幸は起きたりしないって証明するの!」
「……わかった、わかったから! この雨は私のせいじゃない! ただの偶然! これでいいでしょ!」
「本当? もうどうにもならない不運を自分のせいにしたりしない?」
「……しない!」
「明里ちゃん自身を傷つける嘘を吐いたりしない?」
「……しない!」
「本当に本当?」
「……本当に本当!」
私のためにこんなバカを全力でして……嬉しくはあるけどめちゃめちゃ恥ずかしい。それに雨は寒いし、もうなんでもいいから早く戻りたいというのもまた、大きな本音だった。
なのに弓ヶ崎さんは食い下がる。もう勘弁して……。
「じゃあ、また一緒にいてもいい? 遊んだり、お出かけしたり、してもいい?」
「……どうせ嫌がっても付きまとうんでしょ。好きにしたら」
「やたっ! ……あっ、見て! 雨やんできた!」
彼女が指す遠くの空から白んできて、降り出した時と同様、あっという間に雨は去っていった。
大雨は嘘のようにかき消え、太陽が顔を出した空には虹が架かっていた。まるで『もういいよ』と、今まで私を責め続けていた誰かが、私を許してくれたみたいに。
……まぁでも、天気は予報でも雨のち晴れだったし。
「また不幸が起きて、明里ちゃんが自分のせいだーって思い込んだら、あたしが止めてあげる!」
「……いや、」
だから晴れる予報だったってば……そう言いかけたけどやめ、私は代わりに微笑むことにした。
「……そうね。その時はお願いする」
「うんっ! 任せて!」
だって、友達のおかげにしておいた方が幸せだから。