アッシュ、悪霊に憑りつかれる?
部屋に踏み込んだ途端、景色が切り替わる。そこに置いてある筈のダイニングテーブルも、椅子も、本来あるべきものは何もなく。それなりの広さがある部屋の真ん中に一人の男が立っていた。
安っぽい皮鎧、腰に下げた片手剣、そしてその手の得物は中型弓。中肉中背よりもやや大きな体躯と合わせて誰なのかは明らかだが、頭が乱雑に墨で塗りつぶされてその顔を確かめることが出来ない。
「ちぃ…… 趣味の悪い悪霊だ」
俺の文句にその男は黒塗りの隙間からニヤと厭らしい笑みを浮べる。本当に最悪だ、周囲を見渡せばアリアも、レイナも、そしてチャコも見当たらなかった。どうやら俺だけが悪霊にとり込まれてしまったらしい。
「よりにもよって、オッサンなんて。こういう時は恋する相手じゃないのかよ」
俺は銀の剣を両手で構える。相手の性質が分からない以上、不用意に攻撃することは出来ない。ただしこんな迂遠な手を使ってくる以上、俺を即死させるレベルの力がないのは確かだ。
『お前は憎くないのか――?』
室内に女の声が響く。恐らくはこの屋敷で失意のうちに命を落した王妃の声か。はたまた別の何かか。どちらにせよその声は甘く俺を誘い、それに合わせてゆっくりと意識が混濁し理性が緩んでいく。
不味い! 足を踏み込み金音を響かせる。その衝撃でどうにか思考を保つが――
「そりゃ、来るよなっ!」
先手を取られた。前に立つ男が弓を引き絞り、俺に向けて撃ち放つ。ギリギリの所で銀の剣で切り払うが想定より威力が強い。その結果更に俺が前に出るのが遅れた。
『憎くないのか――?』
一度オッサンを追放した時、俺は何を考えていたのか。間違いなく黒い感情があった。失望があった。アイツの事を無能だとすら思っていた。
再び敵が矢を放つ、こちらを嘲りながら後ろに下がりつつの4連射。
それを俺はしゃがんで前に踏み込み避ける。一本は俺の背中を掠め、二本目は俺の剣が弾き、三本目は俺の左右を駆け抜ける。
「最高に、気に食わねぇ……っ!」
踏み込む、踏み込む、踏み込む! 石畳に鋼の音を響かせて、俺の体はどんどん加速していく。俺を嘲る顔を剣域に捉えた。銀の剣を突き入れるが、目の前の男はひらりと身を翻しその一撃を避けてケテタケタと笑い嗤い哂う。
「アイツはなぁ! 力も対してねぇ! 魔力は並かそれ以下! 真正面からなら俺が切り捨てられる程度にザコで! 気合が入ってねぇ時はただの無能だ!」
更に踏み込む。ガン! と悪霊の足元を踏みつける。ここで初めて目の前の顔が驚きに歪む。実は大した理屈ではない。ブーツに仕込む鉄を銀に入れ替えて、幽霊の影を縫い付けただけでしかない。
「だがよ、テメェみたいに雑な戦い方はしねぇよ。グレック=アーガインは」
俺の記憶を読み、それ以上のオッサンを再現しようとしたのだろう。矢の4連射なんてふざけた真似も、馬鹿みたいに強い力も。シンプルに数を増やし、力を上げれば強くなるという判断だったのだろうが。どうやら相手は記憶を読めても、オッサンの強さは理解出来なかったようだ。
剣も握ったこともない王妃様なら仕方がないが。慈悲をかけてやる理由もない。
「もっとクソ意地が悪くて、もっと悪辣で、もっと不敵に笑うんだ」
俺は左手に握った瓶の蓋を外して、目の前で動けない偽物の顔面に聖水を叩き付ける。多少値は張るが、俺を取り込む程の悪霊だ。ここでケチるのは俺を安く見るのと同じだ。聖なる祈りの浄化の力が墨塗りの顔を光の粒に還元していく。
『オ、オ…… オォォォオォッ!』
男とも女ともつかない叫びが、部屋全体から響く。だが断末魔には一歩及ばないのか、最後の一撃とばかりに俺に対して両手を突き出してくる。
「しつこいんだよ、さっさと消えやがれ!」
トドメとばかりに俺が振るった銀の剣がグレックの偽物を両断する。その勢いのまま悪霊は飛び散り消える。一拍の残心を挟み、剣を鞘に納めて瞬きをすれば――
迷宮と化していた屋敷がゆっくりと解ける中で、あっけにとられたアリアと、レイナ、そしてチャコが俺を見つめていたのであった。