9 今日の空へ飛び込んだ
校門を出たマキリは、路肩に止められていた緑ナンバーの車に近づいた。個人タクシーだ。
助手席に座り、俺たちに乗り込むように言う。
どうやら先程の電話でタクシーを手配したらしい。
言われるがまま後部座席に腰を下ろす。マキリは運転手に淡々と何処かの住所を告げた。栃木県だった。疑問符が大量に浮かぶ。とてつもない距離だ。運転手も戸惑ったように言われた住所をナビに入力している。近場ならまだしもそんな遠距離の場所まで把握しているはずがないので当たり前といえば当たり前な対応だ。
ナビに表示されたルートは当然ながら高速道路を優先した経路図だった。
「それじゃあ、出発しますよ」
初老のドライバーがギアをドライブにいれると同時に車がゆっくりと動き出す。新緑まぶしい国道をタクシーが走り始めた。
「お、おい、マキリ、そんな遠くまで金大丈夫なのかよ。俺、五百円しか財布入ってないぞ」
しかもお弁当代だ。
「お金のことなら心配するな。そんなことより私は眠いから寝るぞ」
「はあ?」
「今朝朝焼けを観察していてな。美しい曙光だった」
「いや、そんなことより、一体どこに行こうと」
「ぐう」
「寝るの早すぎだろ!」
のび太くん並の快速だ。
結局目的地がわからないままタクシーは走り出した。無香性の車内香水に包まれたまま、気まずい沈黙が俺たちを包み込む。固いシートに居心地の悪さを感じながら隣に座る鳥居千景を観察する。
睫毛が長かった。赤くなった左頬を、よくよくみると指の形になっていた。
「……」
見ているのがバレた。
鳥居さんは横目で俺を睨み付けると「なに?」と不機嫌そうに訊いてきた。
「いや、なんで死のうと思ったのか、気になって……」
「……どうでもいいじゃない。そんなこと」
ETCレーンを通過すると同時に車内に機械音声が流れた。これから高速だ。
「死にたい訳じゃないの。生きるのが辛いだけ」
ぼそりと鳥居さんは呟いた。
「……ねぇ、そんなことより、猪俣マキリってなんなの?」
「俺にもよくわかんないだけど、なんか凄い空が好きらしい」
「空? そうなんだ……素敵ね……」
儚げに見えた鳥居さんとは対照的に猪俣マキリは健やかな寝息をたてていた。
タクシーが速度をあげて、高速を走る。景色はあっという間に後ろに過ぎていき、はじめは看板を楽しく眺めていた俺たちもいつしかぐっすりと睡眠に落ちていた。
タクシーが着いたのはだだっ広い広場だった。
草原と言っても過言ではない。
時計をみると車に乗ってから二時間が経過していた。爆睡してしまったらしい。夜眠れなくなりそうだ。
運転手にクレジットカードで料金を支払った猪俣マキリが助手席から降りてくる。
「おい、ここどこだよ」
「ついてこい」
タクシーが排気ガスを吐いて、道を戻っていく。帰りの船が出てしまったような寂しさを覚えた。
夏の日差しの下、マキリについて進むと、白いテントが見えてきた。祭りや防災訓練の時、校庭に設置されるようなイベント用のテントだ。その下にブルーシートがしかれ、等間隔にリュックサックが置かれていた。
「なんだ、これ」
「こんにちは!」
「!」
ムキムキマッチョの群れに回り込まれた。
いつの間にかガタイのいい男たちが複数人で俺たちを囲んでいた。軽く恐怖である。
「今日はよろしく頼む」
彼らに気さくに挨拶を交わし、マキリはテントの下の長テーブルに置かれた書類にサインした。
「初めての人たちだね!」
なぜか上半身裸の厳つい男が白い歯を見せて俺たちに微笑んだ。
「緊張してるのかな!」
「……」
俺と鳥居さんは現状に脳が追い付かず、言葉を紡げずにいる。
「初心者はタンデムジャンプだよ! 飛び方の講習を始めるからよく聞いてね!」
「はい?」
「今日はヘリで上空に行くよ!」
「……はい?」
「いい返事だね! それじゃあ飛び立つときのポーズはこう!」
なんだこれ、なんなんだこの状況!
理解できずに辺りを見渡す。テントに黒字で『スカイダイブ』と書かれていた。
スカイダイビング場につれてこられたと気づくのに時間がかかった。いや、もっと早くに気づくチャンスはあったが、認めたくなくて見て見ぬふりをしていたのだ。
だけど、これはもう、確定だ。
説明はびっくりするくらいあっさりしていた。俺と鳥居さんは混乱したまま、長机の上の書類にサインする。逃げ場を失った。
もちろん強制のものではないので、断固拒否すればサインをせずに済む。それでも俺がペンを握ったのは、マキリや鳥居さんに対する男としての矜持と単純にスカイダイビングに興味があったからだ。
ハーネスを体につける。いまだに現実感が伴わない。昨日は自室の布団で睡眠をとったはずなのに、そんな些細なことが遠い過去に思われた。
名前が呼ばれた。
ヘリに乗り込む。
ヘリ。ヘリコプター。
一生縁がないと思っていた乗り物に、俺は乗っている。授業をサボって。みんなが教室で漢文を習っている時間、上空3500メートルに向かってグングンと高度をあげていく。ふわりと浮き上がった瞬間思わず頭を抱えてしまった。
地上が遠くなっていく。空に近づけば近づくほど、恐怖感と現実感が俺の体を包み込んだ。感動はほぼほぼない、いよいよその時がやって来たんだ、とうなだれた。極度の緊張で心臓の鼓動と一緒に震えが起きそうなほどだ。
「おお、富士山が見えたぞ」
マキリだけが騒がしい。
どうやらスカイダイビングポイントに到着したらしい。ホバリングするヘリの中でキリスト教徒でもないのに「アーメン」と祈りを捧げる。
緊張で吐きそうだ。やっぱり止めたくなったが、インストラクターと繋がれているので、そういうわけにもいかない。雲が下に広がり、俺たちは青空に包まれていた。
高い。ただひたすらに。通常であればたどり着くことのできない場所に俺たちはいた。
マキリが憧れ、鳥居さんが飛ぼうとした空に俺は今いる。
インストラクターがカチャカチャと装備を整え、逃げ場を失った俺たちは、彼らの呼吸を背中に感じながら、もう後戻りができないことを悟った。
ヘリのドアが開いた。ゴオオオオという風の音が響いた。
命の危機を感じ、脳が危険信号を灯すが、足をすくめる暇はない。
ヘリの外に足を投げ出し、「ゴー!」という合図とともに俺の体は空中に投げ出された。
ジェットコースターに乗っているときに感じる浮遊感が全身を包み込み、青空を切り裂いているのが肌でわかった。あの日見上げた雲を抜け、全身で風を感じる。
俺はいまなにをやっているんだろう、と脳裏をよぎった。端から見たらただ落ちているだけだってわかっているが、空を飛んでいるような錯覚に囚われる。風の音が耳を支配し、少しの冷気を肌で感じた。眼下の地上にミニチュアのような町が広がっている。遠くの地平線がゆったりと湾曲しているのを見て、地球は丸いのだと再認識した。
引力によって地上に落下しながら、初めて味わう感覚に胸が震えるのがわかった。
こういうのをエキサイティングというのだろう。日本語でいうなれば爽快だ。
気づけば恐怖感は無くなって心地のよさだけが俺を取り巻いていた。
イヤなことが全て飛んでいくような晴れやかな気分になった。
親、進路、兄貴、勉強、将来。
パラシュートが開いた。開かなきゃ死んじゃうのだから当たり前だ。再びふわりと体が浮き上がる。
世界一濃厚な一分間が終わり、空中遊泳が始まった。生きたことがない座標をすごし、町や田んぼや空や雲を見渡す。
サイコーな気分だった。
みるみる近づく地面に、「もう少しだけ待ってくれ」と頼んでみても、言葉はすぐに風にかき消された。
教えられた通りに足をだし、地面に着地する。衝撃は全くといっていいほどなかった。
大地を踏みしめて、さっきまでいた場所を見上げてみる。
マキリが空に焦がれる気持ちを少し理解した。
改めて地面に立つと、地球の雄大さを足の裏で感じることが出来た。
帰りのタクシーの中でもマキリは爆睡していた。
せっかくの感想の言い合いが台無しだ。
刺激的な体験をプロデュースしてくれたことに感謝を告げたかった。
「すごかった……っ!」
鳥居さんも同じ気持ちらしい。吊り橋効果かわからないが、目を輝かせる少女が妙に可愛く見えた。