8 歯を食いしばれ
屋上から校舎内に戻るとき、慌てて階段を登ってきた体育教師と踊り場ですれ違った。「待ちなさい!」という声を無視して、マキリと鳥居さんは歩いていく。
「おいこら!」
「いまはそっとしておいてください……」
残された俺がなんとかフォローする。事情説明を求められたが、「マキリが自殺を食い止めたみたいです」としか言えなかった。
より詳しく聞かせろと怒鳴られたので、「わからない」の一点張りを続け、なんとか解放されたのは数分してからだった。このまま体育の授業に戻るのも気まずいので俺はトイレに篭って時間を潰すことにした。
マキリたちはどうしたのだろうか。ふと気になったので、二年四組に様子だけ見に行くことにした。
授業時間帯の廊下は漏れ聞こえる教師の声以外の音がほとんどない。廊下は冷房の風がゆったりと流れていた。
静けさに包まれた廊下に一定のリズムをもって、コンコンとノックの音が響いていた。
音がする方を覗いてみると、無言で教室の扉をキツツキのように叩く猪俣マキリがいた。
「なにしてんの?」
「中に入れてと頼んで先生に拒否されたの……」
鳥居さんが答えてくれた。その間もマキリはただひたすらに壊れた人形ようにノックを続けている。
中の生徒たちにとっては迷惑極まりないだろう。
ついに辛抱たまらなくなったのか、引き戸がガラリと開いた。
「いい加減にしろ!」
教師に一喝されて、空中で握りこぶしを握ったままの状態のマキリは、その叱咤を気にしたふうもなく無表情で受けた。
数学教師の佐藤先生だった。先日から彼の受難は続いているらしい。
「中に入れさせてくれ」
「ダメだといってるだろう。いい加減にしてくれ」
「いい加減にするのは貴様だ」
バチバチと睨みあっている。どう考えても自重すべきはマキリである。
二年四組内のこそこそ話が廊下にひっそりと流れ込んできた。
「たくっ、なんだってんだ、お前は……ん」
佐藤先生はマキリの奥で所在無げに佇む鳥居さんをみつけて、「鳥居じゃないな。どこに行ってたんだ。授業始まってるぞ。早く中にはいれ」と半開き状態だった扉を全開した。このクラスの生徒である鳥居女史には授業を受ける権利がある。
「ご苦労、ドアマン」
「こら、お前じゃない!」
物知顔で教室に入るもんだから一瞬呆気にとられたらしい、マキリの侵入を許した先生は「とっとと出てけ!」と叫んで、マキリの肩を力強く掴んだ。
「ドントタッチミー。セクハラと騒がれやすい昨今、よく躊躇いもなく異性の肩を掴めるな」
「部外者を中にいれるわけにはいかないならな。また授業を妨害する気だろう」
「学ぶ意思がないものに教えを問いても無駄だよ」
冷たい瞳で教室を見渡し、マキリは掴まれていた佐藤先生の手首を握った。
「おい、いい加減に……お、おわぁぁ!」
手首を捻り、事も無げに成人男性を組伏せる。
「この世で一番の尊い力はなんだと思う?」
そのまま体制をずらし、アームロックを仕掛ける。豊満とはいえないマキリの胸と腕に絞められて佐藤先生は呻き声をあげた。
「それはね、暴力だよ。どんなに知識をたくわえようと暴漢のナイフの一振りで全てが無に帰すんだ。だから私は知識を極めるにあたってまず体術を極めた」
佐藤先生の口から蟹みたいなアワがブクブクと出てきた。
気を失ったらしい。ほとんどテロリストだ。教室中の誰もが動けずにいる。
ドダン、と文字通り床に佐藤先生を転がして、マキリは猛禽類を思わせる鋭い視線を一人の女生徒に送った。
「ヒっ」
引き付けに似た悲鳴が起こる。
マキリは自分をとりまく視線を意に返さず、威風堂々とした様子で歩き、一人の女生徒の前で止まった。
「有海蜜柑」
「……な、なによ」
「歯を食いしばれ」
名前を呼ばれた生徒が恐怖に唇を震わせると同時に、マキリは彼女にビンタを食らわせた。
「な、な」
突然のことにざわめく教室。
「なにすんのよぉ!!」
いきなり攻撃を食らった久地さんは糾弾の声を挙げたが、マキリはすでに移動して、別の女生徒の机の前に立っていた。
「桜井有美」
「……」
「歯を食いしばれ」
無視を決め込み、ふてぶてしく睨み付ける桜井さん。マキリもまた無表情に右手にスナップを効かせて彼女にビンタを浴びせようとしたが、
「……っ!」
事も無げに左手でガードされた。
「アタシ、小六から空手習ってっからそんなど素人の、ふぐぇッ!」
勝利宣言をしていた桜井さんのお腹に猛烈なボディーブローを食らわせて、マキリは踵を返した。
机に悶絶したまま倒れ伏せる桜井さん。
「永原美優」
「い、いや、こないで」
「歯を食いしばれ」
パァンという小気味よい音が響く。シュールな光景だった。
誰もが出来の悪い茶番劇を眺めるように、非現実的な光景を眺めていた。
その後数人の女生徒をビンタしたあと、マキリは教壇に立って、「いま私の攻撃を受けたものは悔い改めろ」と告げて教室を出た。
意味がわからなかった。マキリがドアを後ろ手に閉めると同時に「いまのなんだったんだよ!」と戸惑いの声が上がった。呻きながら、目を覚ましていた佐藤先生がこの事態を収拾することを祈ろう。
「すげェ……」
思わず呟いてしまった。無慈悲に首を切り落とす処刑人のようだった。
廊下に戻ってきたマキリは鳥居さんを一瞥をした。
「あ、あの……」
鳥居さんが伏し目がちにマキリを見た。
「ありがとう……少しだけ、少しだけだけど、胸がスカッと、」
「歯を食いしばれ」
「え?」
バァン、と廊下にビンタの音が弾ける。
予想外の攻撃を食らった鳥居さんは硬直したままの瞳でマキリを見た。
「悔い改めろ。ただ生きるのでなく善く生きろ。貴様が書くのは遺書ではない。契約書だ」
「契約書?」
「ついてこい。lesson2だ。筋肉に悟られるな。正しい飛びかたを教えてやる」
マキリはそのまま背中を向けた。ポケットからスマホを取り出し、どこかに電話始めた。なんだろうか。
そのまま別れるタイミングを失ったので、鳥居さんとともにマキリの後を続く。
マキリはスタスタと機械のように歩き始めた。授業終わりの鐘が鳴り響く。休み時間を迎え、一時期の解放感に酔いしれる沢山の生徒たちを煩わしそうに避けながら、マキリは歩き続けた。いまの時限に行われた自殺騒動とマキリのテロ行為を知っている生徒はどれだけいるのだろうか。凄まじい問題行動を起こした二名と、なぜか俺は一緒に行動している。単純にこの騒動の行く末が気になったのだ。