7 屋上に揺蕩う蜃気楼
最近はマキリと一緒にいるのが苦ではなくなってきた。
空部の活動は相変わらず不明だが,空の魅力を嬉々として語る少女の瞳はいつもキラキラと輝いていて綺麗だからだ。
岩野は俺を見て「気が触れたか」と肩をすくめた。彼のマキリに対するアレルギーも相当なものだ。
「話してみると悪いやつじゃないぜ」
と擁護してあげると、
「そうだとしても、あいつはちょっとイカれてる」
とニタニタと笑う。
「イカれてるってどういうところがだよ」
「いきなり授業中に他クラスに乱入するところとか。あとずっと前だけど、河川敷を掃除機持ってうろついてたらしい」
「……なんだそれ」
「意味不明だろ?」
はっきりと否定出来ないところが悲しかった。
七月に入り暦の上でも夏を迎えた。炎天下、体育の授業でグラウンドを意味もなく走らされていると、木陰に寝そべりノンビリと空を眺める猪俣マキリがいた。時間的には二時間目の授業中だ。
「なにサボってんだよ」
グラウンドの真ん中で偉そうに立って檄を飛ばす体育教師の視界から外れるように、木の幹を影にして、俺はマキリに話しかけた。
「蜃気楼が現れないかと思ってな」
アスファルトが揺らめくアレのことだろうか。
「光は密度が異なる空気があると、密度の濃い冷たい空気の方に進む性質があるんだ」
「ほう」
「例えば路面が太陽光で熱せられて非常に熱くなっているとき、その上には冷たいままの空気があると、光は曲がってしまう。人間の脳は光は直進するものとして処理するから錯覚が起こり、虚像が見えるというわけだ。これが蜃気楼。また一つ賢くなったな」
「聞いてねーよ」
「古代中国では蜃という巨大なハマグリが妖気を吐いて、楼閣を出現させるという伝説があり、そこから蜃気楼と呼ばれるようになった」
「ふぅん。そりゃ愉快なこって……つうか、授業でなくていいのかよ」
成績優秀の特待生の特権で出席が免除されていると岩野が言っていたが、さすがに信じられなかった。
「なんで自分より頭が悪いやつらの話を聞かないといけないんだ?」
「大人がバカに見えるってか。中二病ここに極まれりだな」
「私は高校一年生だ。十六歳。シックスティーン!」
なんで英語で言ったんだ、こいつ。
「そういや前アメリカの学校に通ってたって聞いたけど、あれほんとなのか?」
「事実だが、別にそんなことはどうでもいい。重要なのは現在だ。過去を振り返るやつはろくでもない」
「そんなら何しにこの学校来たんだよ」
「星の欠片を探しに来たんだ」
「なにその突然のメルヘンチック」
勘弁してくれよ、とマラソンで荒れた呼吸を整えていたところ、バカ真面目にトラックを走っていた一人の生徒が「あっ!」と声をあげた。
全員の視線を存分に集めてから、「先生あれ!」と屋上を指差す。フェンスの外側に一人の女生徒が立っていた。
ざわめきが起こる。
「な、なにをしてるんだ! 下がりなさい!」
偉丈夫の体育教師の怒鳴り声も普段からは考えられないほど弱々しい。少女は虚ろにグラウンドの俺たちを見下ろしていた。
まさかだろ。
辺りに緊張が走る。不謹慎極まりないことだが、非日常的出来事を見上げる生徒たちの瞳は野次馬根性に燃えていた。
「やばくないか?」
「えー、なにあれ、飛び降り?」
「自殺かよ!」
どのような言葉も屋上の少女の耳には届いていない。無表情に下界を見下ろしているだけだ。
「なあキミ」
マキリが小さく俺の袖を引っ張った。
「ナニを騒いでいるんだ?」
「なにって、……あの女、あんなとこに立ってたらヤバイだろ」
コメカミから汗の球が流れ、顎から地面に垂れた。熱さによるものか、マラソンの疲れによるものか、はたまた別の感情か、俺にはわからなかった。
「ヤバイ? なにが」
「自殺志願者だよ」
「自殺志願? 縁に立つことぐらいみんなするだろ。空を眺めるのに必要なことだし」
「危ないから今すぐやめなさい……」
「ともかくそれだけで自殺志願者と決めつけるのは早計ではないか?」
「お前はそうかもしれないが、あの子は違うみたいだぜ」
遠くてよく見えないが、今にも飛び降りそうな少女の表情は暗い。
「まあ万が一ということもある。こうしちゃおれんな」
マキリは言うやいなや、立ち上がって駆け出した。
「あ、おい、説得しにいくのかよ!」
呼んだが無視された。華奢な体がスプリンターのように弾け出す。
明け透けとしたマキリの言い方では傷付いた心を引き裂く可能性がある。止めなくては.
慌てて俺も走り出す。体育教師が「動くな!」と叫んだが、俺らに対してなのか、屋上の生徒に対してなのか、わからなかった。
マキリは足が早かった。校舎内を土足で駆け抜けた少女にようやく追い付いたのは、屋上のドアが開け放たれるタイミングでのことだった。
鉄製のドアが蝶番を軋ませて勢いよく開く。夏の風が踊り場に吹き込み、熱気が淀みが一気に流れていく。天井が無くなると同時に、青空が広がった。
「そこの女!」
マキリは叫けびながらフェンスに走った。初めて屋上に入ったが、室外機や配管が伸びているだけの簡素な空間だった。
「希死念慮を抱く気持ちは自由だが、場所を選べ!」
女生徒はびくりと肩を震わせて振り向いた。幸の薄そうな顔をしていたが、そこそこ美人だった。自殺願望を抱くとは思えないほどに。
「なに、あんた……」
「どうやって入ったんだ、キミ!」
マキリは大きく一歩を踏み出した。
「こ、こないで!」
「ずるいぞ! 私だって屋上の立ち入りを禁止されているのに、なに勝手に入ってるんだ!」
「え、え、は?」
なにを言っているのか理解できなかった。マキリの右手を掴んで、引き留めようとしたが、振りほどかれてしまった。
手をそのまま腰にあて、仁王立ちしたままマキリは続けた。
「正式に訴える! 屋上という場所に対して、先に目をつけていたのは私だ!」
「……え?」
「ここで死なれると、空部の活動拠点として屋上が採用される可能性が著しくゼロになるじゃないか! 樹海で死ね!」
自分本意の考えがすごい。
「な、なんなのよアンタ!」
「私の名前は猪俣マキリ、空部部長だ。こんな快晴の日に死のうだなんて、光化学スモッグ以上に迷惑なやつだな!」
「は、はぁ!?」
「ちなみに快晴というのは空に雲が一割以下の時のことを言い、」
場の空気は完全にマキリのモノになっていた。
「光化学スモッグは工場や車の排ガスに含まれる窒素酸化物や炭化水素が、日光の紫外線と光化学反応を起こし、刺激性のある大気汚染物質が生成され、それがが霧状で停滞していることをいう」
「なんの話よ!」
「光化学スモッグの話」
「そんな下らないこと言いに来たの?」
「無論違う」
ぼそりと「下らなくはないが」と呟いてからマキリは続けた。
「屋上は空部が発足したときから活動場所として申請してきたんだ。危険だからと要求が通ったことはないが、いつか必ず通そうと考えていると私のプランの邪魔をするな!」
マキリは怒鳴った。大声をだして疲れたらしい。
「む」
ふと彼女の視線が縁石に揃えられた上履きに止まった。上履きを重石にするように封筒が置かれている。
「……それ遺書か?」
赤いゴムの上履きに白い封筒。
屋上の風が激しく吹く。
「だ、だったらなによ!」
「読ませてくれ」
「だ、ダメに決まってるでしょ!」
「なんでだ。せっかく書いたんだ。誰かに見てもらったほういいだろ」
「だとしてもアンタには見てほしくないわ。見ず知らずの他人に心情を知られたいとは思わないし、そんな余裕ないんだから」
「人生の最後を『儚い』と『履かない』のダジャレで終える余裕はあるのにか?」
「……」
「読ませてくれ」
「いい加減にしてッ!」
唾を飛ばして自殺志願者の少女は大声をあげた。いたたまれない。
「それは告発文なの! あんたが読んだって意味ないわ!」
「死ぬんだったら、その後どうなろうが、どうだっていいだろ」
「……な」
「死んだら土に還るだけだ。そこに意思なんて介在しない。ならば、私がその遺書を一読しようが変わりはないわけだ。頼む、お願いだ。死に行くものがなにを思うのか。天に昇る前になにを思うのか、気になって今夜眠れないじゃないか」
「なんなのよ、あんた、ほっといてよ」
「よしわかった、等価交換だ。私の宝物をやろう、それとトレードだ」
マキリはそう言って臆することなくスタスタと歩き、フェンスを挟んで少女の正面に立った。
「はいこれ」
網目越しになにかの授受が行われる。
「……なにこれ」
「ポケモンシール列伝の最強のファイヤー」
「いらないわよ!」
突き返されるマキリは少し寂しい表情を浮かべた。
「わかった『もっとつよいカメックスがいるぞ!』もつけよう!」
「いらないって言ってるでしょ」
「交渉決裂ね」
おどけたようにマキリは続けた。
「強情者にはなにを言っても無駄。譲歩は終わりだ。こうなったら強制だ」
醜悪な笑みを浮かべた。屋上を吹き抜ける爽やかな風でさえ淀んで見えた。
置かれた上履きをどけ、遺書を手に取り、「やめて!」という声を無視して、マキリは封を切った。
「なんなのよぉ、あんたぁ……」
女生徒は泣き崩れた。当たり前だ。自分の思いが見知らぬ女子に暴かれようとしているのだから。
「ふむふむふむ。なるほどなるほど。これは酷いな。読んでて腹立ってきた」
ぱっと一瞬見ただけで、読み終わったらしい。マキリは手紙を封筒に戻し、項垂れる少女に声をかけた。
「こんなことされて黙って死ぬのか。敗北者じゃあないか」
「ほうっておいてよ……だから遺書で残したんじゃない……」
フェンスの網に悔しそうに拳を押し付け、呻いている。
「死んだら関係ないだろ。それにこの遺書には誤字が三ヶ所もある。内容も散らかってるし、点数をつけるなら70点だ。甘めの採点でな」
ありえん、こいつ。遺書に点数つけやがった。
「完璧主義者の私はこれを遺書とは認めない」
ビリビリに細かく破いて夏の風にばらまいた。
青空に舞う紙吹雪。とても美しい光景だったが、目の前で破かれた少女のショックは隠せない。
「なんて、なんてことするのよ!」
怒りの感情がもろにマキリにぶつけられる。
「何も成さずに死にたいというのなら、そこから一歩踏み出せばいい。そんなものは勇気とは言わないが」
マキリは笑った。
「正しい飛び方というを教えてやろう。貴様のちっぽけな世界をぶっ飛ばしてやる」
「……っ」
反抗する気も無くなったのか、はたまた遺書を破かれて消沈したのか、もしくはマキリにビンタを食らわせるためか、本意はわからないが、屋上の少女はフェンスをよじ登るために網目に手をかけた。
彼女の名前は鳥居千景というらしい。
俺と同学年で四組の普通科の生徒だ。頼んでもないのに、彼女がフェンスをよじ登る間の時間でマキリが教えてくれた。
こちらがわに戻ってきた少女は恨みを込めた暗い瞳でマキリを睨み付けている。
「あんたは、何様なの?」
「マキリ様だ。よし、それでは行くぞ」
「ちょ、ちょっと、行くってどこによ」
「二年四組」
そこは鳥居千景のクラスだ。
「は?」
鳥居さんと声がだぶった。