5 飛行機雲の未來
次の日はお休みだったので昼過ぎまで寝て、遅めの朝食を食べてから、暇潰しに近所の本屋に参考書を買いに行くことにした。
爽やかな初夏の陽気だ。すこし暑すぎるほどだが、寒いよりずっとましだ。
道中近道で公園を突っ切ると、麦わら帽子をかぶってカメラを首からぶら下げた少女を見つけた。猪俣マキリだった。
「よう」
すこし寝不足で気だるい体を引きずって話しかける。マキリは俺に気づくと「やあ」と返事をしてくれた。
「なにしてるんだ、こんなところで」
「雲を見てるんだ。とても楽しいぞ。キミも一緒にどうだい?」
「遠慮しておくよ。それじゃあな」
「まあそういうな。空を見てみろ」
引き留められた。声をかけたことを若干後悔した。
「あそこに雲があるだろ」
指差した先には小さなモクモクとした雲があった。
木陰とはいえ、吸う空気は夏の熱気で暖かい。長居はしたくなかった。
「……どこにでもあるだろ」
「やれやれ無知なる者はすぐにそう言う。そもそもにしてキミは雲がなんだかわかってるのか?」
「空気中の水分が集まって浮いているんだっけ、たしか?」
中学のとき理科で習った。
「それは間違いじゃないが、より正確にいうのなれば、海や湖の水が太陽の熱で温められて水蒸気になり、そのまま上空で空気中のチリや水や氷の粒と混じったものが雲だ」
やば、うんちくモードに入ったっぽい。とてもじゃないが聞いてられないので、一人で古今東西日本の妖怪をやることにしよう。ぬらりひょん!
「世界気象機関発行の国際雲図帳では雲の種類を10種類に分類している。上層、中層、低層でできる雲をそれぞれ三種類、三種類、四種類で分けているんだ」
あかなめ! あぶらすまし!
「ちなみにあそこに見えている下層雲は積雲、一般的にはわた雲と呼ばれるものだ。あれが成長すると積乱雲という入道雲になる。空高くモクモクとした夏を象徴する雲だ」
カッパ! ミンキラウワ! がんばり入道!
「雲の種類をある程度把握しておけば簡易的な天気予報をすることも可能だ。昔の人は雲の形やかかり方で天候を予測した」
ひょうすべ!
「あ!」
淀みなく説明を続けていた少女は言葉を止めた。
「見ろ!」
少女が指差した先には一機の飛行機があった。
いまどき幼稚園児でも飛行機に夢中にならないぜ。
「飛行機雲だ!」
「お、おう」
白い線を引くように、真っ直ぐに飛行機が飛び去っていく。
「なんだその目は……」
高校生にもなって飛行機に夢中になっている少女に哀れみの視線を送ったことを咎めるように、マキリは唇を尖らせた。
「いや、別に。子供っぽいところがあるんだなって思って」
「なんか腹立つ言い方だな。なら聞くが飛行機雲がなぜ出来るかちゃんと知っているのか?」
「飛行機の排気ガスだろ?」
「ブブー! 残念ハズレ! 正確には飛行機の出す排気ガスが元になって雲ができている、でした!」
おもいっきり人をバカにしたようにあっかんべーされる。
「高い上空だとチリやホコリが少ないんだ。湿度が100パーセントを越える過冷却状態であってもチリやホコリがないため雲ができていない、そういう状態の空を飛行機が通ると排気ガスのチリやホコリと結び付いて雲ができる、というわけさ」
ろくろ首! おぼろ車!
「水蒸気が水滴になる過程は冬に吐く息が白い理由と同じだ。息の中の水蒸気が急激に冷やされ空気中のチリやホコリと結び付いて白く見えるんだ。だからチリがほとんどない南極では息が白くならない」
口裂け女! こなきじじい!
「過冷却状態はいつも起こっているわけではないから、飛行機雲はできない場合の方が多いんだ」
紫陽花が強く香った。
遥か上空を飛ぶ飛行機のエンジン音は俺たちを包み込む蝉時雨に混じって聞こえない。
夏の風が木々の葉っぱを優しく揺らした。
飛行機を少女はファインダー超しに覗き、シャッターを切った。
少女と別れ本屋に行く。いつもなら受験本コーナーに直行するのだが、なんとなく科学本が置いてあるコーナーに移動し、気象についての本を立ち読みすることにした。一冊を手にとって開いてみる。書いてある単語は専門用語が多く、とてもじゃないが、理解できそうになかった。猪俣マキリは人に教えるのがうまいのかもしれない、と一瞬思ったが気のせいということにして、大学の受験案内と参考書探しで時間を潰すことにした。
ネットの評判が高かった数学と英語の参考書を購入し、帰宅していると、行きも通った公園にマキリがまだいることに気がついた。あれから二時間たっている。こいつも大概暇人である。
「よお」
「やあ」
ベンチに腰かけている。俺を上目遣いで見上げると小さく息をついた。
先ほどのハキハキした様子が信じられないほど消沈している。
「どうした?」
「ああ、なぜだかわからないが、体が暑くて目眩がするんだ。くらくらと立ちくらみもするから、ベンチに座って休んでいるところ」
「熱中症じゃねぇか!」
「ああ、これが……噂には聞いていたが、なるほど……死にそうだ」
「ちょっとまっとけ」
急いで自動販売機でスポーツドリンクを購入し、青い顔した少女に渡す。すぐさま横になるように伝えた。
持っていたハンカチを水飲み場の水道水で濡らし、彼女の額にあてがってあげる。購入した本の袋に入れられていたセールのお知らせチラシを団扇のようして、マキリを扇ぐ。
「ああ。気持ちいい……」
熱い吐息をついて少女は目をつぶった。少しだけ大人っぽくてドキっとしたが、状況が状況なので、自重する。
「スパシーパ。適切な処置だ。すばらしい……どこで覚えたんだ?」
「昔俺が熱中症になったとき、兄貴が面倒みてくれたんだ」
「いいお兄ちゃんだな」
「……ああ」
それは間違いないだろう。
そのまま数分扇ぎ続けて、腕の筋肉が悲鳴をあげ始める頃、
「ねぇ……」
目を閉じたまま、声をかけられた。
「ん、なんだ?」
パタパタと扇ぎながら返事をする。
「子守唄歌って……」
「……やだ」
「歌って……」
じっと見られる。少しだけ瞳が潤んでいる。
なんだこいつ、ひょっとして体調が悪いと甘えん坊になるのか?
「勘弁してくれ……」
「お願い、ねぇ……」
「……ねんねんころーりよー、おころりーよー」
「音痴」
デコピンを食らわせたかったが病人なので我慢だ。
「ぼうやーよいこーだねんねーしなー」
「……」
「……」
「ぼうやのお守りはどこにいった」
「ぼうやのお守りはどこにいった」
続きの歌詞あるのかよ。
数分歌うと、少女は穏やかに寝息をたて始めた。寝顔は本当に可愛らしく、まさしく天使のようではあったが、一つ不満があるとすれば、この状態の猪俣マキリを放置して帰ることができないという点だ。
日陰と言えど、空気は熱い。そよ風浴びるマキリは心地よいだろうが、風を作り出す側はなかなか辛い。
単調な動作と言えど、疲労は蓄積されていく。俺の額に汗が滲むのに時間はかからなかった。