3 二重の虹
翌日、まるで俺の気分を表しているかのようににわか雨がぱらついた。
それにしても昨日は奇妙なことになったな、と思いながら、授業を受けていると、教室中にノックの音が響き渡った。
数学教師の佐藤先生が眉間にシワ寄せながらドアを開けると、猪俣マキリが立っていた。
クラス中の視線を集めても表情を変えることなく少女は仏頂面で立っている。
「どうした?」
授業を妨害された先生が不機嫌そうに訊ねると、
「入っていいかな?」
「ダメだ。要件ならここで聞く」
「イヤだ。入らせてくれ」
「……なんなんだ、お前。いま授業中だと見てわからないのか。なん組の生徒だ」
「授業?」
猪俣マキリは首を傾げながら、黒板のチョークの文字に目をやった。
「嘘だろ!? お遊戯会の役割決めとかじゃないのか? これが高校生の授業?」
目を丸くして、綴られた数式を指差す。
「いくらなんでも生徒をバカにしすぎだぞ! この程度の問題、小学生だって理解できる!」
ちなみにこの間の中間試験で俺は数学で赤点を採った。
「こんなのは授業ではない。本を読めば学べることだ。教師とは常に生徒の知らないことを教えなければならない。無駄なことはすべきでない」
「いい加減にしろ! さっさと自分のクラスに戻れ!」
煽られた佐藤先生はたまらずにマキリを怒鳴り付けた。
「私を動物園の猿山に閉じ込めようとしているのか?」
きょとんと答えるマキリを見て佐藤先生は眉をしかめた。
「……まさか、お前、猪俣マキリか?」
「いかにも」
「っち。なんだってんだ一体」
佐藤先生は舌打ちをすると少女に背を向けた。
「入れ。授業を受けたいのなら一番後ろにいけ」
先生は苛立た気に、黒板前に戻ると教壇に置いてあった教科書を広げた。
「ありがとう。キミの退屈な授業は受けるつもりはないけど」
マキリはそういうと、スタスタと中に入ってきた。ポカンとするクラスメートの机の隙間を縫うようにして歩いて、俺の机の前で足を止めた。
「沢村」
名前バレした。
「窓の外を見ろ」
教室が一気にざわつく。
いったいなんなんだ、こいつ。
「急げ。時間がないぞ」
「……」
下手な発言は今後の人生を暗澹としたものに変えると判断した俺は極力反応しないよう出来るだけ静かな動作で、言われた通りに窓の外を見た。雨上がりの空に僅かに光がさしている。
「綺麗な虹だろ」
「……それだけかよ……」
太陽と反対側に虹が浮かんでいた。
「もちろん違う。よく見ろ」
目を凝らす。よくよく見ると二重になっていた。
「ダブルレインボーだ」
「は?」
「昨日、可視光線について説明したからいい機会だと思ってな」
ニタリと笑うと少女は呆ける佐藤先生は前へ行き、黒板消しで書かれていた数式を消した。
「な、なにしてるんだ」
「少し借りるぞ。無知なるものどもへ分かりやすく教えてやる」
ぐっ、と拳を固める佐藤先生。なぜ拳骨を食らわせないのか謎である。
「人間の目に見える光の範囲のことを可視光線という。波長が380 ナノメートルの紫の光から、780ナノメートルの赤い光までのものをさす。範囲外を赤外線、紫外線というのは周知の通りだ」
黒板に丁寧に可視光線と綴られる。
「空中の水滴粒子がプリズムの役割を果たし、光を屈折することで発生するのが虹だ。内側が紫、外側が赤のスペクトル。太陽と反対側の空で雨が降っているとき現れる円弧状の光のことだ。だから雨の弓という」
そう言って黒板にチョークで絵を描く。白一色だ。
「ときには二重の虹になることがある。その場合、内側を主虹といい、外側を副虹よぶ。副虹の色の並びは主虹とは逆になっている」
そう言って黒板に絵を描くが、やはりチョークの白一色だった。
「太陽からの可視光線は雨滴を通って屈折し、分光して虹を作るが、副虹では雨滴下部から入って内部で二回反射して上部からでる。つまり副虹は反射しているから、主虹よりも薄く一回りでかく色の並びが逆になっているんだ」
チョークを置いて、少女はまっすぐに俺をみた。
「ちなみに二重の虹より多く三重、四重の虹が発生することがあるが、これを高次の虹という。日本はもちろん海外でも演技のよいものとして知られている。消える前に見てもらえて良かった」
クラスの視線は一斉に空の向こうのダブルレインボーに向けられる。
「きれぇ」いかにも頭が軽そうな女子が呟く。
確かに美しい光景だが、授業を潰してまでやることではない。
猪俣マキリはしてやったりといった表情を浮かべてから、チョークを忙しなく動かした。数分と経たず描かれたのは、先程まで佐藤先生が綴っていた数式だった。一瞬しか見ていないくせに、記憶を頼りに復元したらしい。ノートと照らし合わせると、内容に間違いはなかった。
「それでは失礼する」
マキリはそれだけ告げて、教室を後にした。