1 スカイラインを飛び越えて
この物語はフィクションです。
知識不足に気付いても笑って許してください。
例えば世界の裏側で、いたいけな少女が無慈悲な弾丸に頭を吹き飛ばされていようと、日本で暮らす高校生の人生にはなんの影響もない。
身の回りは平穏そのもので、日常は滞りなく流れていく。大きな展開もなければどんでん返しもなく、起伏も無ければ、変化もない。
眠気を引きずったままホームルームを受け、気だるさに肩を落としながら午前中を過ごし、友達と雑談を交わしながらお昼を食べて、船をこぎながら午後の授業を受ける。
変わらないし、それ以上のことはない。
もし絵日記をつけていたとしたら、一年ぐらい未来のことまで描けるだろう。
変化なんて望んでいないし、俺はそれでいいとさえ思っていた。
重大な人生の危機に見舞われなければそれで。
きっと、俺の周りの人間もそうだろう。
放課後、いつもなら直帰する時間に図書室を訪れた。
鼻で息をすると古書の香りが鼻孔をくすぐった。
課題図書を借りねばならない。いつもなら地元の図書館へ行くところだが、毎週木曜日は休館日だ。
探しても見つからなかったので、カウンターに座っている図書係の岩野に『山椒魚』の所在を訊ねてみた。
「ああ、これなら第二書庫だな」
カタカタとキーボードを操作してから、気だるそうに教えてくれた。岩野はクラスの友達だ。
「第二書庫?」
岩野はこれ見よがしに親指でカウンターの後ろを指差し「第一」と呟いてから、明後日の方向を人差し指で指して「第二」と呟いた。
「どこにあるんだ? 案内してくれよ」
「いまお仕事中ー」
ひらひらと手を振られる。俺の他に人は居なかった。
「いいだろ。ちょっとくらい席はずしても」
「イヤだね。空部に会いたくないんだ」
「そら部?」
「この時間第二書庫は空部が使ってる」
「だれだよそれ」
「空を見て雲を見て星を見て世界を愛でる部」
「はい? とっち狂ったか?」
「そういう部活があるんだよ」
そんな胡散臭い名前の部が有ったなんて初耳だ。
「別に本を見させてもらうだけだろ。公共の場だし」
「そりゃ問題ないぜ。ただな、空部には猪俣マキリがいる。というか部員はそいつしかいない」
首をかしげると、岩野は意外なものでも見るかのように目を丸くした。
「まさか知らないのか。今年の新入生で総代だぞ。あんなムカつく挨拶を聞いて記憶に残ってないってどんな脳みそしてんだよ」
「寝てたから……」
「学校がハクをつけるために学費免除やらなにやらをつけて他所から引っ張ってきた超天才児らしいぜ」
「そんなバカな話あるかよ」
「俺だってそう思ったが、アメリカ在住時代は十一歳で大学に飛び入学し、在学中に博士号をもらったとかなんとか」
「なんの漫画の話だよ。そもそもなんでそんな人が日本に来るのさ」
「知るかよんなこと。本人に聞いてみれば? 第二書庫なら保健室の横だよぉん」
岩野は一切その場を動かないという覚悟を決めたのか、腕を組んでふんぞり返った。声をかけてもシカトされた。
廊下は部活に向かう人や帰りの予定ではしゃぐ声に溢れていた。再び静寂を求めるように、足早に移動し、第二書庫の扉をノックする。しばらく待って返事は無かったので、そのまま開けた。
中には誰もいなかった。さんざん脅かされていたので、緊張していたが、なんてこともない。
デカイ棚があるだけの空き教室だった。鉄製の組み立て式のラックだ。
とりあえず電気を着けて、室内をぐるっと一周してみる。カビ臭かったが、床にホコリなどはなく、掃除は行き届いているようだった。
奥まで行くと、机の上にキャンパスノートが置かれているのを見つけた。興味本意で覗いてみると古い新聞記事が貼り付けられていて、赤ペンで『?』と記されている。なんのノートだろうか。つまんでページを捲ると、河川敷の写真や地形図が描かれていた。郷土資料だろうか。見ていて面白いものでは無さそうだったので、ノートを元に戻し、本を探すことにした。
ラックには天井までぎっしりと本がつまっているが、すこし眺めたら法則が読めてきた。ジャンル関係なく著者順で並んでいるらしい。『山椒魚』の作者の名字は井伏だから最初の方だ。
ぎっしり詰まった本はまるで壁で圧迫感があり、長居はあまりしたくない空間だった。
背伸びして棚を探していたら、いきなり扉が開かれた。ビックリすると同時に嫌な予感が胸をよぎる。
「あ」
思わず声をあげてしまった。
締め切られた空気が廊下に逃げていく。
澄んだ双眸が俺を写した。
廊下の逆光に照らされた小柄な影が不機嫌そうな声をあげた。
「キミはそこで何をしてるんだい?」
思ったよりは可愛らしい声だった。
「いや、えっと」
突然のことで一瞬パニックになる。おそらく彼女が猪俣マキリだろう。
「ここは私の領域だ」
「……生徒なら出入り自由だろ」
「いんや、空部かそれに準ずる活動をしているものの立ち入りしか許可していない」
「準ずる活動?」
「む、そうかつまりはそういうことか」
そもそも『空部』というのが何を目的とする部活なのか不明瞭だ。首を捻る僕を見て、なぜか得心がいったように少女は頷いた。
「つまり、キミは入部希望者というわけだ」
「……いいえ」
長い髪が風に揺れた。
西日をバックに少女はズンズンこちらに来ると、俺の手を無理やりとって強く握った。
美人というより可愛らしい雰囲気を持つ人形のような女の子だった。
「凡人しかいないこの学校じゃ空の素晴らしさを理解してくれる人はいないと思ってたけど、どうやら認識を改める必要がありそうだ」
熱意から逃げるように慌てて手を振りほどく。
戸惑いを知ってか知らずか、俺を部屋の隅までズンズンと追いやると、少女は肩に背負っていた鞄をテーブルにドンと置いた。
「一応名前を訊ねておこう。部員になるんだ。他人を区別する記号は必要だからね」
「だから入部希望者じゃあ……」
「ダカラ? なんだか変わった名前だね。いや、失礼、思ったことをすぐ口にしてしまうタイプなんだ。まあいいや。副部長に任命してあげよう。もっとも君より優秀な人材が現れた場合、役職を解除する可能性があるから肝に銘じておくように。さて今日の研究テーマは……」
「話聞けって」
「よかろう、それではさっそく忌憚ない意見を述べてくれ、ダカラ」
すっと白い手のひらをつき出される。
「俺は入部希望者じゃない。ここに本を探しに来たんだ」
「本?」
きょとんとするマキリさん。
「本ならそこら辺にたくさんある。好きなのを選ぶといい。研究に関する本なら図書室のほうが充実しているが」
「探してる本があるんだ」
「手伝って上げよう。タイトル、著者、出版社、発行年月日、ISBNコードは?」
「タイトルは山椒魚」
「サンショウウオ科アンビストマ科プレソドン科の両生類だ。名前の由来は山椒に似た香りを放つ種もいるから。外形はイモリに似ていて、古くから黒焼きや干物を薬用としていたらしい。かつては縦半分にさいた山椒魚を川に放つとまたもとの姿に再生するという伝説から半裂とも呼ばれていた。日本特産種が多いけど、英語名は火蜥蜴で火の精霊と同義。文化としては大正十二年に『世紀』で発表された井伏鱒二の短編小説があり、岩屋に閉じ込められた山椒魚の絶望をユーモラスな筆致で描いた作品が有名」
「だから、それを読みたいんだって」
長い話の前半部分は全く頭に入って来なかった。
「? 読めばいい。それとも暗唱してあげようか」
「小説がここにあるって聞いて来たんだ」
「ある。一番上段の右から三番目」
「あ、ほんとだ」
恐るべき記憶力だが、いまは感謝だ。人差し指で棚からズラして本を取り出す。日に焼けた古い本だが、中が読めれば関係ない。
目的の物を手にいれた。
「どこで貸し出し手続きすればいいか知ってる?」
「読みたいのならここで読めばいい。それぐらいなら一分あれば充分だ」
薄いが、一分で読めるような作品ではなかった。
「いや、家でゆっくり読むよ」
「それか。とりあえずこれにサインして」
少女は机の上に一枚の紙とペンを取り出した。ペンを受け取り、言われた通りの場所にサインする。
「これで貸し出し手続きは終わり?」
ボールペンを返し、訊ねると彼女は可愛らしくコテンと首をかしげた。
「なんの話だ。貸し出し方法なんて知らないぞ。興味ないからね」
「は? いまサインしたじゃん」
「ええ。入部してくれてありがとう!」
「んん?」
少女の手にあるプリントのタイトルが確認できた。信じられないことに入部届けと書かれていた。
「沢村ススグくん。これからよろしく」
ヤバイやつだ。今まで出会った来た人のなかでトップランカーに躍り出るレベルだ。
「おい、まてよ。入部しないってさっき言ったろ」
「? そんなこと言ってないぞ。入部希望者ではないと言ってたけど」
「わかってんなら、それ捨てろよ」
「キミは希望者じゃなくて、すでに入部した立派な空部員だろ」
茶化すような言葉ではない、彼女は純粋にそう信じているようだった。だからこそヤバイのだ。
「入部届けに勝手にサインさせるなんて卑怯だろ」
「部活に入りたいと心で思ったなら、その時すでに行動は終わっているんだッ!」
「思ってねぇって言ってんだろうが! そんな書類は無効だ!」
「残念ながら有効だ。書面でのやりとりはすでに完了している。あとは部長の判子を押して顧問に提出するだけ」
シャチハタをポケットから取り出して書類にポンと押印した。
「あとは顧問に提出するだけ」
「なら、退部させてもらう」
「残念だけど、退部は一週間前の通告を義務付けられている。社会的ルールを破るのはいただけないな。それに、ほら書類にも書いてある」
「それならさっそく屋外で天体観測だ!」
本を持ってその場から駆け出した。簡単に言えば逃げたのだ。もう二度と会いたくない。