魔法使いの師
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私には二人の弟子が居る。
正確には弟子になりたいと懇願して来た若者がいて、それを私は無視するというあしらい方の末、勝手に我が家に居着いた人間のことだ。それが二人いる。
我が家のある場所は荒野の直中であり、周りに木々もなければ川もない。畑にまく水も流れていなければ、飲み水など組み上げる井戸も無い。
それでも私はこの家で生きていて、家の庭には菜園が成っている。理由は単純で荒れ地の死んだ土に有機的な要素を与え、空気中から水を得ているからだ。
他人と交わることなく自ら単独で生きるには不自由などしない。法術に縋る人間は皆、同様のことを行えるだけの能力は有るだろうが、それだけの器量がある訳ではない。
そも、その力は他人より優れている証明であり、万の民を統べるに相応しいと奢る。
ある程度の能力を有する法術使いであれば戦争の「つわもの」となり、またある者は研究の為に国に抱えられる。
戦場に送られた法術使いは例外なく優秀な功績を挙げ、飼われた研究者は例外なく効率的に人間達を使役する為の歯車となる。
私はそのどちらも嫌った。正確には興味がなかったというのが最も正しい言葉かも知れない。
もし名声が欲しいのならば殺し合いの先に立っている者に教えでも請えばよい。もし支配欲を満たしたいのならば宮廷法術使いにでも成ればよい。
だがそのどちらも興味が無く、またそのどちらにも意味を見いだすことは出来なかった。
そう、両方とも私は経験を得たが、そのどちらも長く続ける事はなかった。二年、または三年それを経ると充足感よりも自身に対する憐憫が上回った。
故に私はそのどちらにも身を委ねるような事はしなかった。どちらでも希少な法術使いである私を慰留する言葉や、賃金に問題があるのなら改善する、我が国は貴殿を貴族として遇するといった金銭的充足や社会的地位を確約してでも、それに余りある利益と権威を私に見出してくれた。
それでも、私には興味が無かった。私が興味を寄せるのは社会に貢献を為せるようなモノではない。実用的な研究であれば確かに国に抱えられていても出来るのだが、私の求めるモノは何の役にも立たない。
大抵の人間は目先の利益を優先する。もれなく国家というモノは目先の利益を追求し、即効性のある変革を要求する。
効率的に人間を殺す方法。
効率的に作物を育む方法。
凡庸な例に違いないが、大概が此に準ずる設問で招聘される。
興味がない。
私にある興味は「どう成り立つか」という私の至上命題にのみ置かれている。
法術で水を与え、土に養分を与え、成長の時間を日毎眺めやる。
落伍の者として日がな一日を眺めて過ごす。我が家の荒れ地には零れ落ちぬ雲を日がな心ゆくまで眺めやり、飽きては草木が日にどれほど成長したのかを眺めることにする。
私の興味とはそう言うモノだ。
ところが、そんな私の元に何故か弟子になりたいという若者が二人押しかけてきた。
二人は肩で息をしながら、背に財産の一切合切を背負って我が家に来た。同じ様に、同じ時に押しかけて来たものだから示し合わせての事だろうと思えばそうではないという。
誰にどの様な話を聞いて私の元を訪れたのか分からない。私に弟子入りした所で地位も名誉も、金も手に入ることはない。
言うなれば私の家にいて出来るのは惰性を編む事だけだ。
顧みられることも無ければ、偉業たり得る要素など欠片もない。
それでも彼らは彼らの想いだけを携えて来たらしい。
一人はアケドニル大陸から来た青年だった。このイシュカルデア大陸まで何の冗談か二年もの旅路を経て私の所にまで辿り着いたという。元々は諸国を巡り、見聞を広めようと家を出たという。
彼は名をハーデスト・ザナンという。
混沌としたアケドニル大陸の状勢下で恵まれた人間という者は極々僅かで、多分に漏れずハーデストもまた貧家の生まれだった。金も地位も名誉も無い、ただの農民の生まれであった彼にだが、生まれながらに持てるモノが有った。
それが法術。
魔力を生まれながらに持て、万物に作用し、事象を塗り替え、思うままに造り替えてしまう。貧家に生まれたのならそれは金の卵を産む鳥のような存在で、つたないながらにも持てる力の限り家族や親類、友人達の為に力を尽くしたという。
だが、彼の人生はこれだけだった。
他には何もない。小国の王から宮廷法術師として招聘という名の拘束を受けそうになった折り、彼は逃げ出したと言う。
ともいうのも、彼は幼少の頃から知りうる限りの皆に訊いて回ったのだ。自分は何者であるのかと。
父、母、妹。近隣に住む友人や、親しい隣家のおじさん、おばさんにまで訊いて回った。必ずと言って良いほどに彼らは口を揃えて言う。
『魔力を持って生まれた上に、これ以上何を求めているんだ』と。
恵まれていないからこそ、欲しいモノなど無い。なぜなら自分が何を求めているのかなど、知らないからだ。
同じく自分は何者であるのかと、かの王に問うた時、彼の運命は決したのかも知れない。
「無論、遺憾なくその才を発揮することがそなたの身を成すのだ」
法術の力というモノは使えない者達からして見れば万能で、際限無くあらゆる奇跡を起こす力だと妄信されているがその実、法術を用いるにはいくつもの制約がある。
当人以外にはわかり得ない苦悩だが、それを説明したところでやっかみを生むだけに過ぎない。
故に彼は一人、国や近隣住民、まして親類にすら『隷属』させられていると感じてしまったのかも知れない。
一人法術の力だけで諸国を旅歩き、私の噂を耳にしてこの地に訪れたのだという。
そしてもう一人の青年は私と同郷であるらしい。
名をセダニア・バルバルファと言う。
イシュカルデアの南東部から同郷の士であると聞きつけたらしい。南東部、雪の降る小国、エデルギス。
バルバルファという家名に聞き及びが無いのは私が故国を去った後、祖父が移住してきたかららしい。その祖父は現在私が住んでいるデオグランデ南部、レアトニス公国の出身で、孫だけが祖国の地を踏んだ。
セダニア自身、祖国という意識はなく私の名を求めて訪れただけだという。
確かにバルバルファという家系は名門の法術師の系譜だ。街に用向きで出かけた折り、手合いの愚かさに愛想を尽かして逃げ出し、その暇に飽かせてレアトニス公国の公図書館で調べたが立派な法術師の家系である。
それが何故私の故郷であるエデルギスに家族揃って移住したのかは分からないが、その孫がわざわざ出戻ってきたのである。レアトニス公国からすれば出て行った法術師の孫が帰って来たのだから文句の一つでも私に言いに来るのではないかと内心怯えもしたのだが、そういった器の小さい国でもないらしい。
顔見知りのレアトニス公国法術師に訊けば、別段王家と争ったり不興を買ったわけではなく、十二分に公国へ貢献し、老いてなお衰えなかった向学心のために世界を歩きたいと申し出たという。
さもありなん、私自身似たような事をしてきた身の上であり、それからすぐに境遇に頓着するだけ無駄だろうと思い至った。
セダニアは私のことを祖父や父よりも優秀な法術師と聞き及んだと曰った。
法術師に優れた、劣った、という決め事はない。
兎角言えば優秀の定義など心象が全てになる。
おそらくセダニアが求める法術の形が、私の用いる様に近かったと言うのが、私の元に身を寄せた理由に他なるまい。
かくして二人弟子、という者が私の元に現れた。
別段何かを教えようという自発的な意志は私にはなく、日々私の使う法術を食い入るように見ては真似てみる事から二人は私を師と呼ぶ事にしたらしい。
私のすることといえば早朝、涸れ井戸に水を引き込む事から始まる。
荒れ地で辺りに雨など降ったのは私が住み始めて八年、二度、三度あったくらいか。海風はアレキオ岩山に阻まれ、雨が降ることはない。雨は降らないが代わりとばかりに降ってくるのは砂だ。
アレキオ岩山という、名前から分かるように山そのものが全て岩で出来ていて、海から吹き付けた風が山肌に、岩山の切り立った壁面に当たって上空へと吹き上げる。途中湿り気を帯びた海風は上昇と共に冷え、雨雲となって岩山の中腹で降り注いでしまい尾根を越えてくるのはただの寒風だけだ。重く冷たい空気の流れは岩肌の斜面を駆け下りると共に小石や砂で岩面を削り、細かい砂や石が折々麓に転がってくる。
私も数年住んで風が岩を削っていることに気が付いたが、岩山の麓から地平の線より先まで砂礫が広がる荒野である。幾年月を経てこの荒野が作られたのか推し量る術も持ち合わせないような凡夫が、法術を用いて大気から水をかき集めて井戸に降ろす事である。他愛ない、こんなものをわざわざ同じ頃合いに寝床から抜け出て二人突っ立って傍で毎日のように弟子は見る。
同じ事は二人にも出来るはずだ。そう面白いものではないし、珍しいものでもない。それでも二人はこの水を溜める作業を必ず二人して見に来る。
その後、セダニアが手を挙げて「朝食を作ります」と。
すぐに倣ってハーデストが手を挙げ「その間に洗濯物を」と。
無駄がないと言えば無駄がないのだが、私は彼らの行いにいくばくかの不安を覚えた。弟子であると言い張って二人ここに居る。私の心変わりでも待っているのかもしれないが、彼らに教えることなど無いのだ。
私に出来ることならば彼らには容易くできる。
それでも彼らは私の弟子だという。
さて、二人して居なくなったのだから。私は菜園でも見に行こうか。
天使より伝う温情。そう法術の源は比喩される。魔力を持たぬ者からすれば確かに天の御使いにでも見えようか。だが我々魔力の有る者。法術師側からすればそれは違う意味合いに取る。
世には『神』が居て、その『使い』が居て、我々が居るのだと思い知る為だ。
法術は在り物の世界を動かす力は有るものの、存在し得ないモノを生み出すことは出来ない。正確にはまだ誰も辿り着いていない。
私は菜園を見渡し、居もしない虫が付いていないかと葉の一枚一枚裏まで確認して見て回る。辺りはこの菜園以外不毛だ。ならば寄る虫すらもいない。種や苗を持て蒔き、育て。輪廻巡る様に増やし、そしていくつかを糧にして私と二人、生きている。
元より無いモノなど造れはしない。
法術があろうともこの『ワ』からは抜けられない。知りうるに結局の所、天使より伝う温情とは言い換えたところ、哀れに思う神の情けであり、決して人が人を越えるためのモノではない。
大抵の法術師はこれにあかせて、他者よりも優位たる自分への演出装置としか思っていない節がある。だが世界に比べて我々のなんと矮小な事か。世界から始まるすべからくに、我々の持つ力如き、大岩の前の砂にも劣る。
三日前に植えた種が、既に肥え太った丸茄子を付けている。
私の寿命はあとどれ程残されているのだろうか。ここには天敵と言うべき存在はない。根本的に食料も水も無いのだから動物など皆無で、まして魔物も竜も居ない。
外敵に殺される心配はないものの、内的な要因には私では抗うことなど出来はしない。老いとは皆平等に訪れるものであり、また死とは万人に確約された帰結である。
これを法術の力で永らえるのは不可能だった。現に私が証明している。生きるのには不自由はしない、これは食うに困らないというだけの話で生き長らえる為の法術など私は修めていないのだ。簡単な外傷ならば簡単に治せる。治癒する能力ならば誰しもが持っているのだから、それを早めてやるだけでよい。
だが内的な病気というものには私では抗う術を持たない。確かに風邪を引いたのならば自然の治癒を外傷と同様に加速させれば良い、というモノでは無かった。
治らない。何か勘違いしているのかも知れないが、治癒力を促進させるような方法ではむしろ痛みが増した。
治癒力を上げるとこの病魔は進行するらしく、私の知りうる法術ではどうしようもない。
死ぬ場所を見つけたり、と思い至ってこの地に最後の根を下ろした所で二人の弟子である。
私の持ち物は無い。この家も、畑も何もかも、この場所に適応できなければ朽ちて消え、枯れて失せるのみ。だからこそ、ここに残りそうな物は何も持ち込まなかった。家を建てたこの場所も、風化の早い場所をわざわざ選んだ。なのに、今は消えないものが二つもあるのだ。
ある日。それは予見でき、またその日が来ることも遅からずと知っていた日、二人に私の病状が知れた。
簡単なことだ、朝に私が起きられなかった。
正確には夜の明ける前から腹に言いようのない違和感と痛みを感じ、またそれが歩みの一つに似た波紋を投げ、二つ、三つと軋むように迫り来る。腹の底に訪れた痛みは私の目さましには十分だった。痛む場所は元より知れていて、法術で対症療法的に痛覚を封じていた場所から僅かばかりずれた場所が痛んだのだ。広がった痛みに脂汗を枕へ流し、腹に震える手で指引き法術の陣を空虚に描く。集中、集中。取り乱してはならないと自身に言っては見るものの、それを訊いてくれる体ではもう無い。
明け方まで言うことを利かない手に、定まらない魔力に苛立ちを覚え、明けてもなお私は思うままに力を振えなかった。そんな事をしている間に、二人が部屋から出てこない私を何事かと訪れてしまった。
悶え苦しんでいる私を見て二人は事情を聞く前に私の魔力の集中が何を意図しているのか、この後にどうすれば良いのか。教えるまでもなく、病巣部を的確に見つけ、痛みを伴う異常部分に痛みを封じる法術を施す。
痛みが引いたと同時に、天井と虚空を見つめて思うに至る。
人間は放っておいても育つものだ。草も木も、野を駆ける鼠も山羊も。誰かが何かを手倣う必要もなく。勝手に育って行く。世界とはそういうものだと。
だが、そこには矜持というものが欠ける。誰かの意志を継いで往くという矜持に欠いている。
他人に身を案じられるという事を長らく忘れていたのかも知れない。生まれ、父母に育てられ、兄や姉と過ごした日々に互いを案じるという心根の在り方に。
ここにいる二人は眉根を寄せてもっと早く仰ってくれればなどと、身の程も知らない若輩の戯れ言を曰う。それもそうさ、彼らはまだ芽吹いたばかりの若葉に過ぎない。枯れ逝く私の元で日の光を求めて互いに競ってこれからを生きる人間だ。
枯れて潰え、そして彼らの養分となるのが朽ち木の役割である。
ここに二つ、矜持の種を残して逝こう。
一つ。
ハーデストは生体、死体問わず法術を通す力がある。生きている者に与えるだけならば治癒の法術に代表されるようなものから、植物に成長を促進させるモノもある。
死体、それだけではなく当然無機物にも外的、内的問わず影響を法術でも与えることは出来る。何もない場所から魔力だけを使って炎を生み出す事も、両の手の間に雷光を長らく走らせ続ける事も。水を凍らせ、石の中に魔力を封じることも可能だ。
だが、法術には制約がある。
頭で思い描いた世界を「好きなように成す」事が出来ないという制約がある。
他者から見れば便利な力で、神に選ばれた者だけが持てる奇跡の力。法術師本人達の中にも何でも出来るという奢りを持ち、一定の力を誇示し続けさえすれば良いという者もいる。
各国がそれぞれに抱える法術師達は法術の力は「与えられた」ものであると信じて疑わないような人間が多く、内からなる力で外界を自由に変貌させようという気概に欠いている。
死んだ人間を生き返らせる事は出来ない。生きている人間を死なぬようには出来ない。無機物に命を与えることは出来ない。
神から与えられた力を持て、神の決めた事象に抗うことは出来ぬとそう知った風を装って出来ないことに言い訳をする。
生き死にをどうしようと神への冒涜である。確かにその向きはあろうが、ならば何故生き死にに介する様な力が我々にあるのか。その問題に相対するだけの器量も度胸もない。
だから私はハーデストには世界に挑戦すべしと教えることにした。
死んだ動物に魔力で命を吹き込む事を。生きている動物に魔力を直接作用させ死なぬ事を。無機物を生きた人形のように動かす事を。
どれも私の知らないことだ。それを教える事にしよう。
一つ。
セダニアには流動する世界を動かす法術の才を見つけた。
初めに見たのは庭の木々を手入れする時だった。風を巻いて伸びすぎた庭木を剪定し、落ちた枝葉を一つ所に丸めて巻いて行く。体から離れた場所で砂を退けて枝葉だけを上手くかき集めるには熟練した風使いの法術師達でも至難であるが、セダニアは戯れに法術の加減を学ぼうとやっていたに過ぎなかった。
桶の中の水を触れることもなく、遠隔から法術の力で回し、洗濯物を始末する様に感心した覚えもある。
法術は直接触れた時に最大の効力を発揮する。正確には触れ、魔力を通すことが出来たとき最大の効力を発揮する。流体物、液体や気体といった物は固体よりも魔力の通りがよい。だが、通りが良すぎて雲散霧消と近しい現象が起こる。留めておくことに注力すれば思うままに事象を成す事が難しく、事象を成すことに注力すれば魔力は留どなく流れて出て行ってしまう。固形物にはその形状に沿わせて魔力を流せばよい、液体や気体には輪郭と呼べる物はない。器に入れてしまえば器の内部が輪郭となるがそれでは容量が限度となる。
何もない場所で、無尽蔵に近い量の液体や気体に作用し続けるというのはそれこそ液体や気体を素手で掬うよりも遥かに難しい。
涸れ井戸に水を集めるのはセダニアの仕事になった。私が井戸一杯に溜めるまで一刻をも要するのだが、セダニアは同じ量を四半刻ですら余りある。
同じ仕事を少ない労力で、且つ短時間で。そうできるならば当然その仕事は後進に譲ってやるのがよい。効率の劣る者が先を行く者の妨げになるというのは個人に対する損失だけではなく、国家として、このナルガに生きる者、全てに対する損益を生む。
老いてなお、私が誰かの足枷になるというのは耐え難い屈辱である。子供であれば誰かの庇護に背伸びを覚える猶予を与えられるが、それを脱したのならば二足で生きて行くのが道理だ。
それがどうだろう「二つの足で立つ」それだけは辛うじて私には出来るものの、既に未来へ向かって歩んで行くことが出来ない。壁面や家財を伝って歩く様は最早、誰かの前を勇んで行くだけの力はない。
セダニアにはまだ、いや、これからにこそ力強く誰かの前を歩くだけの力がある。
それも誰も歩んだことのない道を、誰よりも前を、誰よりも先に進んでいけるだけの力がある。
それは私に歩めなかった道だ。それを教える事にしよう。
城だ。私たち三人は城を築いた。
それは比喩であり、また真実だ。我々法術師の思考実験や法術の開発には城を要する。正確には城、要塞と化した部屋が必要になる。外から誰かの侵入を許さないという事も重要だが実際には内側で起こる全てを外に漏らさないための堅牢な『城』が必要になる。
法術を学ぶために、そして教えるために三人がかりで小屋を造った。
あるのは四方の壁、天井、屋根、床。必要な物として人数分の机と椅子。まだ何も入っていない本棚。それだけだ。
四方に三時間で育て上げた木を切った柱を立て、砂礫を圧縮、焼成した煉瓦を積んで壁にした。床には木を切ったあまりの端木で床を張り、天井は虫の繭から紡いだ天幕の天井を張る。屋根には鉱物から抜き出した僅かばかりの金属を集め、薄く丈夫な三角張りの屋根をつけた。
三人寄れば中央の卓で額が当たる。椅子に座る背は四方の壁に擦れそうな程に狭い。入り口の戸の横に本棚を作ったが圧迫感は部屋の五分の一を、それが我が物顔で占めているものだから私たちは盗賊団の物置にある盗品達よりも所在ない。
至高である。私たちは時間の費やし方を知った。それまでの時間の使い方とは生きるための時間だ。だがこれから先の時間は死ぬための時間だ。
死んで行く。私の魂が消費されて行く。その度にハーデストとセダニアの魂は煌々と躍っている。蜜蝋の先が目に見えて減っていく様に、私の魂と寿命が手に取るように尽きて行く。
これまではそれを惰性と考えていた。浪費や消費、そして経費のようなモノだと。それを用いて生きている。これを少しずつ支払っていけば終わりに辿り着くための旅賃であると。
それがどうだろうか。私の魂と寿命は他者への機関となった。魂を燃やし、寿命をくべて途を征く。
まず二人の法術の力量を見極めるのに四日を費やした。その間に八段ある本棚の一番上が半分埋まった。二人がこれまで使ってきた法術式の書き出し。それぞれ用いる法術の発展系の予想、その予想に関して三人の議論評。
続いて発展予想から導いた新しい法術への取り組みに二週。その間に一番上はおろか、二段目を埋め、三段目の三分の二を占める。
結果と反省。反省からの改善点の箇条書き。改善予想点一つ一つへの三様の論述。
一人で費やす思考時間は一通りに過ぎない。ただ一つの紐を辿ったところで一つの解に至るのが関の山で、複数の解に至ることはない。
だが三人居ればどうだろうか。一つの紐を辿ろうとすれば二本目と絡み合い、思わぬ方向へと逸れて行く。その逸れて行く事を逸脱と捉えるか多角と捉えるかはまた別の話だが。
あるいは三本目の紐を組み入れて、三本互いにあらぬ方向へと組んで行く。外れるかも知れない、玉のように結ばれて取れなくなるかも知れない。それでも止まることなくたぐり寄せて行く先に最適の解を求める。
複雑怪奇な思考の環を形成するには、意志ある者が集まらねば出来ない。
法術師は本来孤独である。国家に抱えられる法術師達は皆、孤独である。他の法術師達との連携など考えもしない。そも考えてはいけない。
民間にいる法術師達は力の行使だけを信じている。奇跡と呼ばれる力を行使して大抵の場合触れたモノに魔力を流し思うがままに世界を成すだけだ。
式を敷いて複雑になった迷路のような陣に魔力を通し、反復する奇跡を生み、思い描く新しい現象を生ずる。
式や陣を敷く事は国家に抱えられた法術師以外には出来ない。厳密に言えばお召し抱えの法術師の弟子達にも可能だ。だが弟子など他人であるはずもなく、大多数が弟子とは血縁の子や孫達だ。
同じ人間が、いや単一血統が代々法術を継ぎ、そして誰に秘術が開示されることもない。これでは誰もが法術の利便性を知っていても、それを享受する事は出来ない。
直接触れて流すだけの法術は規則性が無く、再現性が乏しい。法術を使う能力があったとしても誰もが治癒の法術が使える訳ではなく、そして誰もが炎を熾せる訳でもない。
もし式や陣が万人に周知されれば今よりももっと世界は救われるのではないだろうか。だが同様に火を熾し、雷を散らす様な式や陣も周知される事になる。それは救いか。
そんなものは我々、偏狭者が決めることではない。
決めるのはこの世界。広まって互いに殺し合いを始めたとしてもそれは人の決めた道であり、世界が許容した事に相違ない。また人が多少の諍いを許容し、切磋琢磨する未来を選んだとしても、それは世界が包容したに過ぎない。
私や弟子二人には物事を決する権限はない。当然だ、神ではないし王でもない。ただ法術師であるだけだ。だが王とて人子のであって、神授によって冠った訳ではない。王が王たるに、人心を集め正当性という馬鹿げた喜劇を成すための手段に過ぎない。故に王であろうとも、人の子である身に真なる決定権は無い。
決めるのは世界である。この先に何が待っていようと我々は世界の決断に従う他にない。私自身、この魂の入れ物に限界が来たように、世界は常に決断をすべからく強いる。その時、人間達は手段を用意できているだろうか。
一部の者だけが占有していては世界の決断から下された裁定に為す術無く潰えて行く命が増えるだけだ。私自身、残された時間を弁えている。だからこそ、他者に分け与えられる私の「余生」というものを残していきたい。
これが神に反抗の意志を示すものだとしても、だ。
私の言葉にせぬ意志というモノは、どうやら存在の疑わしい神には手に取るように理解されるようだった。
狭い小屋の中が棚に入り切らなくなった紙束に部屋の床を一部占拠され始めた頃合い。法術の在り方を考える前に、まず足の踏み場を考えなくてはならなくなって久しいと三人して笑いあっていた。
談笑は唐突に終わる。荒涼とした何もない地。辺りにあるのはアレキオ岩山から転がり落ちてきた岩や砂礫ばかりの土地に、私たち三人以外の人間が現れた。
それを知覚したのは小屋と我が家のある場所から、徒歩で一日を要するくらいの遥か荒野の向こうだが、その一団は時折休みを挟みながらも確実に我が家を目指して歩みを進めていた。
何もない土地である。法術で空気中から水を得て、持ってきた木の実や草花の種を自ら法術で育てねば生活できない土地である。そこに男性六名でなにをしに来る必要があろうか。
その一団は無論我が家を目指していた。それも友好的な思惑を持たぬ者が。
法術師の居る場所を襲撃するのに手慣れている人間だった。探知の法術範囲に堂々と入り、一切臆することなくかなりの速度で向かってくる。
兵は拙速を尊ぶ。それは奇道ではなく王道である。
法術師は闘うならば時間を掛け無ければいけない。それも遠隔地であればあるほど術式に時間を要し、精度を要求される。触れたモノに作用させるのは容易だが、遠隔地には式を描いて陣を展開しなければ座標指定もままならぬ。それを手合いは知っていて、問答無用と我が家へ向かってきていた。
思い至るのは私とセダニアの事だ。
私自身、法術師として隔世の人間である。国家へ奉仕する身の上ではないが、どこぞの輩が私の持つ法術の秘でも奪い取ろうと考えたのかも知れない。
もう一つ、セダニアの事だ。元々、レアトニス公国のお抱え法術師の家系だ。よもや現公国法術師が今の地位に固執して。祖父が元公国法術師だったセダニアを始末しようと送り込んできた可能性もある。
法術師が孤独というのは今に始まった事でもない。真に孤独というモノは誰かと切磋琢磨するという、人間本来が持ちうる向学心の欠如に因るのでは無かろうか。
自らの理念に頭打ちが来る。とたんに道を失って停滞を始める。誰かから良かれ悪しかれ影響を受けて新たに創造するという道を己から閉ざし、他者の到達を阻み、他者の研鑽を妬む事に終始してしまっている。
これは神罰である。向学を捨て、展望を閉ざし、自分の居場所をただ喰らい続ける獄門の環に閉ざされた法術師達へ与えられた、無間の地獄を続けるための断罪ではないだろうか。
だらこそ私は立つことにした。
既に一人ではまともに立てぬ。ハーデストに介抱され、なんとか立ち上がり二人にはアレキオ岩山に登るようにと命を出した。これは命令であって、拒否や質問の暇を与える事はない。
二人がやんやと声を上げて私に抗議していたが聞き流し、心に留め置かねばそれは意味など成さぬ。
まだ若い彼らがどう立ち向かおうと、法術師の城に向けて歩みを進める者に抗えるはずもなし。国家に抱えられる法術師であれば大抵が人を殺すことに躊躇などしない。自身の秘術が誰かに盗まれるくらいなら相手を殺し、また歯が立たないのなら研究成果や自身諸共に敵と刺し違える。刺し違える事が叶わなかったとしても、研究成果や秘術を隠匿したまま自らその生涯を閉じることを選ばねばならない。
だからこそ私は選ぶことにした。私の秘術を守るために。この身一つを神前に差し出すことを。
偉人とは何かを成し、そしてそれを他者へ広めた人間のことを言う。
業績は偉人の名と共に人の世に広まり、そして業績がまた人の世で研鑽されて行くことによって偉人の名は昇華し、伝説や栄誉の代名詞にまで登り詰める。
だがその偉人に影響を及ぼし、業績を積み上げる過程に関わった人間のことなど、偉人の名を知る大多数の市井の者は知らない。
法術師には偉大なる法術の父と呼ばれる二人の男が居る。
一人は名をハーデスト・ザナンという男。彼には二つの異名がある。
金針の癒士。細い金の針を用いて病巣を穿つ法術を確立し、これまでの治癒法術に新しい方法論を提示し、これまで救えなかった病や怪我をことごとく打ち破った。
そんな彼だったが、晩年は気が触れたのか他者を救う先に不老と不死を求め、禁書を作り上げた。
晩年の異名を、禁書の魔王と称される。
そのザナンの法術を禁忌としたのは他でもない、もう一人の男。
名をセダニア・バルバルファという。
彼を直接見た者は口を揃えて言ったと聞く。
『霧の中から突然現れて、世界を変えてゆくのだ』と。
ハーデスト・ザナンとは違い、誰かのために直接的な法術の展覧を成すことはなく、一介の法術師の前に突如として現れ、必ず天恵を授けて去ってゆくという。
その人物が居たかどうかなど疑う余地はない。なぜなら現代法術の祖とも言うべき男である。その名と姿は彼が生まれて既に千年を経てなおこの世にある。今日においても彼の目撃と授けられる法術の知恵は未だ続いており、世界に大きな災いが訪れたときには必ず現れる。
いまやセダニア・バルバルファの名はこのナルガにおいて法術という言葉と同等の意味を有す。
そしてこの二人は同じ師の元で学んだのだが、誰もその師の名を知らない。
現代法術の祖とはその実、二人の師ではなかろうか。
「どこへゆく」
「さあ。どこでしょうか」
「あてもなく、着のままでか」
「死ぬ場所くらい、私が決めても良いではないですか」
それは、法術師として生きるにはあまりにも優しすぎたのだ。