お母さんのこと。2
『あ、そうだ』
お母さんはアクアマリンの碧眼を大きく開いてポンっと手を叩く。
『大事な事忘れるとこだったわ』
ペロッと舌を出してウインク。緊迫感がなさすぎよ。
『これ』
枕の下から無造作に出したのは、 野球ボール程の真っ黒な球体。
『なに?』
首を傾げたわたしにお母さんは初め少し不安気な色をさ迷わせて『怖い?』とおずおずと聞く。怖い?これが?もしかしてわたしを球体恐怖症と思ってるのかな?それとも大砲かなにかの爆発物なの?おいおい物騒だぞ。怪訝に思って手にとってみると重厚感はあるものの、キラキラとメタリックな色合いですごく綺麗な漆黒だ。
『すごく綺麗だとは思うけど宝石なの?』
売ったら一生遊んでくらせちゃう?
お母さんは、わたしの言葉にパアと微笑む。
ん?売って良いの?
『流石ルーちゃんね!手にとってしかも綺麗だなんて!やっぱりお母さんの子だわ!』
ウフフと大輪の花が咲くように笑ったお母さん。ううむ、目利きなのかわたしってば。
『約束して?これは必ずあなたを助けてくれるから。あなたはきっとこれからこの泉を出る日がくる。これは肌身離さず持っているのよ?』
笑顔を改めて真剣な口調に、わたしは頷く。これは『相当困ったら、街に出て売ってしまえ』と受け取っていいのか?
『決して手放しては駄目よ。お母さんだと思って、ううんお父さんだと思って接してね』
……売っちゃ駄目だね。うん。黒珠ちゃんを親だと思え、なんてお母様ったら。肌身離さず持ち歩くには少し困難な大きさに目元がちょっとしょっぱいぜ。
お母さんは優しく笑う。華やかで、だけど、消え入りそうなそんな脆さを含んだ笑み。
わたしは肩の力を抜かず、強張る意識を手放さないように俯いた。
お母さんが、そんなわたしに気付いて覗きこむのが分かる。
『どうしても、』
わたしはまた、唇を噛んだ。
この世界で目覚めて十六年。いつだってそばにいてくれたのはお母さんただひとりだけ。
優しくて、温かくて、時々ちっちゃい失敗をして、だけどいつも笑顔で、どこか抜けた天然お姫様のようなお母さん。
魔女でも、なんでも良い。
黒珠だって、毎日ピカピカに磨いてみせるよ。
その存在だけで良いの。
ねぇ、どうしても、
―――いってしまうの?
掠れた声は言葉にならずに、そのまま飲み込んでしまう。
お母さんはそれでも、何もかも分かっているように微笑んだ。
『…ルー?そんなに強くならなくて良いのよ。あなたは弱さを見せて良いの。そうでないと、壊れてしまう。』
そう言った後、フフと笑う。
『だけど、出来ないのね。そんな所はあなたの父さんにそっくりよ。』
『父さん?』
そういえば、この黒珠も父と思えと、そう言っていた。初めて聞かされる父の話は曖昧なまま長く続かず、お母さんは思い出すように目を細めて頷いた。
『……ルーの瞳はね、父さんと母さんを綺麗に混ぜた色なの。その髪も父さんによく似てる』
フフと笑う姿は、鮮やかで、少しくすぐったそうで、
『いずれ、全てを知る時が来るわ。』
お母さんの体が透けるように透明になってゆく。金色の粒子を巻いたような煌めく光は幻想的で、美しかった。
――――あなたの記憶の謎も
そう歌うように呟いたお母さんの声を最後に、
眩しい光を集めた姿は弾けて、消えた。




