不思議だな、と。
***
どれだけ沈んだだろう。浮上するのに厄介な程時間のかかる《小雪》の記憶。あたしってばそんなんだからこの世界で目覚めて【お母さん】の存在から随分色んな事を与えられた気がする。例え喧嘩しても必ず確かな愛情を感じたから、あたしはいつもそれが嬉しくて泣いた。
《…/%&##…##*+\@@@,--》
……声が聞こえる。
何だか懐かしい。そういえばこの声は、《小雪》だった時も何度か聞いた事があるなぁ。この世界では初めてだ。だから懐かしいのかな。なんで忘れてたんだろ、
覚睡しそうな気怠い意識の中、揺れるように身体を任す。
《自由にしろ、解き放て》
前は音の示す意味が分からなくて歯痒かったけど、今ならなんて言っていたのか分かる。という事はこの世界の言葉なんだね?それなら今あたしがここにいるのは必然なのか、まあ、いいや。今は。
この声が、声?分からない。それを声だと認識しているだけで、実際はただの音だったのかもしれない。
時々耳鳴りのようにその声が響くと決まって瞳の色が変化した。そして、その願うような音にどうしようもなく胸が締め付けられたんだ。
何故か、なんて分かるはずがない。ただ、その切な感情が、あたしとリンクして、言いようのない感覚を与えていた。
叫び出したい衝動に駆られて体がビクンと跳ねた。呼吸がうまくできなくて、目元を何かが伝う。それに気付くまでに、あたしはゆっくり目を開けた。
『…フニャァ』
鼻先をくすぐるのは愛らしい金色に輝く瞳。ザラリとした舌の感触を肌に感じてやっと意識を取り戻す。
心配そうに覗くミキオ君の瞳があたしを映して、酷く情けない顔をしてるな、と思った。
《小雪》の記憶。
薄れても残り続ける、昼ドラのような初恋。
それが消えた瞬間あたしは事故に遭いこの世界にいて、人生をリセットしている。
くそくらえ、だ。こんちくしょう。わけわからないよ馬鹿。
ぶつぶつと文句を呟く。
大体、あんなに優しくされりゃ嫌でも恋に落ちるし。初めから『お兄ちゃんだよ』って両手を広げてくれたら変態の域に入っても恋愛対象にはならなかった筈だ。
そんな事理不尽に考えていると、ミキオ君がまた目元に舌を這わせて、あたしは、涙が流れていた事に気付いた。
力が抜けてしまった体を起こして、ミキオ君を撫でる。ありがとう、と小さく呟いた。
深い、深い闇に沈んでしまいそうだったから。
うん!……らしくないよね。
あたしは少し笑った。強くはなくてもいつでも前向きだった筈だ《小雪》は。
厄介なのはあたしと彼女は違うと、どんなに切り離そうとしても何故かそれが不自然なことのように思えてくるのだ。だから、この記憶は確かにあたしを縛り付けている。
自分が何者なのか、
この体を持つルーという個人なのか、それとも《小雪》なのか。
怖い、と思う。
時に、恐ろしくて逃げ出したくなる。
それに、あの、声。しばらく聞かなかったから忘れかけていた。《小雪》であった頃はあんなに聞こえていたのにな。不思議だ、こっちの言葉だったなんて。何から何まで分からないや。
「…会いたいな」
あたしは小さく呟いた。
お母さんに。
夢を見た時は決まってあたしを抱きしめてくれた。呼吸の落ち着かないあたしを宥めて、再び眠りにつくまで頭を撫でてくれた。
温かい手。
それに触れるまでこんなに自分が飢えていたなんて知らなかった。
けれど、もう、その優しい手はない。
あたしは振り切るように立ち上がった。




