《記憶・植物園・カルボナーラ》
緑の葉が生い茂る見慣れた公園。
公園の隅にある大木の木陰には、古びた青いベンチが置かれている。
そして、そこには、恋い焦がれている相手が座っていた。
僕の存在に気づいたのか、読んでいた小説から目を離す。
彼女は僕を見上げた途端に、やわらかく、ゆっくりと微笑む。
そうして、二年間、毎日会っている僕に冷たい言葉を放つ。
「はじめまして、恭介くん」
「こんにちは、玲那さん」
永遠と続くこの言葉。
好きな人からの言葉はどんなものでもうれしいはずなのに。僕は、未だに慣れていない。
胸に突き刺さるような鈍い痛みを感じながら、僕は玲那さんの傍に駆け寄る。
「待ちましたか?」
「ううん、待ってない。今、来たところなの」
少し張り付いた笑みを見せる玲那さんは、僕を警戒しているようだった。
その様子に、胸が痛んだ。
昨日も会ったいたのに……
まるで初対面みたいなおどおどした接し方。他人行儀な顔でいる玲那さんを見て、まだ記憶が戻っていない現実を突きつけられる。
いつになったら、僕を覚えてくれるのだろう。
それは、それは叶わない願いであることは分かり切っている。
でも、願ってしまう。
あの日みたいに悪戯な笑みをみせながら「恭介」って呼んでくれる玲那さんを。
しばらく沈黙していた僕を不安げに見つめてくる玲那さん。
僕は、玲那さんを不安にさせないように笑う。
「玲那さん、日記帳、持ってきてくれました?」
「持ってきました。これでいいんですよね?」
不安げな面持ちで、小さな黒いショルダーバックから、薄紫色の日記帳を取り出て、僕に見せた。
この日記帳は、僕が玲那さんの去年の誕生日にプレゼントした物だ。
昨日の記憶を忘れてしまう玲那さんが、新しい思い出を残せるように。
そして、僕を忘れないように。
日記帳は、記憶の保持ができない玲那さんに代わって、現在の記憶を維持してくれている。
僕は一息おいて、玲那さんに話しかける。
「日記、読みましたか?」
「はい。……でも、何度読んでも、頭の中が混乱するものね」
玲那さんは苦笑いをこぼす。
「大丈夫です、きっと」
「そう思いたいな」
彼女は微笑みながら、小説をショルダーバックにしまい込み、そのまま日記帳を膝の上においた。
そして、ふっと僕を見上げる。
不安げに揺れる黒い瞳が心の奥底を突くように見つめてくる。
まるで、僕を責めているみたいだ。
もちろん、玲那さんはそんなつもりはない。ただ不安で不安で仕方が無いんだろう。
そして、その負担を取り除くことが難しいことも僕は知っている。なぜなら、僕にとって何度も会う人でも、彼女にとっては初対面同然なのだから。
それでも、淡い期待が遮る。彼女が僕を覚えててくれていると。
僕は意を決し、昨日と同じことを玲那さんに尋ねてみる。
「昨日のこと、覚えてますか?」
「昨日は、みーちゃんと買い物に行ったわ。その後、レストランで昼食を食べて……
それから道に出て……それから……」
急に言葉が出てこなくて、つまづいてしまう玲那さん。
戸惑い、困惑した顔で「あ、れ……なんで」と言う。
その姿を見て、また僕は心を痛める。
玲那さんは、いつもそこから進めない。
玲那さんの時間は二年前で止まっているのだ。時が進むのを拒むように、中学三年の秋で。
まるで、壊れた時計のように。
秒針がカチカチと何度も音を立て、いくら藻掻いても同じ数字を指し続けているかのように。
進みたくても進めない、秒針。
時を刻めなくなってしまった秒針は、もろく壊れやすい。
焦りと混乱で言葉が出なくなってしまう玲那さんに、「大丈夫です、大丈夫。もう考えないで」と落ち着かせるように言う。
考えれば考えるだけ、混乱する。
思い出さないようにと、無理やり押し込め、閉じ込めていたダムが一気に決壊すればどうなるか。
今の僕になら、わかる。
それがどんなに危険なのかぐらい、想像できる。
はっとした玲那さんが、乾いた笑みを見せて、朧げに目を伏せて、「ごめん」とつぶやく。
また、こんな悲しい顔をさせてしまった。
謝るのは僕の方なのに。
あの時、助けられればこんな事にはならなかったのに。
自分自身を責めずにいられなかった。
二年前の秋、玲那さんは友人と共に交通事故に遭っている。
そして、僕はこの目で見ていたんだ。
交差点の赤信号。
突進してくるトラック。
笑い合う2人。
響き渡るクラクション。
軽々と宙を浮く、2人の体。集まる人だかり。
呆然とする自分の姿。
2人は病院に運ばれ、1人は死に、1人は記憶障害となった。それが、玲那さんだ。
きっと、玲那さんも思い出したくないのだろう。何もかも忘れてしまいたいのだろう。
僕だって、できることなら全て忘れてしまいたい。
でも、忘れられない。そんな簡単なことじゃないから。
「玲那さん、今日は水族館に行くんですよ。日記に書いてありますよね」
僕は、暗い気持ちをねじ伏せ、玲那さんを安心させるために、そっと言った。
それはきっと、自分を安心させるものだったのかもしれない。
「あ、そうでした。『恭介と水族館』って。恭介って、あなたの事よね」
「日記帳に写真が挟んであります」
玲那さんは日記帳をパラパラッとページをめくり、写真を見つける。
そこには、笑い合う僕と玲那さんが写っていた。
丁度、僕が写っている下の方に、玲那さんの字で”片岡 恭介”と書かれている。
「あ、本当だ。ごめん。わたし、うまく思い出せなくて……」
玲那さんが申し訳なさそうに、俯く。
僕は玲那さんに笑いかけた。
「大丈夫です。気にしないでください。あと、呼び捨てで構わないです」
「じゃあ、恭介って呼ばせてもらう」
玲那さんが、にこっと笑った。緊張していた顔が和らいだ気がした。
「さ、行きましょうか」
再度僕は笑って、玲那さんの手を取る。
僕の手に触れた瞬間、不安そうな表情を見せた。
けれども、ゆっくりと確かめるように僕の手を握り返してくれる。
玲那さんがベンチから立ち上がるのを見ると、そっと手をひいて歩き出した。
「なんか安心するね」
何気なくつぶやく玲那さんの言葉に、心臓がとくんっと跳ね上がる。
いくら忘れられ、傷ついても、玲那さんの優しさで癒えていく。
抉られた傷口は塞がらないけれど、痛みが和らぐような……。
そんな優しさ。
「ほら、そこでバスが来るのを待つんです」
僕は赤くなった顔を玲那さんに見られるのが嫌で、ふいに顔を背けた。
公園を出てすぐの所に、バス停が見える。
僕は指をさして、玲那さんにバス停の場所を教えた。
「……バスで行くの?」
玲那さんが不安気に顔を曇らせる。
「そんなに遠くないですよ。大丈夫です」
玲那さんを安心させるように、繋いだ手をきゅっと握り返す。
その瞬間、玲那さんが朗らかに微笑んだ。
バス停までゆっくり歩くと、丁度バスが来た。
玲那さんとバスに乗り、一番後ろの座席に座る。
そうして、また、たわいもない話をする。
「玲那さん、高校どうですか?」
「みんな、受験で忙しそうよ。わたしは、もう決まっているから平気なのだけど……」
けれど、不意に悲しさがよぎる。
このセリフも、何度聴いただろう
そして、何度、僕はこんなに冷たく、つらい気持ちになるのだろう。
玲那さんの時間が進んでいないことが、余計に僕の罪を意識させる。
どうして、僕だけが進めているのだろう。
どうして、玲那さんだけが時間が戻ってしまうのだろう。
正確には、玲那さんはもう高校を卒業している。
大学に通っていたなら、大学二年生のはずった。
「……どこに行くんですか、大学」
「山梨よ。恭介は?」
「僕は、まだ決まってないんです」
「あれ?あなた、今何年生?」
「高2です」
「そっかぁ、来年受験生なんだね。忙しいのに、ごめんなさい」
「誘ったのは僕ですから。あ、着きましたよ」
目的地の名を告げるアナウンスが流れ、バスが停車する。
僕たちはバスを降りた。
バスから降りるとすぐ目の前に、水族館があった。
休日のせいか、人集りができていたが、予想より多くない。
建物は海のように蒼くて、色んな魚の形をしたプレートが所々に飾られている。
玲那さんも目を輝かせてとても楽しそうに眺めていた。
とても喜んでいるみたいで、連れてきて良かったと実感する。
ちょっと潮の香りもする。この近くに海があるからだろう。
「この水族館、小さい頃に来たことあるの。懐かしいなぁ……」
そう言って、玲那さんは顔をほころばせた。
「そうなんですね」
今日初めて聞けたことに、嬉しさと寂しさを感じる。
全く知らない過去が気になって仕方がない。
僕が知っているのは、高校の生徒会長だった凛々しい玲那さんだけ。
もちろん、玲那さんにとっては足下にも及ばない僕。
ステージの下から見ていることしかできないちっぽけな存在だった。
だから、玲那さんが僕の存在を知っているはずがなかった。
それに、僕が玲那さんの本当の姿も知らない。
本当はどんな性格で、何が好きで、何が嫌いで……
そんなことも知らない自分は、果たして玲那さんの隣にいていいのかいつも不安になる。
でも、一番不安なのは、玲那さんなのだ。
毎朝、鏡で自分の姿を見る度、成長している家族や友達を見る度、不安で不安で仕方がないはずなのに。
どうしてこんなにも澄んだ瞳をして、微笑んでいられるのだろう。
自分という存在は成長しているのに、頭が追いついてこない。
その現実は、簡単に受け止められるものではないはずなのに。
恐怖に駆られながらも、必死で冷静になろうとする玲那さんの姿を考えると、胸が締め付けられる思いだった。
代われるものなら、代わってあげたい。
今まで見るのに夢中だった玲那さんが、ちらっと僕の方を向いて言う。
「どうしたの?」
そう、不安そうに僕に聞いた。
「いえ、その……。小さい時の玲那さんを見たかったなって、思っただけです」
僕が、ぎこちない笑みで言ったせいか、玲那さんも気になってしまったらしい。
「小さい頃の写真か。わたしも最近は見てないなぁ。もし、恭介が写真持ってきてくれるなら、今度写真持ってこようか?交換条件だけど、どう?」
「え、僕もですか?」
「当たり前でしょう?わたしだけ見せるなんて、ずるいわ」
玲那さんが、あどけない笑みを見せる。
きっと、僕を元気づけるためだろう。
「じゃあ、お願いします」
「うん、約束ね」
子供の頃に戻ったかのように、小指を出してきた。
小指を絡ませ、お決まりの歌を歌う。
歌い終わった後の玲那さんは、とても楽しそうだった。
僕もつられて、笑う。
けれども、玲那さん。
その約束は守られないんです。
だって、玲那さんには『今度』という言葉がないから。
いくら約束をしても、また忘れてしまう。無かったことになってしまう。
失われてしまう時間が僕にとって、どれほど苦痛か。
きっと、玲那さんは知らない。
だから、ひたすら隠す。
自分のつらい気持ちごと、全部、全部……。
「行こ、恭介!」
玲那さんの明るい声で、はっとする。
沈んだ心をそっと引っ張り上げるように、きゅっと手を握られ、急かされる。
「行きます、行きますから!」
急かす玲那さんをなだめながら、館内に入る。
すると、もうそこは別世界かのように神秘的な雰囲気が漂っていた。
さっきまで、子どもみたいに、はしゃいでいた玲那さんが急に黙り込む。そして、目を奪われたかのように魅入っている。
静かな雰囲気の中、僕たちは手をつないだまま、水槽の中を順々に見ていく。
「ねー、あっちも」
玲那さんが僕を引っ張る。
辿り着いたのは、大きな水槽の目の前。
大きな魚達がたくさん泳いでいた。
「大きいね、エイ……あれ、マンボウかなぁ……
あ、クマノミ!」
水槽の下の方を指さす。
玲那さんの近くに小さなクマノミが寄ってくる。
「ほら、可愛いでしょう?」
「ほんとですね」
「なんか恭介みたい」
「……全然嬉しくないですよ」
「そう?似てるんだけどなぁ……」
玲那さんが残念そうにつぶやく。
そんな姿に、小さく笑った。
しばらく館内を見て回って、最後にお土産コーナーを見る。
玲那さんと僕は、お互いにストラップを買うことにした。
「プレゼントだから、お互いに内緒ね。見ちゃったら、楽しくないわ」
「はいはい、わかりました。
玲那さんこそ覗き見しないでくださいよね」
「失礼ね。そんな事しないわ」
少しつんとして、僕と違うお土産コーナーに行く。
玲那さんがいなくなると、僕はさっそくストラップを見に行く。
玲那さんに何を買ってあげようかな……
カメやタコ、クラゲ、イルカ……
僕に似ているらしいクマノミも置かれていた。
玲那さんが好きそうな可愛らしい物が、たくさん置かれていてどれにしようか迷ってしまう。
ふいに、ペンギンのストラップが目に留まる。
ペンギンショーで見た玲那さんのきらきらした目を思い出した。
好きなんだろうな、ペンギン……
そう思って、しばらくペンギンを眺める。青いガラスでできたような透明で、可愛らしいストラップだった。
よし、これにしよう。
僕はペンギンのストラップを手に取り、レジに向かう。
そうして、お土産さんを出ると玲那さんとばったり会った。
「ピッタリですね。
もうそろそろ時間ですし、帰りましょうか」
「……そうね」
玲那さんが素っ気なく言う。
きっと、まだここにいたいんだろうな……。だって、とてと寂しそうな表情をしていたから。
水族館を出た後は少し遅めのお昼ご飯を食べて、バスで公園まで戻ってきた。
バスを降りると、もう夕暮れ時。
空がだんだんとオレンジ色に染まる。
子どもたちがいて騒がしかった公園も、今は静まり返っている。
そうして、また青いベンチに座って僕たちは話し込んだ。
今日の楽しかったことや、次はどこに行きたいとか。
「お昼のカルボナーラ、美味しかったな。また、食べたいね」
「玲那さん、カルボナーラ好きですもんね。そういえば、前も、出かけた先でカルボナーラ頼んでましたよね」
「……あれ、そうだった?わたし、恭介と今日初めて出掛けたはずなんだけど……」
玲那さんが不思議そうな顔をする。
また、やってしまった。
さっと、血の気が引いたのを感じる。なんとか誤魔化さないといけない。
「あ、いや、違うんです。そんな話を聞いたことがあって。それでっ……」
「恭介、何回かわたしに変なこと言ったよね。『植物園、楽しかったですね』とか、『この前のあの花、どうなったんでしようね』とか。わたしにはあなたとの記憶、思い出せないわ……」
穏やかな空気が一変して、玲那さんが不安そうに僕を見る。
重い沈黙が流れる。
何も言えない僕を見て、玲那さんが再度言う。
「恭介、わかんないよ、恭介。わたし、やっぱりおかしいの?わたしはそうして何も思い出せないのかな?なんで、わたしだけ……。
ねぇ、どうして?恭介、恭介っ」
いきなり、玲那さんが僕にしがみついてきた。
泣きそうな表情で、何度も何度も。
「わたし、おかしいの?
何も思い出せない!みーちゃんは……みーちゃんは、どこなの!?」
玲那さんの最後の記憶、それはみーちゃんと言う人と過ごした記憶。
でも、もうその人はいない。
この世のどこにも。
九条 美波という玲那さんの親友。彼女は、玲那さんを庇って死んでしまったからだ。
不幸な交通事故だった。
「玲那さん、落ち着いて」
僕は、玲那さんに声をかける。
玲那さんが取り乱して、悲しそうにするのを何度も見てきた。
だから、止めなければいけない。
でも、今日はいつもに増して混乱している。
落ち着かせなければ……
焦る心を静め、冷静になろうとする。
けれども、玲那さんは僕の傷を抉るように、話し続ける。
「日記見たわ……自分の日記帳。でも、全然わからないのっ!
昨日書いた出来事でさえ、覚えていないの。
わたしだけ全部忘れて、時間が止まってて、前に進めなくて。朝、目が覚めるたび度に、怖いの。家族も友達も、みんな、わたしを置いて行かれている気がするの。
わたし、おかしいの?ねぇ、恭介っ」
だめだ、だめだ……
玲那さんが壊れてしまう……!
「玲那さん、お願いですから、落ち着いてくださいっ」
「でも、恭介っ……。わたしとあなたはきっと何度も会ってる。でも、あなたのことがわからない。怖いの」
「もう言わないでくださいっ……!」
知らない間に大きな声を出していた自分に気づく。
玲那さんの肩が震えていたのがはっきりとわかった。
また、傷つけてしまった。
傷つけないように、大切にしなきゃいけないのに。
どうして、僕は、こんなにも玲那さんを悲しませてしまうのだろう。
僕は、玲那さんの目を見ないように視線を下げ、一呼吸おいて、静かに言った。
「僕は……僕は、二年間ずっとこの公園で、このベンチで、玲那さんと会ってます。
嘘じゃありません。本当のことです。
先月も一緒に出かけてます。
玲那さんは忘れてるかもしれないけれど、告白もしました。
次の日には、忘れてしまうことをも分かっていたけれど、それでも伝えたかったから。
でも、玲那さんは、おかしくなんかない」
「誤魔化さないでっ」
玲那さんが、僕に食いかかるように言った。
目は真っ赤で、今にも泣き崩れてしまいそうなほどだった。
「誤魔化さないでよ。
わたし、たくさん、恭介を傷つけているんでしょう?だって、一番あなたがつらそうな顔してるもの……。
嘘つかなくていいよ。
隠さないでよ。
本当はつらいんでしょう?」
いつの間にか震えていた拳を、玲那さんが優しく包み込む。
やわらかな手に触れた瞬間、頭の中で今まで制御していた感情が押し流されていくのを感じた。
だめだ、だめだ……
言っちゃだめだ。
玲那さんが傷つかないためにも、僕が傷つかないためにも……
僕は首を横に振る。
「……恭介、話してよ。お願いだから。本当のこと言って……」
玲那さんが、僕に言う。
これ以上、隠すことなんてできない。
明日には玲那さんの記憶から忘れてさられてしまうとしても、心の傷は一生治ることはないだろう。
そうだとしても、自分はもう隠しきれなかった……
一人で抱え込むには、大きすぎた。
情けない。
なんて、情けないんだろう。
「……ずっと、謝りたかったです。
あの日、僕は学校に用があって、レストランの傍を通り掛かりました。その時、丁度、レストランから出てきた玲那さんと友人が一緒に歩いてるのを見つけました。
しばらく前の方を歩いてる玲那さんたちを見てたんです。でも、横断歩道を渡ろうとしていた玲那さんたちに、いきなりトラックが突っ込んできて……
それで、僕は咄嗟に『危ない!』って言ったんです。でも、体が動かなくて、助けたかったのに、どうにもならなくて……
そのまま……」
悲鳴のようなトラックのブレーキ音が、繰り返し頭の中で鳴り響く。
夏の炎天下の中、目の前で撥ねられた2人が頭から血を流して、横たわっている場面がフラッシュバックする。
あと一歩踏み出せていれば、あと数センチでも手を伸ばしていれば、何かが変わっていたのかもしれない。
そう思うと、重苦しい罪悪感が何度も僕を責め立てる。
その度に、首を絞められているかのように苦しい。呼吸さえままならないほどに。
玲那さんの声が震える。
「だから、わたしと一緒にいてくれたの?
あなたがわたしといる理由はそれだけなの?わたしがあなたを恨んでるとでも?」
「……玲那さんは僕を恨んでるはずです」
「なぜ?」
「僕が助けていれば、玲那さんも一緒にいた友達も助かっていたはずなんです。だから、だから……」
だから、僕のせいなんだ。
全部、全部。
玲那さんは悲しい顔をしながら、僕に一生懸命に言葉を伝えようとする。
「わたし、恨んでないわ。恭介のせいじゃない」
「なんで責めてくれないんですか!憎まれた方がずっと楽なのに!」
つい大きな声が出てしまい、はっとして顔を背ける。
玲那さんは優しく諭すように僕に言う。
「それは、あなたが悪くないからよ」
「……そんな言葉、嘘に決まってます」
「だって、恭介はずっとわたしの隣にいてくれたもの……。
日記にも書いてあったわ。あなたがどれだけ優しいか、どれだけわたしを大切に思ってくれてるか、知ってるのよ。
記憶はないわ。それでも、そう感じていたわたし自身が存在したことは事実なのよ。それは消えることのない真実なの。
そんな人を、わたしは憎めないわ」
玲那さんが僕の手を取る。そして、黒い瞳が僕に何かを訴えかけるように見つめてくる。
「悪いのはわたし。あなたの気持ちも考えないで、傍に置こうとしたわたしの方なの」
その時、玲那さんがどんな顔をしていたのか僕にはわからない。
けれども、僕の体ごと、心ごと、抱き締めてくれる玲那さんの肩で、僕はただ嗚咽を漏らすことしか出来なかった。
玲那さんが、そっと僕に言う。
「ありがとう、恭介。我慢してたんだね。
たくさんつらい思いをさせて、ごめん。
わたしは、恭介を縛るつもりなんてなかった。でも、知らない内に恭介を縛りつけていたんだね。
わたしは、もうあなたを自分の傍におこうなんて考えないてないよ。恭介は自分の道を進んで」
「玲那さん……」
「これからは自由に生きて……」
真っ赤に腫らした目で、僕を見つめた玲那さんと目が合う。
玲那さんが、悲しそうに微笑んだ。その表情が、何かを決意したかのような顔で、逆に僕を不安にさせた。
……嫌な予感がした。
玲那さんがゆっくりと立ち上がる。
「……さよなら」
僕から離れる温もり……
愛しい玲那さんの声……
「……玲那さんっ……」
僕は、玲那さんを追いかけるように勢い良く立ち上がった。
引き留めたかった。でも、いくら手を伸ばしても、つかめない。
白い手がするりと僕の手をかわす。
「今まで、ありがとう……
わたし、これ以上、恭介を傷つけることなんて出来ないよ。
もう、この日記帳は捨てるわ。
そうすれば、きっと、きっと……恭介は幸せになれるよね?」
玲那さんが震える声で告げる言葉の意味を理解しようとするほど、胸が焼けるように痛み出す。
「ちがうっ、玲那さん!そんなこと望んでない!
僕は玲那さんの傍にいたいんです!」
必死に叫んだ。
そんなこと望んでないって、傍にいたいだけなんだと。
玲那さんの言葉を否定したかった。
それなのに、玲那さんは僕の声など聞こえていない。
何も受け入れようとはしない。
玲那さんは今までに見たことがないほど、優しく、やわらかく微笑んで、僕に言う。
「はい、これ、プレゼント……
きっと、明日になったら、忘れてしまうから」
玲那さんは、淡々と話しながら、ショルダーバックから何かを取り出した。
取り出されたのは、お土産の紙袋。
僕の手の上に落とされた。
紙袋の中の金属音がむなしく響いた。
「玲那さん、嫌です……
だって、僕は、僕は、玲那さんのことがっ……」
こんなにも大切なのに、こんなにも愛おしいのに。
なぜ離れなければいけないんだ。
どうして、玲那さんは僕の言葉に耳を傾けてくれないんだ。
「さよなら、ありがとう。恭介……」
「嫌だっ!玲那さん!最後まで話を聞いてください!」
玲那さんの細い体が僕に背を向け、ゆっくりと離れていく。
玲那さんは本気だ。
あの日記帳を捨てて、僕を忘れてしまう気だ。
そうして、僕の前からも消えるつもりだと、はっきりとわかった。
そんなの僕が納得しないのも、分かっているのだろう。
だからこそ、強引に離れていこうとする……
僕を傷つけないための行為だとしても、諦めきれなかった。
僕は、今までにないくらい精一杯、愛しい人の名前を叫んだ。
「……玲那さんっ!!!」
玲那さんの動きがピクリと止まる。
もうこの先、玲那さんを引き留めることなんかできない。
僕は玲那さんに自分の想いを告げた。
「玲那さん、そのままでいいから聞いてください……
僕はそんなことをされても、幸せになんかなれません。こんな幸せ、ほしくなんかありません。
僕の幸せは、玲那さんの隣にいることです。
何回忘れられても、また思い出を作っていけばいい。この先も、ずっとそうして生きていけばいい。
現実はそんなに甘くないけれど……。
……玲那さん、あなたの幸せは何ですか?」
玲那さんが振り返る。
唇を強く噛み締めながら、玲那さんの強く握り締めた拳が小さく震えていた。
僕が一番聞きたいことは、玲那さんの幸せだ。
もし、それが僕から離れることだとしたら……
そんな考えが頭の中で浮かぶけれど、その時は受け入れなきゃいけない。
玲那さんが僕の方まで、一歩一歩地面を踏みしめるように進んでくる。その顔は、とても悲しそうで、つらそうで……。なのに、とても澄んだ瞳をしていた。
「わたしは、ちゃんと全部思い出したい……
どんなにつらい記憶も、忘れちゃった恭介の記憶も全て思い出して……
それで、恭介が隣にいてくれるなら、恭介が笑って傍にいてくれるなら……
それが、わたしにとっての幸せだと思うの……
だから……」
そう、僕を見つめながら言った。
僕は目頭が熱くなるのを感じながら、玲那さんの言葉の一つ一つを聞き漏らすことがないように、静かに耳を傾けていた。
「だからっ……ずっと、傍にいてほしい」
大粒の涙が、玲那さんの頬から流れ落ちる。
玲那さんがその場で小さくうずくまり、嗚咽を漏らす。
僕は駆け寄り、玲那さんの背中をさすった。
小さな白い手を強く、強く、握り締める。
玲那さんもたくさん耐えてきたのだ。
不安な気持ちに押しつぶされそうになりながらも、日記に綴られた記録を辿って、僕に会いに来てくれた。
まるで一人だけが静止画の中に取り残さたような空間に怯え、不安だったはずなのに。
それなのに、毎日、全くの初対面であるはずの僕に優しく笑いかけてくれた。
その行為が、玲那さんにとって、どれほど勇気のいる行動だったか……
今の僕なら、想像できる。
握り返された玲那さんの手が、冷たくなった僕の心をあたたかくしてくれる。
それだけで、充分だった。
あの日から、数年後……
玲那さんの記憶は徐々に戻りはじめ、僕たちは平和に幸せに暮らしてた。
僕は無事に大学を出て、就職。
玲那さんはもう一度やり直したいという思いがあり、定時制の高校に入り、今は山梨の大学に通っている。
一時期、すべてを思い出した玲那さんは不安定だった。
あんなに情けなかった僕が、玲那さんを支えていけるのか正直不安だった。
けれども、僕たちはこうして生きている。
そして、お互いの上着のポケットからは携帯のストラップが、ゆらゆらとぶら下がっている。あの日、水族館でプレゼントしたペンギンのストラップだ。
実は、僕たちは、同じものをプレゼントし合っていたのだった。
記憶が戻り、後からそのことを知ったとき、玲那さんは顔が真っ赤になってしまうほど恥ずかしがってた。
そんな懐かしい思い出に浸っていると、ふいに玲那さんが僕の名前を呼んだ。
「ねぇ、恭介?」
「何ですか?」
玲那さんは少し躊躇した後、僕に言った。
「……もし、わたしが、また記憶障害になってしまったらどうするの?」
唐突なその言葉が、僕の足を止めた。
少し後ろを振り向くと、不安げな瞳をした玲那さんがいた。
きっと、何度も僕に言おうとして言えなかった言葉なのだろう。
僕は、ただ一言伝えた。
「玲那さんの傍にいます」
「つらくない?」
「つらいかもしれません。
でも、それよりも、隣にいられないつらさよりも、幸せの方が大きいと思うから……
それに、僕は玲那さんの隣にいれるだけで幸せなんです」
玲那さんの顔が、びっくりしたように目を開き、それからとても幸せそうに微笑んだ。
正直、最初の頃は、心が折れそうになることも多くて、めげそうだった。
自分には、ただ傍にいることさえ、 無理なんじゃないかって思った。けれども、何年もたった今、僕はこうして玲那さんの隣にいる。
きっと、これから先も一緒にいられるはずだ。
あの時、手放していたら、僕は大切なものを失ってしまっていたと思う。
だからこそ、この決断は間違っていなかったと確信できる。
「……よかった」
玲那さんが、安心したかのように息を吐き、話を続ける。
「えっと、じゃあ、これからもろしくお願いします」
かしこまったように、ぺこりとお辞儀される。
「こちらこそ」
僕は思わず、くすっと笑った。
玲那さんも恥ずかしそうに笑うと、再度、僕の存在を確かめるように手を握った。
あたたかくて、優しい温もりは、いつもそっと僕を包み込んでくれる。
笑い合えるこの距離感がとても安心して、優しい気持ちにさせてくれる。
もし、玲那さんの記憶が、また消えてしまって、僕の存在が失われても僕の気持ちは変わらない。
ただ玲那さんの傍にいたい。
それが、僕の揺るぎない思いだった。
いつか消えてしまうかもしれない過去があるならば、その過去よりも、もっと幸せな今を、新しい未来を、記憶を……
二人で作っていけばいい……
今は、ただ……あなたの傍に。
誤字、脱字があったら、教えてください。
より良い作品になるように書き直していくと思いますが、よろしくお願いします。