籠005 追われる栄光
「やあ、私の名はリゲル。最近はゾディアトス導師と堅苦しく呼ばれることが多くなったが、まだ二十の若造だからね。どうかリゲルと呼んでくれ」
導師は教壇に立ち、壁一面に広がる黒板を背に大判の書物をめくり始めた。
遠目に見て、広げた紙は真新しいように伺える。あれは指導用の書物だろうか。
「さて、老若男女、人種も様々だが、共通する理学への熱意を持った君たちがここに集まってくれて、私はとても嬉しく思っている」
ゾディアトス導師が私達へ向けた挨拶を述べる間、その脇では背の低いおさげの女が、講義の資料らしきものを運び入れていた。
右へ左へ、忙しく動き回っている。彼女はゾディアトス導師の助手か何かだろう。
「属性術のうちの火、水、鉄、風、雷の五つは五大属性と呼ばれ、世界中で最も使われ、習得されているものだ。これは五大国の名の由来ともなっているし、王選定のための基準としても用いられている」
導師が黒板に石灰棒を走らせる。
いつかマコ導師の講義でも見た、雷を頂点として右回りに風、水、鉄、火を配置した五角形だ。
書体は、結構雑っぽい。
「そして残りの三属性……影、光、闇の三属性」
五角形の頂点の雷から、上に点線が引かれる。
丁度雷の上に影が配置され、左に光、右に闇が書かれた。
「これより君たちが学ぶ属性は、この光属性術になるのだ、が!」
導師が石灰棒を光の文字へ乱暴に叩きつけ、棒の半分近くが砕け散る。
巨大な黒板全体を響かせるほどの轟音は、広い講義室内の学徒全ての肩を竦ませた。少なくとも私はびっくりした。
ついでに言うと、資料を運ぶ助手さんもびっくりしていた。
「この魔術は、習得や理解が難しい事以上に術者を試す。三年前、私はこの光属性術に関わったために殺された理学者を、何人も知っている」
砕け散った石灰棒の残りが、導師の手の中で握りつぶされる。
曇った小さな音が、静寂に満ちた大講義室に反響する。
「あと少しというところまで理解できていた熟練者がいた。基礎を築いた先人達がいた。共に理学式を探求した、仲間もいた」
石灰を握りしめた手は細かく震えている。
「だが、みんな、ほとんどが死んでしまったよ。何故か。光魔術は、闇魔術を打ち消すことのできる唯一の属性術だからだ。だから狙われたのだ、“暗殺者達”に」
導師の糸目が、薄くではあるが開いた。
眼の色は、赤。髪とよく似た、棗のように鮮やかな秋色である。
しかしそこには、危険な魔獣が放つような鋭い光が宿っていた。
「悪の道に堕ちた魔道士は、闇魔術を好んで扱う。闇魔術は蝕み、溶かし、侵食し、融和する性質を持っている。単語だけを挙げればまるで砂糖を入れる前の熱い紅茶でも連想してしまいそうだが、そのイメージはあまりに柔和すぎる」
導師は石灰の粉を握った右掌を広げ、私達の前に差し出してみせた。
「“ナブゥ”」
身近な詠唱の後に、石灰で満たされた掌の中から、生石で燻したような黒煙が立ち込めた。
煙は揺れることなく真上に登り、高さ二十センチほどの所で色は失せ、霧消している。
手から煙を出すだけの魔術。それだけの事なのに、大講義室は騒然とした雰囲気に包まれていた。
思わず近くの顔を見回すと、誰も彼もが困惑し、焦っているようだった。
意外なことに、隣に座るナタリーも。
「おいおい、これくらいの闇魔術で怯えることはないだろう。ただ私は、この石灰に“闇”の力を込めただけだ」
ゾディアトス導師は笑顔だった。
笑顔のまま、手の中の黒い煙を放つ石灰を握り直し、投げつけるような格好をしてみせた。
その行動により、講義室はいよいよパニックに包まれる。
特に最前列は悲惨だ。机の下に潜り込もうとする者、通路まで退避する者、とにかく皆が、導師の掲げる黒い煙から距離を取ろうと必死になっていた。
隣のナタリーすら、“あのアマ正気かよ”とぼやいている。尋常なことではないらしい。
本来なら既に突っ伏して居眠りしているはずのソーニャの表情ですら、険しかった。
……いや、唯一クラインだけは、座ったまま身動き一つしなかったけど。
「もちろん、石灰に……この闇の煙に触れれば、ただでは済まされない。闇魔術は魔力に侵食し、積極的に他の魔力を滅する性質を持つ。闇魔術は身体強化で防げず、他の属性術で防ぐことも叶わない。そして、闇魔術により魂まで冒されれば、激しい痛みとともに生命力を蝕まれる。魔力的な毒。矮小な人間に対してならば、無敵の属性術。それが闇魔術の正体だ」
闇魔術って触るだけで駄目なのかよ。
身体強化も通用せず、魔術も駄目って。
説明を聞いた途端、ようやく私にも、導師の握る黒い煙を放つ石灰が恐ろしい物だと認識できた。
あれは、赤く熔けた鉄よりも、遥かに凶悪なものなのだと。
導師は人を死に至らしめる石灰を教卓の上に撒いた。
大きめの教卓にまんべんなく散りばめられた粉。
広がれば煙も薄くなるかと思いきやそうでもなく、教卓の上全面から黒い煙は立ち登り、見た目の上ではより悪化していた。
「闇魔術は凶悪だ。ちょっと使えば、熟練した魔道士が相手だろうと、剣術の達人だろうと、容易く死に至らしめる。その強大さに魅入られ、力に溺れる魔道士はあまりにも多い。それを生きる糧とする、裏世界の住人もね」
教卓の上に手をついて話す導師の表情は、緩やかに登る黒煙のカーテンによって薄暗い。
「私は断言するよ。もし君達のうちの誰かが光属性術を習得したとすれば、その人は必ず、裏社会の住人から狙われるだろう」
闇の向こうのゾディアトス導師が、にまりと妖しく笑う。
背筋が凍るような笑みだった。
「闇属性術に対抗できるのは光属性術のみ。そのおかげで闇魔術の天下は長期に及んだが、光属性術は確立され、闇への対抗には一定の目処がついたといえる。しかし、光魔術を習得したのは三年を経ても未だに私一人のみ。まだこの属性術は、黎明期にすら至っていないのだよ」
裏の世界が謳歌する、闇魔術天下の時代。
その時代に幕を下ろし得る光魔術の出現は、闇に巣食う連中にとっては、さぞ眩しく、鬱陶しいものに違いない。
「彼らは光属性術を覚えた者を消しにくるよ。きっと、一つの屋根に定住できない暮らしが、ずっと、ずっと続くはずだ。三年前、地下水道から野山に至るまで、あらゆる場所を逃げ回った私のようにね。それでも君たちは、光属性術が欲しいのかい? 君たちはいくつかに分割された“二番目”という曇った栄光のために、その一生を捧げる覚悟があるのかい」
ゾディアトス導師の目は、真剣だった。
だから私は、それを直視できなかった。
私にはそんな重すぎる覚悟などは、一片すらも持ちあわせていないのだから。
「覚悟が無いなら、この部屋から出てくれたまえ。あるならば歓迎しようじゃないか。私と共に、この世の闇を払う礎になってくれると言うのであればね」
教卓に立て掛けられた長いロッドが、その手に握られる。
地球儀を模した重そうな先端。世界。その言葉をそのまま背負う、ゾディアトス導師の象徴とも言える杖だった。
「“レイン”」
聞いたことのある呪文と共に、掲げられた地球儀から暖かな光が部屋を照らす。
それはただの輝きであるはずなのに、震えるような振動が頬を突いてくる。
光が収まると、卓上の石灰からは闇の煙が消え失せている。
今の輝きによって、闇の魔術が打ち消されたのだ。
「それでは、光属性術の講義を始めようか」
ゾディアトス導師は、今度は毒気無い微笑みを振りまいてくれた。
気圧される者こそ何人もいたかもしれないが、講義室を後にした者は、誰一人としていなかった。
「じゃあウィンバート君、邪魔になるから机の石灰を掃除しといて」
「えっ、私がですか」
「あとこの挨拶の台本、もう必要ないから下げちゃって」
「はぁ……わかりました」
なにやら、いい話が一気に半分ほど沈み込むような会話が交わされた気もするが、ここからが講義の本番である。
講義室の皆は、机の上に新品のノートを広げていた。
「さて、まずは光魔術の性質について説明しようか」
忠実なるウィンバート助手によって綺麗に消された黒板に、今度は優しいタッチで、ゾディアトス導師が文字を書き込んでゆく。
一度石灰棒を砕くパフォーマンスを見せられたからか、講義室内の目はその動きに釘付けだ。
・魔力生成物に反応し、振動させ破壊する
・魔力の所有権を喪失させる
・式に干渉する
「この三つが、光魔術の主な性質と言えるだろうね。実際にはもっとあるんだけど、とりあえずこれだけ覚えればいい」
黒板に書かれたものは、私が無学であるためか、いまいちピンとこない。
でもそのうちのひとつ、一番上の項目だけは理解できた。
魔力生成物に反応し、振動させ破壊する。
私が自分で生み出した岩魔術に圧し潰されそうになった時、ゾディアトス導師は光魔術のこの性質で私を助けてくれたのだ。
「光魔術は闇魔術と同じく、魔力に対して強い殲滅力を持っている。しかしそれは魂にまで影響するものではないので、闇魔術ほど害があるわけではない。といっても、強力には違いないけどね」
巨大な岩の円錐を、倒れる間に消滅させるくらいだ。
その力は相当に強いものと見て良いだろう。
「そして魔力の所有権を喪失させる。これは、身体強化の魔力にも影響するものだね。身体強化のための魔力すらも、光魔術は引き剥がすことができるわけだ。といっても、それも微力なもの。巨大な竜などを相手にしては、それほどの効果も期待できないだろう」
先ほど導師が灯してみせた光に私の頬が刺激を感じたのは、ひょっとしたらその影響があるのかもしれない。
その時、私は無意識の内に全身に力を入れてしまっていたということか。だとしたら、ちょっと恥ずかしいな。
身体強化すらも打ち消す光魔術。おそるべし。
既に私では、ゾディアトス導師を相手にしたら打つ手がないぞ。
「最後が式への干渉。この項目を発見した先人は偉大だね。これは、相手の理学式に光を逆流入させて逆祖、反駁させることができるし、逆に内側から押し流して式の構成を無茶苦茶にすることもできる。そもそも魔力生成物を破壊できる性質があるのだから、あえてこれで発動を阻害する必要もないのだが……式で稼働するようなゴーレム相手になら、有効かもしれないね」
こっちはもう、導師が何を言っているのかよくわからなかった。
「まぁ、でもこういった光魔術の性質くらいなら、ここにいる君たちであれば予習した人も多いんじゃないかな。目新しくもない講義で、そろそろ飽きてきただろうか」
新鮮すぎて逆に追いつけない、とは口が裂けても言えなかった。
なるほど、これがハイレベルな理学の講義というやつか。
属性科の学徒共は変態の集まりだな。
「へっ、こんなところもわからねーのに講義に来てるのかよ」
そんな私の心情を勝手に読み取ったナタリーが毒を吐く。
右脚を蹴飛ばしてやろうかと思ったが、まだ骨がくっついてないかもしれない。
私の優しさに免じて勘弁しといてやるよ。




