杁001 追尾する暗黒
機人御者が手綱を握り、激しく操る。
繋がれた駆鳥は短く鳴いて、その太く強靭な脚を更に忙しなく動かした。
だが御者に急かされなくとも、先頭を走る四羽は十分、自らの意志で先を急いでいる。
何故か。御者は暗がりの中で眼光を輝かせ、背後を見た。
『逃げきれるとでも思っているの?』
幌の真上から不気味な声が響く。
御者は、走る馬車に並走するように飛ぶ“それ”が恐ろしかった。
巨大な体躯に天敵も少ないコビンでさえ、初めて目にする不可解な現象に怯えていたのだから。
夜の街道の中、中に浮かぶ巨大な黒い球体。
黒い煙のような、かげろうのように向こう側の景色が歪んだような、不思議な外観を持つそれは、更に馬車へと近づいてゆく。
馬車を狙いとしているのは明らかだ。
「“イアズ・リウル・ティ・テルス”!」
しかし幌口から現われた魔道士によって、それは阻まれる。
木製のロッドの先に輝く紅い光は、投擲杖術を必要としない自ら弾ける炎の散弾である。
幾つものつぶてになった紅い炎は、勢いをつけて黒い影へと飛散する。
馬車と同じ速度で移動する、力の推し量れぬ黒い影。しかし炎の散弾は、その全てが命中した。
影は巨大だ。直径三メートルはあろう、巨大な暗い塊である。
速く直線的な動きで馬車を追いかけてはいるものの、回避行動を取らなかったそれは巨体であることも相まって、全弾が直撃したのだ。
『狙いは正確。威力も十分。けど、無駄よ』
しかし、黒い塊は余裕そうに嘲笑った。
黒い塊は、一切の傷も、ヒビも負っていない。
減速する気配も、その黒い球面を欠けさせるでもなく、馬車との並走を続けている。
杖から火弾を放ったおさげの少女は、困った顔を隠さずに馬車の中へと戻る。
そして石灯に照らされた幌の中で、少女は叫んだ。
「だ、駄目ですよリゲルさん! やっぱりできません!」
「高威力の術でも駄目だったか」
馬車の奥には、一人の若い導師が座っていた。
「なら次、風魔術いってみよう。そろそろ距離を離してやらなければまずいからね」
リゲルと呼ばれた導師は笑顔でさらなる指示を出す。
指示はこれで三度目である。
魔道士の少女、スズメは瞳に僅かな涙を浮かべた。
気は、ものすごく進まない。それでもやらなければならないのが、導師とその護衛である今の関係の悩ましいところである。
「でもあの様子だと、外殻には魔術攻撃が通用しませんよ。鉄も、こっちの芯が折れちゃった割には全く動じなかったし、火で対消滅を起こしている感じでもなかったです」
スズメは食い下がった。
なぜ頑なに拒むのか、その理由はわからないのだが。
「ねえ、リゲルさん、諦めましょう? もうここまで来たんですから、いい加減可哀想ですよ」
しかし板挟みの立場上、あの黒い塊に立ち向かうのは、精神的に結構辛いものがある。
スズメは、リゲル導師にはそろそろ諦めてほしかった。
だがしかし、それでもいらぬ知恵を働かせ、解決法を見つけ出そうとするのがリゲル導師であった。
「では、辺りの空気を巻き込む風の術を使おう。魔術でない空気を含んでいるならば有効かもしれないからね。ラテル・ヘテル・テルザムだ。さあ、張り切っていってみよう」
「ううっ……」
リゲルはどうあっても、黒い塊からは逃げ遂せたいらしい。
一切の反論を許さない微笑みに、スズメは再び幌の外へと顔を出した。
再び真上に浮かぶ球体に向けて、せめてもの申し訳無さを顔に示して、しかしロッドは慣れた手つきで差し向ける。
「“ラテル・ヘテル”――」
呪文を紡ぎ始めたところで、スズメは致命的な反撃を受けていたことに気づいた。
自分が宙に差し向けた木製のロッドの先石に、向こうからも同じように杖を差し出して、先石を押し付けている。
奇妙なことに宙に浮かぶ黒い影から、人らしき腕が伸び、それが杖を握っているのだ。
「対杖反駁……!」
『躊躇しすぎて距離を見誤ったわね、スズメ』
杖と杖の先石は触れ合い、お互いの理学式を複雑に絡め合い、阻害し合う。
先石が触れている間は、お互いのいかなる魔術も、その形を成すことはありえないのだ。
『はい、捕まえた」
「あっ!」
スズメが呆気に取られている間に、黒い塊から人の上半身が這い出てきた。
その女はスズメのすぐ近くにまで近づいて、彼女の手首を強く握りしめる。
振り払っても抜け出せない事は、非力な身であるため、直感的に理解できた。
“捕まっちゃった”。
スズメは黒い塊から出てきた上半身の女に驚くでもなく、ただただ諦め気味に落胆の息を吐き出した。
「よしよし、スズメは悪くない、スズメは悪くないわよ。私は怒っていないからね」
「うう、すみません……」
黒い塊から全身を抜け出した女はスズメを胸の中に抱き、その頭を優しく撫でてやる。
歳は普通の姉妹ほど離れているだろうか。
しかし暗黒の球体から現われた、毛先がくるりとカールした金髪の女性。
先ほどの登場も相まって、どこか見た目だけでは推し量れない威圧感を持っている。
「悪いのはあなたよ、リゲル導師」
その威圧感を、馬車の奥に座る女性へと指し向ける。
非難の意思が込められた蒼眼を後ろ側へと受け流すように、導師は首を曲げた。
「勝手についてくる方が悪いんだ。撃ち落としたくもなる」
「それが教え子に対してする事?」
「君はもう准導師だ。私が受け持つ学徒ではない」
「では准導師として、この旅にご一緒しても構いませんよね?」
「うっ」
リゲル導師の息が詰まる。
顔に張り付いたいつもの笑顔も、少々苦しげに見えた。
後はない。どうしようもない。
そもそも、彼女に気付かれずに学園を抜け出せなかった時点で、何もかも駄目だったのである。
馬車の中に紋信を発する魔導具があったのを、出発前に見抜けなかったのも痛かった。
出発時刻が夜でなく明るい昼であれば、夜空に浮かぶ黒い球体を発見できたのも、もうちょっと早かったかもしれない。
つまり、彼女を置いてきぼりにする作戦は、何もかもがダメダメだったのだ。
万策が尽きた。リゲルは確信する。
「……はあ、ここまで来たら仕方ないな」
意味のない咳払いを挟み、リゲルは苦笑いを浮かべた。
「歓迎しよう、クリーム君。私と一緒に、ミネオマルタまで同行してくれ」
「はーい!」
クリームと呼ばれた金髪の彼女は、元気に返事を返す。
かくして、リゲル導師による穏やかな首都への旅は、今この時をもって、完全な破綻を迎えたのであった。




