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打ち砕くロッカ   作者: ジェームズ・リッチマン
第一章 砕けるガラス
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函007 ひた隠す腕

 明朝、私は前日と同じく、早めに起床した。

 メールポストに学園からの学徒指令が届いていないか確認するためである。


 が、特にそれらしいものは届いておらず、金属箱の底には浅い埃が溜まっているのみ。

 今日の学徒指令は何だろう? 無いのだろうか。やるべきことがわからなくて、ちょっと不安になる。


 実は、学園の手伝いは学徒一人につき原則週に一度と決められており、私の当番はまた来週まで無かったらしい。

 それに気付くまで、私は律儀に早起きを続けるのだが、それはまた別の話だ。




 時間を持て余した私は、買い物に出かけることにした。

 寮の室内には既にまともな食料が残っていない。いちいちこまめに買い足すのも面倒なので、大量に買い込んでおかなければならないだろう。


 寮を出て、学園へ向かう途中の市場を散策して回る。

 市場は学園と寮の間にあることから、露店商の格好の稼ぎ場所らしく、日用品や食材、専門的な学習用具から魔道士用の杖に至るまで、何でもよく揃っていた。


 ミネオマルタは水の国にある。読んで字のごとく、水に囲まれた国だ。

 群島から成る、他とは違った孤立した国である。

 豊かな海産物はもちろんのこと、複雑な地形が生み出す洞窟からは、希少な宝石や魔石が採掘されやすい。

 岩礁には特有の魔獣や魔族が生息し、それらの生体素材も見逃せない特産品のひとつになっている。

 天幕の下を色彩豊かに飾る市場では、そんな故郷では見られないような珍しい品を並べている店もあった。

 しかし、眺めながらも買いはしない。珍しいだけでは買う気になれなかったのだ。


 店を冷やかす道すがら、しかし何も飲まず食わずというのも寂しいなと思い、私は青果店の前で立ち止まった。

 リンゴでもかじりながらと思って、軒先に並ぶ赤い果実に手を伸ばそうとしたのだが……。


 私の財布の紐は、依然として固いまま封印されていた。

 目線は、先ほどまで目当てだったリンゴの前で止まっている。


 何故か。


「三倍近いってどういうことだ……」


 高い。高すぎる。

 私の金銭感覚では、この市場の食品はあまりにも高額すぎたのだ。

 普段なら通りすがりに買うようなものにも手が伸びない。

 私の感覚では、それを買うくらいなら、主食になるような立派なものを買うからだ。

 そうして主食の品に目をやると、そちらも同じような倍率で値段がつり上がっているので、これもまた私を悩ませる。恐ろしい。

 結局何に金を使えば良いのかわからないまま、ついに私は見学しただけで市場を通り抜けてしまった次第である。




 水の国。

 かつて魔術と剣が栄えていた時代の名残もあって、多くの理学校が国のあらゆる場所に点在しており、杖や魔道具の生産、理学研究が盛んな国だ。

 陸続きではないとはいえ、船に乗って海を渡れば、いくつかの国へ移動することもできるので、豊かな商人の多くは、この国に本拠を構えているのだという。

 美しい景観も相まって、他国からの富裕者が“老後は水の国で”と別荘を建てるケースも少なくはない。


 どちらにせよ、面積は少ないが人気のある土地、素晴らしい景観。

 この国は、金持ちが好む国と言えるだろう。

 古代都市ミネオマルタは、そんな水の国の首都である。

 有事の際に魔族や津波の害が及びにくい、内陸部の大都会。

 かつての王都の名残が伺える、美しい街並み。

 初等学校に通った者であれば、世界中の誰もがその名を覚えている。


 元王都。現首都。

 そりゃあ、リンゴひとつでも高いわな。




「けど、飲まず食わずってわけには、いかないしなぁ」


 寮にはまだいくらか、ミネオマルタへ来る前に買っておいた携帯食料が残っている。

 とはいえ、何食分も保つ量ではない。近いうちに、ひと通りまとめて揃える必要があった。

 特異科の学徒には、毎月暮らしていくために必要な給付金が与えられるという旨は聞かされているが、それでも心配になるのが貧乏性というものだ。


 とりあえず、今必要な一食分は買っておいて、あとはソーニャに聞いてみよう。

 沢山の量を安く買える店があれば、儲けものなんだけど。


「あの、すいません、これを」

「あいよ」


 人知れず懸命な判断を下した私は、近くの品揃えが良い露店でベリーパンを買った。

 甘酸っぱいベリーのペーストを混ぜたクロムギパン。外側には実のままのベリーも散りばめられており、その酸味がまた美味しい。私の好物の一つだ。

 少々高いものの、腹にはかえられぬ。今だけは仕方ないとしよう。


「ふふん」


 半端な金額設定故に、返ってくる多めのつり銭の重みは嫌いじゃない。これも貧乏性っていうのかな。




「おっ? ロッカかい?」

「ん?」


 パンをかじりながら学園の正門を潜ると、塀のすぐ裏に美男子が座っていた。

 麻袋の上に腰を下ろし、横たえた大きな車輪に向き合い、その手には木槌を握っている。

 同じ特異科のクラスメイトであることだけは覚えていたが、どうしても名前が出てこない。

 えっと、なんだっけ。えっと。


「僕はヒューゴ、ヒューゴ=ノムエルだ」

「ヒューゴか。悪い、昨日だけじゃ覚えきれなくて」

「ははは、いやいや良いさ、僕なんかよりも印象深いクラスメイトが沢山いただろうからね」


 その通りだった。申し訳ない。

 爽やかな美男子は、車輪を打つ木槌を置いて握手を求めた。

 私はこの時も、相手とは逆側の左手を差し出す。


「ロッカの右手は義肢かい?」

「……隠してたわけじゃないんだけど、やっぱり失礼かなと思ってさ」

「気にしないさ、ロッカが嫌なら無理にとは言わないけど」

「……」


 今の時代、機人や義肢に差別がほとんど無いことはわかっている。だけど……。

 私は少しだけ躊躇したが、心を決める。

 彼がそう言ってくれるなら、喜んで。

 自信を持って、利き手で握手させてもらおう。


 私はオイルジャケットに潜ませた右手を差し出した。

 ヒューゴは迷わずそのままの調子で手を握ろうとしていたが、腕を見た時にどうしても、一瞬の動揺を禁じ得なかったらしい。手がピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。


「大きいっしょ」

「お、おお、確かに大きいね……右手だけならライカンよりあるかもしれない」

「見てくれ通り、不便でね」


 ヒューゴは私の義手に負けないよう、大きく手を開いて握手に応じた。


 赤褐色のみすぼらしい金属で造られた右腕は、一般的な成人男性が手袋をはめてもまだ一回りは大きいだろう。握られるヒューゴの手が子供のように見えてしまうくらいだ。

 装甲は全体的に古く、鋲で留めた跡を一切隠さない、外観無考慮の無骨な作り。

 見た目通りに間接の可動域も悪く、細かな作業は難しい。

 少なくとも女性向けでないことは、誰でも一目で理解できる腕だ。


「僕なんかよりも、ずっと苦労してるみたいだね」

「この腕だけだよ」

「頼りになる良い腕だ、改めてよろしくな、ロッカ」

「ありがとう、ヒューゴ。よろしくね」


 握手を交わしたヒューゴは、今朝からここで鳥馬車(とりばしゃ)用の車輪を整備しているらしい。

 学園から頼まれたことでもない、自分からの申し出。

 単なる自分の趣味なのだとか。物好きなやつだ。


「実はほんの少しだけ、この手伝いで修繕費をもらってるんだ」

「本当? お金ももらえるんだ」

「馬車整備の人の善意でね、他の手伝いでも、ものによっては小金を稼げるかもしれない」

「良いこと聞いたよ、ありがとう」

「うん、お金に困ってるのかい? なら、マコ先生にでも聞いてみると良いかもよ、思わぬ臨時収入を掴めるかも」

「困ってるわけじゃないんだけどね、まぁ、覚えとくってことで」


 ヒューゴの第一印象は、爽やかで優しい好青年だった。

 彼のような真面目な学徒も特異科に居るのだなと、私は自堕落一直線な学科の認識を少しだけ改める。

 どうせ学園生活も暇なものになるだろうし、手伝いで金を稼ぐのも、割の良い過ごし方かもしれない。

 そのお金を仕送りに回せば……けど、父さんはお金を突き返してきそうだなぁ。

 私にできる手伝いなんて高が知れてるし、どうしたもんだろ。


「そうだ、導師さんの手伝いなら、マコ先生よりもクラインの方が詳しいかも」

「?」


 なぜそこでクラインの名が挙がったのか、私にはわからなかった。


「クラインは普段から、色々な導師さんの手伝いをしてるからね」

「ふうん……でも、あいつには聞きたくないなぁ」

「はは、そうだろうね」

「分かってて言ったな? ヒューゴ」

「ごめんごめん、けどマコ先生よりもツテが広いのは本当さ」

「先生よりも生徒のツテが広いって……わかった、それも覚えとく。ありがと」

「どういたしまして」


 クラインとは一体何者なのか。

 普段から何をしているのか。

 昨日よりもずっと、あの男がよくわからなくなってきた。




 二日目の講義。

 私は転入生らしい特別扱いをされることもなく、特に多く指名されることもなく、普段通りらしい落ち着いた雰囲気の中で講義を受けている。

 相変わらず内容は簡単なものだったけど、所々で見落としていた箇所や覚えていない部分もあり、油断はできない。

 理学の仕事や魔道士の仕事に携わろうなんて考えているわけではないけど、無駄な時間の過ごし方だけはしたくない。一応、勉強にも全力で取り組んでいるつもりだ。

 成果は……芳しくないけども。


「属性術の分類は固形物としての鉄及び水属性、エネルギーとしての風及び火属性、中間に雷属性、その欄外に質量属性の影と、魔力的に対を成す光と闇が置かれ……」


 ところで、講義の中で、小さな発見があった。

 怠惰に卒業するだけと揶揄される特異科でも、中には真面目に講義を受ける者がいたのだ。

 大柄な機人、ライカンはその一人である。


『マコ先生! 雷属性は火と風の間にありますが、影の間にもあるということなのでしょうか!』

「ええ、雷属性は5大属性として数えられていますが、火、風、影の性質にも関わりを持つ、かなり特殊な属性と言えますね」

『ほほう……むむ、雷、難しいのう』


 魔道士として基礎的な知識に乏しい者はいるが、かといって決して全ての者が無関心というわけでもないらしい。

 半数以上が机に突っ伏している中で、おっとりと講義を進めるマコ導師は、途中で飛び出てくる質問には的確に答えていた。


「マコ先生、オレからも質問があります」

「はい、なんでしょう? ユノボイド君」


 そして意外なことに、おそらく秀才であろう隣人のクラインも、殊勝な態度で質問していた。


「“エイグ・ラギレルテル(火竜よ跳ねろ)”の逆祖(ぎゃくそ)を行う場合、ラギレルテルの部分はヘテル、ラギルの順に分割して行うことも可能ですか」


 何語だよ。


「はい、独特な略称なのでわかりにくいですけど、ヘテル、ラギル、エイグでも逆祖できますよ」

「ありがとうございます。流石はマコ導師だ、素晴らしい」

「あら……ふふっ、ありがとう」


 すぐに答えられるマコ導師もマコ導師である。すごい。

 伊達に科を一身に請け負ってはいないという事だろう。

 そして今の質問から察するに、彼は講義の進行を無視したとしても、本当にどのような質問にも答えてくれるようである。

 ならば、と私は、なんとなく質問を思いついた。


「先生、私からも良いですか」

「はい。ウィルコークスさん、何でしょうか?」

「えっと、属性についてなんですけど。森属性というものは無いんですか」

「森属性ですか」

「国名には森の国ってあるから、気になって」


 それは普段はどうでもいいとして放り投げている、私の中での素朴な疑問だった。

 本当にどうでもいいんだけど、一応、ここが良い機会だから。


「確かに、地図上に森の国が存在しているので、森の術があるのではと考える人は多いですね。ですが、植物や動物を操作する魔術は、属性としての確立は困難だと言われています。属性術ではない、独性術(どくせいじゅつ)にならば、理論上はあるらしいのですが」

「ありがとうございます」

「いえいえ」


 私はひとつ利口になった。

 こんな慣れない達成感を、心地良く感じる。


「属性はこの8つで決まりです。ちょっと前までは光の属性術が確立されていなかったのですが、3年前にようやく属性として立派に形が整ったものが発表され、全ての属性が理論上扱える形として世に出されたわけですね」


 魔術の属性が8つあるという話は、昔から聞いて知っていた。

 でもつい最近になってしっかり加わったものもあったなんて、そこは初耳だった。

 魔術は極まるところまで極まっているんだろうなと思っていただけに、少し驚きだ。


『あの時は、快挙として話題になりましたね……発見した魔道士は理総校(りそうこう)の学徒で、まだ十代であったとか』

「ええ、魔道士にとっては大ニュースだったんですよ? 光の発見というものは……えっと、まあ、この話はここまでにしましょうか」


 マコ導師は“とにかくすごい事だったんですよ”、と静かに付け足して、再び通常の講義へと針路を戻す。

 導師が黒板に向き直ったのを確認して、前の席のソーニャが、私に悪巧みでも思いついたような、良い笑顔を向けてきた。


「ねえねえロッカ、講義が終わったら外で遊ばない?」

「!」


 それは講義が終わった後、私から頼もうとしていたことだった。

 これを逃す手はない。


「行く。行く行く、絶対に行く」

「よし、決まりね。必需品のお店とか、まぁとにかくブラブラ歩きながら紹介してあげるわ」

「ありがとうソーニャ、丁度困ってたから助かるよ」

「良いの良いの、ふふ、今から楽しみになってきちゃった」


 ソーニャは講義そっちのけの一員だったが、根の良い人間であることは間違いない。

 約束を取り付けた私はソーニャと同じく、以降の講義内容がなかなか頭に入らなかったが、それでも楽しい一時をやり過ごしていった。




 マコ導師の講義が終わると、私とソーニャの二人は早足で学園を後にした。

 もちろん、ミネオマルタを観光して回るためである。


 古代都市ミネオマルタは水の国の本島中央に位置し、周囲には目立った悪路もないために、ほぼ全方位に広く発展している。

 魔術によって栄華を極めた魔道士の聖地であることは今も変わらず、城下には杖市場、導具市場が通りの一角を占め、魔道士向けの装飾品や護符なども売られている。

 ただ、そんな通りを外れても、数十メートル間隔で杖の露店を見ることになるので、この街のどこを歩いたとて、杖に困ることはないだろう。

 無論、本場での出品ということで、掲げられた値段も相当に色がつけられているようだが……。


 魔具鑑定、魔獣素材の鑑定、魔石・魔金の専門店、魔術補助用品、胡散臭い魔術的健康用品など。

 杖に限らず、この街ではとにかく、魔術と名のつくものに事欠かないらしい。

 学園から学園寮へ歩くまでに、一店につき一品ずつの買い物をしたとしても、魔道士装備一式が十分に揃ってしまうほどであるとか。

 そんな魔道士にとっては夢のような街であるが、私とソーニャの二人には、大通りは興味のないものばかりであった。


「こっちこっち! ここ抜けると生活用品とかの安い通りに出るから!」

「へぇー……」


 ソーニャに先導され、あちこちに目を泳がせながら追従する。

 導かれる先は、人が入らない細い隙間。

 マスケルト戦杖店とジューア魔具店の間から入る、住宅区へと続く細い裏道。

 幅1メートルも無い狭い路地の真上では、陰干しされたシーツが何枚もはためいている。

 この路地も誰かの私有地なのではないかと、私は狭い場所を通るたびにやきもきしていた。


 変な道を通るものの、ソーニャの道案内は完璧だった。

 ごみごみした魔道士用品の通りを最短距離で抜け、人気のない狭い路地を何度か折れれば、丁度良い混み具合の食品市場がすぐそこにあった。

 学徒寮で生活する若者も比較的安いこの市場で食品を買っているが、彼らのほとんどは大通りに添った迂遠な道を利用しているため、人の多さに揉まれたり、遠回りだったりと、知らずのうちにちょっとした損をしているのだそうな。


「はい、ここが学園の近くで一番安い所ね。他は全部高いわよ? 半分以上は観光の人をぼったくってる店だから、気をつけて」

「……買う前にソーニャと出会えてよかったよ」

「ふふーん、まだまだあるわよ」


 この通りの市場を歩く人々は誰もが地元の人間らしく、抱える荷物も服装も軽めのものだった。

 物価が総じて高いミネオマルタでは、ここのように地元住人御用達の市場がいくつもあるのだろう。


「今日はエクトリアの岸で捕れたノダチウオが安くなってるよぉ! 残り少ない、さっさと買った買った!」

「マドニャックの湿原で育ったオノトンの脚肉だ、毒の処理は済ませてある、こちらはギルドのお墨付き! どうだい一つ!」


 呼び込み方も、表の澄ました顔の通りとは違っている。

 あちらがかしこまった佇まいで物を売る店ばかりだとするなら、こっちは勢いで売っていく通りなのだろう。


「安心して、服屋はちゃんとしてるから! しっかり仕立てもしてくれるし、そこは表の店と変わらないわ」

「へぇー……」


 食料系の露店の向こうでは、様々な生地や、出来合いの服を並べた店が軒を連ねている。

 私も年頃の女の子だ。鮮やかな店頭に、足を止めた。


「これ可愛いな……」

「どれどれ、お! 良いんじゃない?」


 華やかな衣料品店の入り口で、めぼしいものはすぐに見つかった。

 ソーニャの都会的価値観でもアリなものだと思えたらしく、お世辞抜きの賛同も得られた。


「うん……良いんだけど」


 服を自分の肩に合わせる前に、まじまじと袖を見る。

 袖口を広げたり、覗いたり。私は様々な方法で袖を観察した。

 しかしどう眺めてみても、それは女性の手首に合わせたごく普通の、華奢な袖口であることに変わりはない。

 開いてみても引っ張ってみても伸びない。惜しいけど、この服は私には合わないようだ。


「どうしたの? 私は良いと思うけど……?」

「袖が難しいかな」

「袖って……あ」


 可愛らしい服を元の場所で返す私の右手は、男の手よりも大きい。

 関節が自由に動かない大きな義手では、女性の服の大半に袖を通すことは出来ないのだ。

 だから今着ているブラウスも、肩から先は袖がない。

 身体に合った服を着れないのは、なかなかに不便である。


 ソーニャは私の腕には何かがあるだろうと、あえて今まで口を挟まなかった。聞くつもりもなかったのだろう。

 彼女の申し訳なさそうな顔は、私が身につけている大きなジャケットの理由のひとつを、少しだけ理解してくれたのかもしれない。


「なんか……ごめんね、ロッカ」

「ううん、良いんだ。この腕、不器用だし、大きいし、重いし、色々なところで不便なんだよね」


 赤褐色の義腕をジャケットのポケットに仕舞いこみ、自嘲する風でもなく、私は笑う。

 強がっているわけでも、空元気でもない。


「でも良かったよ、ここなら品揃えも豊富だし、数着くらいは着れるものが見つかるかも」

「数は多いからね」

「うん、服はまた今度選ぶよ。今はそれよりも、食事の事を考えなきゃいけないからさ」

「うん、そうしましょうか」


 気を取り直して次に向かった店は、出来合いのパンを販売しているベーカリーだった。

 都会らしいそこそこ出来のいいパンも揃えられており、店先からは芳醇な香りが漂ってくる。

 ガラス窓から見える沢山のパン。よだれが出そうだ。


「あー……いい香り、この近くに住めたら、ずっとお腹が鳴っちゃいそう」

「あっはは! なぁに、そんなにパンが好きなの?」

「うん、けどこんなに良い香りのパンはなかなか食べたことなくて……」

「じゃあ食べてみる?」

「! うん、食べる! 食べよう!」

「よーし、じゃあ行くわよ!」


 ソーニャは私が興味を示すものを何でも説明してくれて、率先してそちらに誘導してくれた。気が利く良い子だ。

 街のことなら大体なんでも知っているし、店の人に知り合いも多い。

 自分の庭を案内するように、ソーニャは私をぐいぐいと引き連れた。

 この日、私はミネオマルタで初めて出来た友達と一緒に、思う存分に都会を満喫したのであった。




 夕時になり、大通りの路肩にひっそりと立つ灼灯(しゃくとう)柱が小さな明かりを湛え始める。

 夜が来た。

 旅人は宿へ戻るために、街人は家へ帰るために帰路をゆく。


 同じ道の上で、大荷物を抱えた少女が二人、仲良く並んで歩いている。

 大買い物を完遂した、私とソーニャである。


「買ったなー……」

「買ったわねぇー……」


 最大限の安値を意識するわがままな私の意向を汲み取ったソーニャは、久々に燃えに燃えたらしい。

 彼女は値段比べ、値段交渉、値下げ待ち、あらゆるお買い物技術を全力で駆使し、寮での暮らしに必要な品をあれもこれもと手に取っては他の店と比べ見て、そうして買い揃えているうちに、いつの間にやらこんな時間になってしまったのだ。

 重い荷物を持ちながら何時間も歩き回ったが、不思議なことに私の中では疲労以上に達成感の方が強く残っている。


「でもごめんね、ソーニャ。荷物も持ってもらっちゃって」

「良いのよこれくらい、気にしないで?」


 ソーニャは自分の買い物はほとんど行わず、ほとんど私の買い物に付き合うだけの形で同伴していた。

 ちょっと申し訳ない気持ちになって謝ったけど、ソーニャにとっては他人の買い物でも同じように楽しめるらしく、全く気にしていないと言う。

 なんでも、お金を使って四苦八苦すること自体に楽しみがあるのだとか。

 私には全くわからない考え方だ。


「はー」


 斜陽に照らされたソーニャが、その色によく似た気だるそうな声を吐き出す。

 金髪が輝いている。

 ……汚れたような茶色の髪の私は、彼女のふわふわした黄金の髪に、少しだけ嫉妬してしまった。


「明日も講義かー、だるいなぁ」

「ソーニャは、座ってやる勉強は嫌いなの?」

「そりゃあ……嫌いよ。私、魔術なんて興味ないもの。実技もね。あんなのは真面目にやって得するもんでもないわよ」


 予想はしていたが、ソーニャ=エスペタルという人物はやはり、実に模範的な特異科の学徒らしかった。


「ソーニャはいつから特異科にいるの?」

「私? 私は四年前からよ」

「四年前!?」

「な、なによう、そんな驚く? 六年で卒業なんだから、普通じゃない。入学の時期が早かっただけよ」

「ああ、そういう事ね」


 特異科の教室内の光景を脳裏に思い浮かべてみれば、自分よりずっと小さな子もいるし、歳上な男もいた。

 私自身もそうであるように、転入の時期はみんなバラバラらしい。

 そうか、初等学校とは違うもんね。なるほど……。


「私は四年前だけど、ヒューゴは三年前くらいかしら。ボウマとライカンは同時期に入ってきて、二年前だったかな」

「ふーん……じゃあ、あのクラインって奴は? 見た感じ、四、五年?」

「クライン? まさか、あいつはまだ一年も経ってないと思うわ」

「へえ、そうなんだ」


 あれだけ学園内を練り歩き、普通は誰も入らないような場所を右往左往する学園のヌシのような男が、まだやってきて一年なのだという。

 その事実はかなり意外だ。


「クラインの事気になってるみたいだけど、ロッカってもしかして、ああいうのが……?」

「ちょっと、人に向ける目じゃないよそれ」


 怪訝そうなソーニャの目は、私の人間性を根本から疑いにかかっているようだ。

 やめてほしい。

 私も私で、服についた虫を払うが如く、全力で否定する。


「私だって魔術なんか興味ないし、勉強もそんなに好きじゃないし。何より嫌味っぽい奴は、大嫌いだよ」

「安心したわ」


 ソーニャは安堵というよりも“そうでしょうね”とでも言いたげに笑っていた。




 この日のショッピングは私の部屋の前でお開きとなり、ソーニャは荷物を部屋に下ろすと、彼女もまた自分の部屋へと戻っていった。

 去り際に「何か可愛いもの置けば?」と言われてしまったので、今度は小物も買おうと思う。

 ソーニャの部屋はここより二つ下の階らしいのだが、二階分の荷物持ちにも付き合ってくれる辺り、彼女は本当に付き合いの好きな人間らしい。


「……いい友達が出来て良かった」


 二人で分けていた荷物を一度に持った重みを体験してみて、素直な独り言を零す。

 私は今日の寝る間際まで、多めの品物を仕分ける作業に奮闘することとなった。




「ん?」


 そうして数時間の間、経験少ない大きな買い物に、おそるおそる財布の中身と、今日の買い物を見比べている時の事である。

 勘定に違和感を覚えた私は、財布の中身をベッドの上にぶちまけて、大も小も一枚一枚丹念に数え始めた。


 だが何度計算し直してみても、買った額とその残った釣り銭の額が少々釣り合わない。

 二百YENほど足りないのだ。

 これは、ミネオマルタでいうところの、リンゴ7個分に相当した。

 ものすごく高いわけでもないが、笑って流せるほど軽んじられる額でもない。少なくとも、この私にとっては。


「どこかでちょろまかされたかな……ちぇ」


 私は都会の見えざる悪意と、市場の暖かな笑顔を頭の中で交互に浮かべ、そのうち人間というものが無意味に恐ろしくなって、シーツに潜り込んで眠った。

 なんだかんだで、今日は疲れたのだ。

 でも、すごく楽しかったな。

 おやすみなさい。


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