箕019 沈みゆく山際
ミネオマルタ西部、軒を連ねる煉瓦工房の煙突が、石造りの街のために灰色の煙を吐き出す。
顔料を混ぜた、良質な薄水色の貝煉瓦。
使う材料や作業行程は、数百年、数千年もの昔から変わらずに、ここに受け継がれているのだという。
「もうすぐ郊外だぞ、あと少し、我慢してくれ」
イズヴェルが麻袋を撫でた。
そして、彼は考える。
昔と変わらぬ都市。昔と変わらぬ建物。
ならばどうして、この小さな魔獣はミネオマルタへと迷いこんだのだろうか。
立ち上る煙。甲高く鳴り響く鐘。雑踏をゆく人々。
ミネオマルタは、ラビノッチにとって優しい街ではない。
お互いに、到底、馴染める環境ではないのだ。
街は異物であるラビノッチを排斥しようと攻撃的になり、結果として当然のように、彼は傷ついてしまった。
「でも、大丈夫だ」
縄張りに踏み込んだよそ者は、深く傷つけられる。殺されることだってある。
しかし、逃げれば大丈夫だ。
縄張りを出て、遠く離れてしまえば、縄張りのヌシは執拗には追ってこないのだ。
街の中にいる間は賞金首となっているラビノッチも、外界に出ればただの魔獣。
害性の低い、自由気ままに走り飛ぶだけの、鳥とそう変わらぬ存在に変わるだろう。
となれば、誰も捉えるのが困難なラビノッチを追いかけようとは思わない。
「君は自由になる」
煉瓦工房を通り過ぎ、馬車駅を通り過ぎ、田畑を通り過ぎ、小川を跨ぎ、イズヴェルはそこに辿り着いた。
そこは、何もない。ただ果てしなく街道が続くだけの、広い一本道である。
しかし辺りには木々が連なり、遠くには小高い山の姿も見える。
人の手が入っていない部分も多いこの道は、自然そのもの。向こう側の山に行けば、魔獣たちが多く生息する地帯にだって辿り着けるだろう。
イズヴェルは彼方に霞んで見える山を眺め、空飛ぶウサギの姿を夢想する。
そして急ぎの用を思い出したように、硬く結んだ麻袋の紐を解き始めた。
袋から顔を出したのは、白い毛並みのウサギの顔。
可愛らしいこの顔だけを見れば、誰も魔獣だとは思わないだろう。
ラビノッチは鼻をひくつかせて、辺りの匂いを探っている。
雷の術によって奪われた意識は戻ったようで、這い出てくる前足も、少々動きは悪かったが、概ねは健常に袋を退けようとしている。
そして周りに害気がないのを確認したのか、覚悟を決めたように、一気に袋から飛び出した。
イズヴェルは素早い動きに少々驚いたものの、すぐにその表情を微笑みへと変える。
晶沈鱗のロッドを傍らに置き、片膝をついて、目線を下げる。
そしてラビノッチの頭を大事そうに撫でてやるのだが、当のラビノッチはちっとも気持ちよくなさそうに首を振り、イズヴェルから離れてしまった。
イズヴェルは苦笑したが、それで良いだろうと思った。
――人と関わらない。それが魔獣というものだろうから。
「さあ、お行き」
イズヴェルは警戒させないよう、町側へと数歩離れた。
逃してやる身として、ちゃんと自然へ戻るのを見届けなければと思ったからだ。
「……? どうした」
ところが、ウサギは一向に逃げようとしない。
向こうに見える山にも、そばの林へも、駆け込もうとしなかった。
ただひょこひょこと右前足をいびつに動かしながら、イズヴェルの足元に近づいているのだ。
「こ、困ったな」
イズヴェルは焦ったように白髪を掻き、しかしその割には満更でもなさそうな顔を浮かべていた。
助けた魔獣が、人に懐く。彼自身もよく読んでいる冒険譚などでは、見慣れきった話の流れである。
しかしそんなありきたりな流れは彼は好きだったし、憧れてもいた。
「魔獣を飼うのは、大変なんだぞ?」
足元に近づいてきたラビノッチを撫でようと、屈む。
イズヴェルが再び手を伸ばして、しかしその手はまたしても拒まれた。
「え?」
ラビノッチはイズヴェルさえも無視し、前足をひょこひょこと動かしながら、ゆっくり歩いてゆく。
一歩ずつ、しかし意志を持って確実に、ミネオマルタの方向へと。
当然、イズヴェルは困惑したし、焦った。
「こ、こら、そっちは危険だ。行ってはいけない」
もう一度大きく手を伸ばそうとするものの、またしてもラビノッチはそれを避けた。
今度は拒否を明確とした、逃げるような早足で。
これにはイズヴェルも、傍らに置いたロッドを持って立ち上がるしか無かった。
ロッドを握ってからそれをどうするのかと自問するが、彼に答える暇などない。
ラビノッチは助走をつけるように、リズムよく街道の土を踏みしめ、街の方角へと走ってゆく。
「待つんだ! 何故! そっちは、駄目なのに!」
ラビノッチは耳を貸さない。たとえ彼の言葉の意味がわかっていたとしても、彼はこうして、自らの意志をもって走り続けていたことだろう。
彼のやることはひとつである。
ただただ黙って走り、両脚の翼を広げるのみであった。
そしてある程度の速度に達した時、純白の両翼は大きく開いて、それと同時に高く跳躍した。
「ああっ!?」
イズヴェルが叫び、上を見上げる。
ラビノッチが飛んだのだ。
まだまだ高さのない飛行ではあるものの、確実に飛んだ。
風を受け、空気を切り、街に向かって飛んでしまった。
彼は一度着地した後も、また再び同じように、今度は更に力を込めて大地を蹴って飛び上がるだろう。
ラビノッチの目指す場所は言うまでもない。ミネオマルタである。
なぜミネオマルタを目指す必要があったのか。
もちろん、そこには新鮮で、栄養豊富で、大量の食料があちこちに転がっているためである。
「“イグズ・ディア”」
「クゥッ」
飛翔したラビノッチの頭に、青光る稲妻が疾走した。
バン、と銃でも撃ったような大きな音が静かな街道に響き、すぐに元の静寂が戻ってくる。
速度をつけようと第一段階に入ったラビノッチの身体は、その早さのまま土の上に落ちて、小さな身体を地面に何度も打ちつけながら転がってゆく。
純白の毛皮を土色に汚したラビノッチは、一足のブーツに当たってようやく動きを止めた。
ブーツの持ち主は、先ほどのイズヴェルのように腰を屈めると、それもまたイズヴェルと同じように、ラビノッチの額に優しく手を触れる。
そして、イズヴェルが何かを叫ぼうとする暇もなく、
「“イグジム”」
彼の手からは二度目の雷光が迸り、それは至近距離によってラビノッチの頭部を貫いた。
大きく跳ね、そして静かになったラビノッチの身体が、イズヴェルに全ての終わりを告げていた。
「……」
イズヴェルが沈んだ目線を苦しげに持ち上げると、そこには雷撃の主たるクラインと、その後ろには四人の学徒が揃っていた。
術の炎が切れてから、そのまま走ってここまでやってきたのだろう。
彼らの到着時間は想定の範囲にはあったが、心のどこかで“もっと遅ければ”と叫びたい理不尽な気持ちが、陰鬱に燻った。
「あらゆる生き物は自分にとっての最適な住処を探し、そこに定住しようとする。人でも、当然、ウサギでも。魔獣や、魔族ですらも」
クラインは足元のラビノッチを拾い上げ、その動かぬ瞳をしげしげと見つめる。
「このラビノッチは、経緯はどうであれ、この街に居続けると、間違いなく自分の意志で決めたのだろう」
今はその瞳は何も語らなかったが。
「現にこいつは何度追われても逃げ、何度捕まりそうになっても逃げ続け、しかし、街から出ることだけはなかったのだから。つい、先ほどもな」
クラインは純白の毛並みを手で荒っぽく払う。
毛についた土はまだ奥の方に残っており、完全に綺麗なものとするには、一度水で洗う必要があるかもしれない。
当然、その頃には毛皮だけになっているのだろうが。
「……クライン、僕は……僕のしていたことは、間違っているのか?」
「だろうな」
震える声の少年に、クラインは淡白に答えた。
「人には人の領域があり、魔獣には魔獣の領域がある。
君はそう言ったな。それは間違っていないだろう。しかし……
領域を侵すことは、あってはならないとは。オレは、そうは思わない」
クラインはイズヴェルに背を向けて、ラビノッチが向かうはずだった街へと歩き出す。
「領域を侵したければ、侵せばいい。常識を覆したければ、覆せば良い。力尽くで、それが通ると信じているならば、やればいいのだ。あらゆる逆風を一身に受ける覚悟が、そいつの中にあるのならば」
果ての山際に傾き始めた陽光に背を向けて、クラインは歩いてゆく。
同時に、その後ろにいた機人や、子供や、青年も、同じように街へ歩き始めた。
ただ一人、目付きの鋭い少女だけがその場に残り、立ち尽くすイズヴェルをしばらく睨んでいたのだが、
「うっ……っく……」
子供のように涙を流し、それでも嗚咽を堪えようとする彼の様を見てすぐに、ばつが悪そうに踵を返してしまった。
イズヴェルは太陽が山の中に沈むまで、路上で泣き続けていたという。




