函006 巡り遭う廊下
あまりの内容の薄さに劣等生でもあくびをこぼしたくなるおさらい授業は、昼前には終了した。
簡単すぎて、自分の行く末が更に不安になる。
「聞いてはいたけど、本当に簡単なことしかやらないんだ……」
「今日はおさらい中のおさらいって感じね、まぁ、普段やる内容も似たようなものよ」
マコ導師が去った講義室は、帰り支度をする学徒の話声で賑わっている。
今日の講義が終了したことに未だ実感の湧かない私は、前の席に座るソーニャと話していた。
「ロッカ。私達の本分は、たまぁーに導師さんの理学実験にお付き合いする事だから、普段何もしないことをそんなに気にしなくたって大丈夫よ」
「り、理学実験って……何されるのさ」
理学実験。
妄想の中の私は、暗い部屋のベッドに横たえられ、白衣の男たちに囲まれている。
彼らは私を興味深そうに眺めながら、鋭い刃物でお腹を……ああ、刃がお腹に。
やめてやめて、実際の体まで痛くなりそうだ。
「あの、何を想像してるのか知らないけど、痛いことは何もないわよ? 特異性がある自分の魔術を披露したり、変な紙に手を当てたりするだけね」
「ふーん……やりごたえはないんだ」
「楽チンで助かるわ」
「……うん、そういうもの、なのかな」
「ロッカは不満?」
「なんだか精神が腐って行きそうで……」
「すごい言い方ね」
私の真剣な悩みは通じなかったのか、ソーニャは笑っていた。
特異性を持つ学徒達による特異科制度は、既に成立から数十年は経っているという。
頭の良い連中が考えることだ。成立のきっかけなどは私にはわからないが、しかし多少世間の評判が悪くとも、決して後ろ暗くはない立派な制度であることは間違いない。
堕落を認めるわけではないけど、それに乗っかることも、とりあえずはアリなのかな。
「さて、印刷か」
隣の席のクラインが立ち上がった。
手には原稿をまとめた本だけで、鞄の類は一切持ち込んでいないようだ。
薄い水色の髪と猫背。老人と見間違えそうな後ろ姿を見せながら、クラインは速やかに退室してゆく。
私は終始、彼を見送っていた。
「早速ロッカも、クラインと揉めたのね」
「私……も?」
「うん、あいつは神がかり的な自己中男だもの、機嫌が悪いっていうことは、何かされたんでしょ?」
彼が自己中心的であることは、今日の一件や二件でよく理解している。
理解者に会えた喜びに、私は激しく首を縦に振った。
「そうだよ、あいつマジでムカつくんだよ」
「うん、みんな誰でも、クラインに対しては必ずそんな反応するのよね」
「あいつ何なの? 今もまた、原稿? だか持って行ったけど」
「さー? あいつは普段から、講義が終わった後もよくわからないことしてるからねぇ。普段から変な施設に立ち入ったり、変な実験とかしてたり、とにかく変な奴よ」
ミネオマルタ国立理学学園の学徒であれば、学園内の施設をある程度自由に利用できるようになっている。
もちろん施設を担当する導師の許可を得なければならないけど、学徒が利用する施設といえば、大抵は図書室を利用する程度らしい。
「勉強熱心なの?」
「そうね、頭はとびっきり良いわね」
褒めるソーニャの顔からは嫌々ながらの拒否反応が出ていた。
彼女も相当にクラインのことが苦手らしい。
「まぁ、不幸なことにロッカは隣だからね……すぐにわかると思うよ、あいつが嫌われてる理由がさ」
「既にかなり嫌いなんだけどね……」
隣人に不安を覚えつつも、苦笑いができるのはソーニャのおかげだった。
どうやらこの学園では、適当ながらも平穏な生活が送れそうである。
もちろん私には、あわよくば学園を出たいという気持ちも残っているんだけど……。
クラインが嫌な奴であることは、字選室のやり取りからずっと異論無しである。
しかしソーニャが言う自堕落な学園生活については、内心で賛同できない。
かといって、基礎的な学に欠けている私は図書館で知識を溜め込もうという意欲に燃えているわけでもなく、理学自体が自分に向いているものだとも思っていない。
ただそれでも今は、この大きな学園を歩いてみたいという気持ちだけはあった。
幸い、学徒であれば他の棟への往来も自由みたいだし。
暇に任せて学園内を探検してみようかな。
中の構造を覚えておいて、損は無いだろう。
「学園の中くらいなら、ソーニャに案内してもらわなくても大丈夫だよね」
朝よりも軽快な気持ちで、私は歩き出した。
そんないい気分がすぐに害されることになるとは、この時の私は想像もしていなかったのである。
この時は自覚もしていなかったけど、私の姿はとても目立っていたらしい。
朝露や驟雨が裾を濡らす煩わしいこの地方では、レザーのロングブーツという装いは珍しくはない。
学園内でプリーツスカートを履く女子学徒はそこそこ多いし、私のような袖のないブラウスは珍しくはあっても、スタイルとしては一般的な範疇と言えるだろう。
唯一、その上から羽織る丈の長い男物のオイルジャケットが、何よりも目立っていたのだ。
「……」
「何見てんの?」
廊下で立ちすくんだ少年に、私は威嚇と表現して差し支えない鋭い言葉をかけた。
這竜に睨まれた野ネズミのように、少年は萎縮する。
「あ、は、はい、すいません」
「……チッ」
少年は気圧されて廊下の壁に背をぶつけてしまった。
目付きの悪い私の、ポケットに潜ませた拳で殴られるとでも思ったのだろう。
哀れな男子生徒の心中は、遠巻きに様子を伺う他の生徒達にも伝わったが、唯一、この時の私だけは気付けなかった。
思えば、色々な人に申し訳ない事をしていたと思う。
水の国では、撥水性の高いケープやローブなどは魔道士の装いに相応しいため、広く愛用されている。
緩やかで体を圧迫しない部屋着こそが、研究と実践を反復、並行して行う模範的な魔道士の正装であり、理にかなった実用性ある姿、ということらしいのだ。
それに対し、私が羽織るオイルジャケットはどうだろう。
長年に渡ってメルゲコのオイルを塗り込んだ深みのある色合いは一部の愛好家を唸らせるだろうが、万人にその魅力は伝わらない。
繊維の中に混じった灰や煤汚れは、どうも見慣れない人間にはあまりにもみすぼらしく映るようで、頑丈さを追求した作りも、私が身に纏うには無骨すぎたのかもしれない。
由来の知れない男物のジャケット。
オイルジャケットで汚れないように高く括った髪。
男に囲まれ育ったが故の、角の立つ口調。
父さん譲りの鋭い目。
私の姿は、地下水道の住人のような危険な雰囲気に溢れていた。
少なくとも、安定した生活を送るミネオマルタの住人や、温室で育った魔道士見習い達にとっては、そう映っている。
私が、周囲の目線からくる自分の苛立ちを的はずれなものであることに気付くまでは、まだまだ、長い時間を要する。
「あっ」
「ん?」
私があてもなく長い廊下をさまよい、途中で眉間にたっぷりと皺を蓄えた頃、曲がり角で木箱を抱える男と鉢合わせた。
クラインである。
転入初日にして、自分の中で一番会いたくないと評する相手だった。
「おや、ウィルコークス君か。転入して早々に理式資料室に用向きとは、気が合うな」
「別に用はねえよ、ただ適当に歩いてたんだよ」
「この角を曲がった先にあるのは、資料室と第三準備倉庫だけだが」
「……」
「倉庫整理ご苦労、ウィルコークス君。では、オレは用事があるので失礼させてもらおう」
クラインは流暢に言い切って、角を曲がり去っていった。
なるほど、確かにムカツク奴である。いや、再評価をするまでもないか。
言われた通りにすぐ廊下を引き返してクラインと針路を同じくするのは気に食わなかったので、クラインが廊下の先に消えるまで、私は無駄に待つことにした。
そしてぼんやりと考える。クラインは、資料室に何の用があったのかと。……どうでもいっか。
ミネオマルタ国立理学学園は五つの棟から成り、それぞれ隣り合う棟に棟連絡橋が架かっている。
連絡橋というだけあって途中に部屋は設けられておらず、ただ歩くだけの廊下なのだが、広い道幅と大きなガラス窓からの景色は学徒に人気らしく、昼食時にはここで食事をとる者もちらほらと見かけられるそうだ。
連絡橋は二階、四階、六階、八階のみにあるため、別の塔へ移動するためには対応する偶数階へ移動する必要がある。
奇数階に連絡橋が設けられていないのは、建造物の外観的問題だけではなく、通路がないからこそ大きな施設を配置できるという、研究機関としての事情もある。
なので奇数階には、普段あまり使われないマイナーな部屋が割り振られている事が多い。
「あれ……下の階は同じ所に連絡橋があったんだけどな」
ちなみに今現在、三階の廊下の突き当りで悩んでいる私は、全ての階に棟連絡橋があるものと思い込んでいる。
これは主に新年度に見られる光景で、新入生にありがちなミスだった。
自分の方向感覚は正しいと、何度か同じ廊下を行ったり来たりしているが、無いものは無いのである。
「おや、ウィルコークス君」
「げっ」
突き当り近くの扉から色つき瓶を両手に持ったクラインが現れた。
もはや私も、露骨に嫌そうな表情を隠そうともしない。
「今度は第二魔石管理室に来たか。だがナツライト水が欲しい場合は、担当導師のメリッタ先生に声をかける必要がある。残念だったな」
「だから、いらねーって言ってるだろ! 私は道を……!」
「道を?」
滑った口を抑えても遅かった。
クラインの合点がいった顔を睨むしかない。
「ああ、迷ったのか」
「……」
「棟連絡橋は、偶数階にしか架けられていないぞ、ウィルコークス君」
そう言って、クラインはまた廊下の先へ消えてゆくのであった。
「……もうやだ」
順調な滑り出しもつかの間だったらしい。
まだ昼前ではあったが、私の冒険心は既にズタボロだ。
疲れ果てた心を癒やすため、今日はもう大人しく寮へ帰ることにした。