箕002 養生する午前
クラインによる強制的な投薬治療により、私が負った深い傷は全て完治した。
良い事なんだけど、しかしその時のことは思い出したくもない。
瓶の口でふるふると揺れながら滴り落ちてくる粘っこい液体……。
その液体が傷口に触れた途端、傷口を焼き付けられたような痛みが襲うのだ。
傷口に入った液体は、甲高い不気味な音を放ちながら、虫のようにのたうち回る。
この世のあらゆるものを腐らせても出せないような臭気の煙を吹き出しながら、謎の液体はうごめき、傷口と一体化してゆく。
そんなおぞましい治療ではあったが、少し待ってみれば、重傷は綺麗さっぱりなくなっていた。
ただし、臭い。気持ち悪い。痛い。熱い。気持ち悪い。
この五つに耐えられなければ、クラインの用意した薬は使うべきではないだろう。
あれは早速次の日の夢に出る程だった。
「いてて……」
ちょっとした生傷は体のあちこちに残っている。
薬草の軟膏を塗ってあるので治りは早いものの、昨日の今日だ。
こっちのほうが、まだまだ完治までには時間が掛かりそうだった。
「……まぁ、ナタリーよりはマシかな」
昨日の闘技演習では、私が勝利した。
魔術を使った闘いで勝利するなど、ほんの一ヶ月前まで岩を掘っていた私からすれば、何の冗談かという話である。
けど事実、勝ってしまったのだから受け入れるしかない。
でないと、腕と足両方の骨を折ったナタリーに対して失礼というものだ。
……その勝利も、岩を掘って手に入れたんだけどね。
「ほーい、ロッカ。ベーコンパンできたじぇ」
「ん。ありがとう」
さて、闘技演習から一日が経った。
昼前のこの時、寮の私の部屋にはボウマが来てくれている。
自室で療養している私の簡単な世話をしてくれるというのだ。
「あ、いい匂い」
「だろだろ、食えぃ」
「うん」
パン用の麦粉を練り、油とベーコンと芋を混ぜて一緒に焼くだけの簡単な料理である。
ベーコンの量が端に偏っていたり、芋のサイズがまちまちだったり、これが屋台で出されれば、私は多分、少しムッとしてしまうだろう。
が、昨日の昼から何も食べていない私にとっては、これがまた美味いのだった。
「んーっ」
「うまいかうまいか」
ベッドの上で頬張る暖かい飯のなんと贅沢なことか。
「美味しい!」
「よしよし」
ほこほこの芋と油の滴るベーコンがなんとも美味い。
パンの生地がパサついているだの、ダマがあるだの、そんな無粋なことを多くは語るまい。
美味い。それでいいのだ。
夢中になってベーコンパンにかじりつく私に水の入ったグラスを差し出して、ボウマはベッドの脇に腰掛けた。
「あたしね、さっき講義終わったとこなんだー」
「そうなんだ。どうだった?」
「マコちゃん、ロッカのこと心配してたよ。講義中もずっとあたふたして、何の花を差し入れに持って行こうか迷ってたり」
「あはは……」
マコ導師が慌てている姿は、何故か目に浮かぶようだった。
花を抱えながら教壇を右に左にうろつく彼の姿を想像すると、うん、本当に可憐な女性のようにしか思えない。
「あとねぇ、なんかねぇ」
「うんうん」
「講義室の外にね、ちょくちょくいろんな人がきてたじぇ」
「?」
いろんな人。それは、どういうことだろう。
「属性科の奴とか、あとよくわからんところの奴とか。多分、ロッカを見にきてたんじゃないかな」
「私を?」
「うん。なんたって、ナタリーを倒したすげーやつって、今うわさだからね!」
「あー」
個人的な喧嘩のつもりだったけど、それをさもショーであるかのように煽ったのは向こうの方だ。
ナタリーにステージの盛り付けをさせるだけさせて、脇役の私がひょいと、掠め取るように勝ってしまった。
まぁ、話題にならない方がおかしいというものか。
特異科が属性科のエリートに勝つ。その凄さは、ここへきて日の浅い私にだってわかる。
ナタリーをどうやって倒したのかは、実のところあまりよく覚えていない。
記憶が飛んでいるわけではなく、ちゃんと決着までの動きを覚えてはいるんだけど、何故あの時にあんな動きをしたのか、とか、そういう所があやふやだ。
腕からピックを出して、それを杖にして……あの時の私は、絶体絶命の状況下にいながらにして、一体どこからそんな発想を運んできたのだか。
昨日の闘技演習については、誰かに聞かれても答えられないものが多そうだ。
学園に戻ってから、大丈夫かな……。
「ねえボウマ、その、私を見に来た人って、私に用があって来てるのかな」
「んー、どうだろ。頭のいいやつの考えることは、あたしにはよくわからんね」
「そうか……」
私もよくわからない。ボウマにだって、わかるはずもなかった。
「けど、あたしもびっくりしたんだよ。まさかロッカ、勝っちゃうなんて思わなかったもん」
「うん……私もだよ。まさか勝つなんて」
「えぇ、それロッカが言っちゃう?」
「うーん……勝つべくして勝ったわけじゃないしね、偶然、っていうか……」
「偶然たって、最後らへんにロッカが使ってたあの魔術は、かなりやばかったじぇ?」
「……」
そう、それだ。
ボウマがやってくるまで、ベッドの上でその事を考えていたのだ。
ナタリーの魔術により杖を折られ、万策尽きて死にかけた私は、義腕の中からデムピックを抜き放ち、それを杖代わりとして戦線復帰した。
そこからの私の魔術が、どこかおかしいのだ。
タクトを使ってもボウル程度のサイズしか出なかったステイが、巨大な数メートル級の岩石になったり。
何度練習しても五メートルまでしか伸びなかったアブロームが、ぐぐーんと何の葛藤も無しに、まっすぐ二十メートル近くまで育ってしまったり。
結果として、デムピックから発動した二つの魔術だけでナタリーを倒した。
魔術は、集中をもって発動させるものだ。あの時の私は、ちっとも集中なんてできず、朦朧としていたのに……。
「なぁロッカ。あの魔術はなんだったん?」
ボウマはモサモサしたモップのような前髪に隠した目で私を見つめながら聞いてくる。
きっとその瞳は好奇心に輝いているのだろう。
しかし私自身、彼女の疑問に答えるだけの材料を持ち合わせていなかった。
「それは……私も、よくわからないんだよね」
「えー」
「私も馬鹿だからさ。あの時なんであんな事になったのかは、頭の良いやつに聞いてみないことには、なんともね」
「あ、確かにそっか、そだよね」
ボウマが聞き分けのいい子で助かる。
この疑問は一緒に解いていこう。
手っ取り早くクラインや、マコ導師に聞いてみるのがいいかもしれない。
無理した一日の疲れを一日がかりで取り払い、その翌日の朝には学園に足を運べるくらいに快復していた。
筋肉痛もそこそこ。傷はまぁまぁ。
身体強化をせずに動くと筋肉痛が激しいので、厄介である。
しかしここまで治りが早いのも、クラインとやった連日の回避訓練のおかげなのかもしれない。
鍛えられて耐性がついたのだ。
「お?」
いざ学園に、とその前に自室のメールポストをまさぐってみれば、そこには学徒指令書が入れてあった。
これはナタリーとの騒動で一週間分の学徒指令を言い渡されてからは初となる、普通の学徒指令である。
これで私も、ようやっと掃除以外の事も任されるようになったわけだ。
やったからといってお金をもらえるわけじゃないけど、なんとなくこの、仕事を任される感覚というものが好きだった。
「えっと、“セドミスト導師の資料整理を手伝う”、か」
紙にはそう書かれていた。
「ん? セドミスト?」
ふんわりとした雲のような疑問が浮かんできた。
あ、セドミストって、マコ導師の事か。
学徒指令書には講義前の時間が指定されていたので、私は学徒らが学園に集まる前の人気の無い時に、中央棟のある一室へと足を運んだ。
そこは多目的資料室と書かれた小看板がドアに掲げられているだけの部屋で、窓もなく中の様子は見えない。
しかし呼び出された場所はここで間違いなかった。
「失礼します」
ノックもなしに部屋へ入ると、そこには誰もいないわけでも、クラインがいるわけでもなく、ちゃんと中でマコ導師が座って待っていてくれた。
しかも、ローテーブルに二人分の飲み物まで用意して。
「いらっしゃい、ウィルコークスさん。おはようございます」
「おはようございます、マコ先生」
資料整理というわりには、部屋は既に小奇麗に片付けられてあり、テーブルの上にも紅茶以外の物は乗っていなかった。
それでもどこかに自分の仕事はないものかと、辺りをきょろきょろと見回してしまう。
任された仕事が無いというのは、どうも不安になってしまうのだ。
「ふふ、ウィルコークスさんの身体が心配だったので、私の方から学徒指令を入れちゃいました。ゆっくりしてくださいね」
「あ、はぁ……ゆっくりしても、良いんですか?」
「このくらいは良いんですよ、さあ、気にしないで」
「……ありがとうございます」
紅茶のカップを片手にほわほわと微笑む彼女、じゃなくて彼は、やっぱり優しい導師さんだった。
彼に柔らかな物腰に釣られて遠慮の気も抜け、私も手元のカップを一口いただくことにした。
「……」
たった一口で動きは止まる。
それは、地獄のようにあっっまい紅茶であった。
「まずは闘技演習での勝利、おめでとうございます。ウィルコークスさん、とっても格好良かったですよ」
「あ、はい、ありがとうございます」
よく見ればカップの底に飽和した砂糖の粒がたまっていることへの驚きを隠しつつも、感謝の言葉を素直に受け取る。
これ自体に悪気は無いはずだ。
「で、す、が」
「!」
マコ導師の可愛らしく怒った顔が、テーブルの向こうからずずいと近づく。
男性らしさのない、砂糖とは違った花のように甘い、良い香り。
そのせいで私は、手元の紅茶の何口分かを一気に飲んでしまった。
猛烈な甘みに舌が痺れそうだ。
「本当は、少しでも危なくなったら棄権しなきゃだめなんですからね!」
「は、はい。でもナタリーだし……」
「でもじゃないです!」
彼は男性とは思えないほど静かにだが、しかし彼なりの本気で、私を叱っていた。
「確かに私は、魔導師としてみなさんを導く立場にはありますが……それでも、たとえウィルコークスさんが魔道士を目指されるのだとしても、無茶だけはしてほしくありません」
「先生……」
「闘技演習の勝ち負けでもそうですが、それまでの、ユノボイド君との毎日の特訓だってそうです」
「でも、勉強とか、ちゃんとしてましたし……」
「ええ、学ぶことは良いことです。けど、属性科の方々のように、生き急ぐように、日々の楽しみを捨ててまで理学に打ち込むのは、違うと思います」
マコ導師は膝の上に置いた手を見つめて、淋しげな表情を浮かべていた。
「もっと、ゆっくりやれっていうことですか?」
「はい。競い合いにせよ、勉強にせよ、鍛錬にせよ……もっとゆっくり。ウィルコークスさん、入学してからずっと、焦っているように見えていたから……」
核心を言い当てられて、私の心臓は高鳴った。
「これは、特異理質のない私が言っても説得力に欠ける話かもしれません。ユノボイド君やノムエル君が聞いていたら、多分、否定する事だと思います。けど……それでも、私の言うこと、ウィルコークスさんの心の隅にでも、しまっていて、ほしいな」
ほしいな、って。
そんな、導師さんがねだるように言うのはちょっと、どうなんだろう。
けど……。
「……わかりました」
「ふふ、ありがとうございます。まあ、息抜きもほどほどにして、学園生活を楽しんで、っていう事ですから」
部屋に入ってきた時と同じ微笑みで、マコ導師は話を締めくくった。




