函004 名を名乗る時
私が一点に放つ鋭い眼光も、横に並ぶ導師さんには見えていない。
彼女は講義室内の学徒たちに朗らかな微笑みを振りまいているようだった。
「えーと、彼女はですねー」
私が入室して早々に殺気立っていることにも気付かず、若き魔導師は教壇側の壁一面を占拠する黒板に向かい、石灰で大きく文字を描き始める。
“ロッカ=ウィルコークス”
女性らしさを感じさせる、丸みを帯びた柔らかく綺麗な字だった。
ただ、名前を綺麗に書かれたところで、私はそんな柔らかさの似合う人間でないことは自覚しているし、席につく彼らもそうは思っていないだろう。
私は街を歩いていても、一目で分かるほどの田舎者らしいしな。
「今日からこの特異科に転入する、ウィルコークスさんです。皆さん、仲良くしてあげてくださいね」
「……よろしく」
私はいつもより二割増しに低くなった自分の声を聞いて、ここでようやく、自分の表情が険しい事に気がついた。
私は眼鏡男を睨む目つきをそのままに、皆の顔をじっくり見渡していたのだ。
第一印象の大切さというものはわかっているつもりだが、時既に遅し。
あまりに無愛想で、取ってつけたような私の挨拶が、何人の心を許したかはわからない。
「この時間はウィルコークスさんのために、皆さんの自己紹介を行いたいと思います。何事も、まずはお互いを知ることからですしね」
理学のエリート学校だというのに、クラスメイトによる転校生への自己紹介。
小さな初等学校が行いそうな事だ。
とはいえ、単一のクラスとして講義が行われる特異科では、不自然な提案でもないのだろう。
それにクラスメイトとの関わりは、学ぶことそのものを諦めている私の学園生活では欠かせないものだ。
願ってもない提案である。
さっきは不機嫌さを露わにしてしまったけど、それはあの眼鏡野郎に対してのものだ。
都会に住んでいるなら誰彼構わず気に食わない、というわけではない。
学園生活が長かろうが短かかろうが、平穏に過ごしたいのは私も強く望むところである。
「ではウィルコークスさん、あの奥の、……えっと、じゃあ今本を読んでいるユノボイド君の隣の席へどうぞ」
「……」
が、指定された席を見た時、私の目つきは再び鋭くなった。
あの男の隣かよ。
つーかテメェ、本読んでるんじゃねえ。殴るぞ。
特異科学徒達による自己紹介が始まった。
呼ばれた学徒が壇上に立って名を名乗るという、最低限の簡単なものだ。
内容は寂しいが、趣味だの家系だのなんだのといった覚えきれない情報を一度に聞かされるよりは、簡潔で良いものだろう。中には、身の上を語りたくない人もいるかもしれないし。
実際、一対一で話してみるまでは、どんな相手かなんてわからないしね。
改めて遠くから一人一人を眺めていると、色々な人がこの学科に在籍していることがわかる。髪の色も肌の色も様々で、水の国の人だけで出来上がったクラスには見えない。それでも人数は私の他にたったの五人。
紹介も早く済みそうだった。
「あたしはボウマ! よろしくね、ロッカ!」
ぼっさりした髪が目を隠す、元気そうな小さい女の子。
低い背丈から、私よりも年下であることはすぐにわかった。
肩を露出させたダボダボな薄手の服を着ている。活発すぎて、寒さなんて感じない年頃なんだろう。
「クライン=ユノボイド」
自己紹介でも本から目を離さない猫背の眼鏡野郎。
壇上に上がって名前だけ告げてすぐ踵を返す姿に、私の拳は握られた。
魔力が勝手に右の鉄拳を強化する。
「僕はヒューゴ=ノムエルです。と、まぁ、堅いのは抜きにしようか? ロッカ、これからよろしくな」
打って変わって、姿勢の良い爽やかな青年。
薄く微笑む優男、その印象は悪くない。
拳の力が緩む。
『俺はライカン=ポールウッドだ。歳は少々いってるが、話し方や態度でも、何も遠慮することはないぞ! そのままライカンと呼び捨ててくれ!』
全身を服や手袋で覆ってはいるが、間違いない。機械の体を持つ、全機人の大男だ。
頭部が狼を模しているようで、巨大な機械の人狼を思わせる男だった。
機械的なエコーのかかった音声は野太く、直感的な推測でも三十歳前後であることを予想させる。
……そうか。やっぱり魔術学園でも、機人の人はいるのか。
「私はソーニャ=エスペタル、同い年かな? まぁよろしくね、ロッカ」
都会のお洒落な、見慣れない服を着こなす金髪の美少女。
空気を織り込んだようなふわふわした長い髪がとても綺麗で、思わず目を奪われてしまう。
どうやら、普通な人もいるらしい。
綺麗な髪を羨ましく思うと共に、少しだけ安心した。
短くはあっても、それぞれが印象に残る、わかりやすい自己紹介をしてくれたと思う。
性の悪そうな人はいないように感じたので、後で全員分のフルネームをちゃんと覚えておこう。
いや、一人だけいたな。性の悪そうな奴が。
逆にあいつの名前はよく覚えておくことにする。
「みんなありがとう。最後になりましたが、私が担当導師のマコ=セドミストです、……あ、ごめんなさい。これ、初めに言っておかなきゃダメでしたね」
だが、最後に回ってきた担任である導師の自己紹介が、最も印象に深く刻まれる事になる。
「ごめんなさい、私はこう見えて……男なんです。あとで変な事が起こらないように、先にお伝えしておきますね」
言葉の意味と真っ向から反発する可憐な微笑みに、最後の最後で、私は驚愕に口を半開きにしてしまった。
担任の不意を強打する告白は、それまでの自己紹介の半分くらいが霧消してしまうくらいに強烈なものだった。
確かに言われてみれば、背丈も肩幅も男性のそれであるようにも見えないでもない。
世界は広い。
改めてそう思う。
自己紹介はスムーズに進行したため、残りの時間はマコ導師のゆとりある裁量により、講義室内での自習となった。
とはいえ自習と称した、学徒たちによる転入生への質問タイムである。
もちろん、標的は私だった。
我先にとやってきた学徒は数人いたが、それらを上回るスピードで、獲物に襲いかかるキツネの如く何者かが私の机に飛び込んでくる。
小麦色の肌に健康的な艶が宿る、小さい女の子。
「ねえねえねえ!」
「うお」
私は目の前数センチに少女が迫ってきた事に驚くとともに、彼女の名がボウマであることを思い出す。
「ねえねえロッカぁ! ロッカっていくつ!? あたし十五歳!」
「わ、私は十八だよ」
「十八! やっぱ年上だ! でもロッカ、ってそのまま呼んでいい?」
「良いよ」
「ありがとうロッカ! あたしもボウマでいいじぇ!」
「うん、わかったよ。よろしくね、ボウマ」
ボウマは声も大きく、言葉も途切れない。話すたびにぴょんぴょん飛び跳ねる。
目を完全に覆う前髪をハサミで切ってあげたい衝動に駆られたが、ボウマは口元の笑みだけで暗さを感じさせないほどに、とにかく元気な少女だった。
こういうタイプは嫌いではない。むしろ私の中では、かなり好きな部類に入る。
昔からの人付き合いの傾向もあって、威勢の良い相手と話していると、心がスカッとするのだ。
「十八かー、ふうん、じゃあやっぱり私と同い年か」
そんなボウマをひょいと押しのけて現れたのは、ゆるくウェーブした金髪を揺らす少女。
ソーニャと名乗っていた子だ。
クラスの中で自分と同い年の女が少なかったため、彼女も印象に残っていた。
が、好印象を受けたかといえば、微妙なところで。
都会っぽいセンスの進んだ服装は、何よりも私の心を物怖じさせていたのだ。
それでも慣れているのか、ソーニャは右手を差し出し、人懐こい笑顔を向けてくる。
「学園の寮に越してきたんでしょ? ミネオマルタなら今度私が案内してあげる。良い店たくさん知ってるんだから。任せてちょうだい」
「う、うん」
嫌味などは一切ない、これもまた良い笑顔だった。
悪どさなど微塵もない微笑みに、私は彼女とも上手くやれそうだと確信する。
仲良くできたらいいなという願望を抱くと共に、今まで自分が考えていた学園退学作戦の構想が、頭の中から数割分押し出されてしまった。
「よろしくね、ソーニャ」
右手に対して、左手を差し出す。
ソーニャは一瞬だけ疑問に思ったかもしれない。
が、気の利く彼女はすぐに左手に切り替えて、私の手を握り返してくれた。
多分、というか間違いなく、彼女は良い子なのだろう。
ひと通りの質問を打ち返し終え、ひとまず落ち着いた。
無意識に寄りかかった背もたれは、緩い曲面のある木製だ。使い心地は悪くない。
……強がった。かなり良い。
学園の設備は噂通り、最上級と見て間違いない。さすが国立なだけはある。
調度品だけでも都会のレベルの高さが窺い知れるものだと、心の中で嫌味っぽく褒めてやろう。私の故郷ではお目にかかれないものばかりだ。
私なりに精一杯毒づいてみたけど、物が良いに越したことはない。
不便のない生活ができそうで何よりだ。
それに、これから共に時間を過ごすであろう、同じ科のクラスメイト達も、仲良くできるかもしれない。
うまく平穏にやっていける分には、悪くない事だ。
もちろん隣の男を除いては、であったが。
「……」
といっても、私がこの学園で学ぶ意欲は無い。
それはほんの少しも。さらさらも無かった。
途中入学を勧めたのは父さんだけど、この私自身が同意した覚えはない。
私に離郷を押し付ける父さんに対しては、最後まで頑なに反対し続けたくらいである。
しかし子も子なら親も親で、父さんあってのこの私だ。
父さんもまた、私以上に頑固な性格なのだ。父さんは私が嫌がる入学を、ほぼ独断で、強引に決定してしまったのである。
そこには強く頬をはたかれるような、思い出したくもない苦いエピソードもあった。
私は強情な父さんに押し流されるように入学してしまったが、それでも卒業まできっちり勉強しようなどとは考えていない。
私は、自分には魔術が、その大元たる理学が向いていないことがわかっている。
そして故郷の仕事も、父さんだけでは絶対に上手くいくわけがないと確信している。
とはいえ、ミネオマルタに到着して早々、学園長には並々ならぬ借りを作ってしまったしなぁ。
人としての義理を捨ててまで、恥ずかしげもなく故郷へとんぼ返りしたくもない。
なので私は今、頬杖をつき、静かに考えている。
いかにして早くこの学園を、街を、国を出るか……。
気の良さそうなクラスメイト達とは、本意ではないけども、それまでの仲だと割り切っている。もちろんできれば仲良くしたい気持ちもあるんだけど。
割り切っているからこそ、あまり関わらないようにしようと、私は黙して決心を固めている最中だった。
その決意の一部を、更に釉薬で塗り固めるような声が隣から聞こえてきた。
「なん……」
「?」
隣の席のクラインが呟いた。
こいつは今朝の字選室で、私に関係のない仕事を押し付けた張本人。
呟きは掠れ声だったが、至近距離だったため私だけは聞き取れた。
陰鬱そうな独り言に、そういえば、と昔を思い出す。
たしか故郷の初等学校でも、彼のようにぶつぶつと、実に陰気に喋る男がいた。
彼はそんなしゃべり方や性格のせいで、クラスの調子に乗った連中から囃されていたっけか。
私はそんな手合にちょっかいを出す側の人間ではなかったけど、煮え切らない情けない態度は、耳や視界に入るだけで苛々とするものだ。
都会の人間とはいえ、男ならば。と私は女の身ながら思う。
男ならば、部屋に響くくらいの大声でものを言ってみろ、と。
「なんだこれは!」
「うぇ」
クラインの怒声が部屋に轟いた。
勢い良く席から立ち上がったクラインは、充血した目を更に血走らせてこちらを睨みつけている。
私が怖いとか恐ろしいとか何事かとか思うよりも先に、クラインは四枚の紙をナイフのように胸へ突き出してきた。
なんだこれは、と感情で思うよりも先に見てみれば、それは今朝方印刷されたであろう原稿らしかった。
「何故、所々で文字が真横を向いている……!」
「は……」
私は言われてハッとした。原稿を見れば、確かにいくつかの文字が真横を向いているのだ。
が、それらは別に読めなくもない程度のもの。
私からしてみれば“だからどうした”と開き直ってもいいところだろう。
“ざまあみろ”と悪ぶってやってもいい。
とはいえ、クラインの大声のせいでクラスメイト達はこちらに釘付けだ。
ここで大人気のない喧嘩をして、彼らからの評価まで下げることはない。
「悪い、初めてで気付かなくてさ……」
「ちゃんと全体を読んで確認しろと言ったじゃないか」
「いや……」
「文字が読めないほどの馬鹿なのか。そもそも、逐一オレはやり方を説明したはずだぞ。何度も釘を刺しておいたというのに。なのに、何故こうなる」
確かに、クラインからそう指示されていた。
でも初めて実践する、慣れない仕事だ。全く失敗するなというのは酷な話じゃないか?
私としては上手くいった文字数の割合通り、九十九点くらいの評価は貰いたいところだ。まして、賃金も出ないタダ働きなのだから。
だからこそ、私の怒りに火がついた。
「文句があるならてめえが全部やってりゃ良かっただろうが」
下手に出りゃあ付け上がりやがって。
責めるばかりの相手の態度には、語気も気性も荒くなる。
冷静さを欠いた私は、膝の上に隠していた大きな金属の右手で知らぬ間に机を叩いていた。
轟音を伴うその仕草に、講義室内が少しヒリつく。
「なんだと? 自分からオレを手伝うと言ったくせに、いまさら責任逃れか」
「あれは……」
クラインは私の腕も、その重量による威嚇にも一切怯える様子はない。
冷たいガラスのような正論に、私は二の句が継げなかった。
父に言い負かされた時のようなつまらなさと、やり場のない憤りだけが腹の内に溜まってゆくのを感じる。
握る右手に、怒りの魔力がこもる。
「だ、ダメです! 喧嘩は……問題は、ダメだよ……」
しかし教壇から割り込んできたマコ導師によって、ひとまずこの場は沈静化した。
だが剣呑な雰囲気を根本的に取り除けたわけではない。
「……」
「……」
私の転入初日を掻い摘んで言うのであれば、なんとも反りの合わない男との出会い。
要するに、そんな幕開けだったのである。