擦016 屈さぬ人間
冷や汗まみれの最悪な目覚めだ。
「……チッ」
入学の日の朝もこんな調子だったと思い出す。
目覚めの悪い日にはろくなことが起こらない。それが悪夢のせいとあれば、なおさらだ。
悪夢は凶兆。早めに布団へ潜り込んだというのに、気力を根こそぎ持って行かれた気分である。
「弱音、吐いてる場合じゃないか」
今日はナタリーとの決闘だ。
命をかけた分の悪い闘いに身を投じなければならない、運命の日だ。
腹は最初から括ってある。
さっさと準備して、学園に向かおう。
ジャーキーを噛み切り、コーンサラダを喉へ掻き込んで朝食は終わりだ。
食べ過ぎても動きが鈍ってしまうので、食事はこれだけにしておこう。
オイルジャケットを机の上に広げ、使いすぎて小さくなったメルゲコの石鹸を、全体に満遍なく擦りつけてゆく。
消えかかっていた油臭さがジャケットに再び染み込む程度に擦ったならば、手入れは完了。
いつも通りにブラウスの上から羽織る。
「……」
髪に油臭さが移るのは嫌なので髪を括り上げる。
少しでも背中に垂れないように、高く。でもやりすぎないよう、適度に。
「うん」
準備完了。全部オッケー。
鉄の右腕を強く握りこんで、硬い金属音を打ち鳴らす。
朝の支度は変わらねど、喧嘩へ向けていざ出陣だ。
浅い雨が降る朝の市場は、天幕の下を歩こうと端に寄った人だかりで賑わっている。
多少の雨は気にもならないので、私は人のいない曇空の下を悠々と進んだ。
思い返してみれば、入学した日の朝もこうして、道の真中を堂々を歩いていたっけ。
あの時は市場の人間も、どこか煙たそうに私を眺め、路傍に吐き捨てた痰でも避けるように歩いていた。
今でもいくらかの人はじっと私を見てくるが、以前ほどの不快感はない。
それは街が私に慣れたのか、私が彼らに慣れたのか。
どちらでも変わらないのは、私がこの街に少なからずも馴染んでしまったということだ。
最初は、街の奴らはどこか冷たいもんだと思っていた。
実際に冷たいし、財布の紐口を見せるまでは他人行儀な連中だけど、彼らの中身はちゃんとした、血の通った人間だ。
杖屋のジューアさんも、ピザ屋台のおばちゃんも、干し肉屋のじいさんも、話してみれば人柄は暖かいものだ。
ここは街だ。デムハムドと何ら変わらない、人が住み、暮らす街なのだ。
ちょっとだけ。本当にちょっとだけだけど、この街に愛着が湧いてしまった。
学園なんてすぐに抜けだして故郷へ戻るなんて、そんな考えはもう、微塵もない。
卑屈だった自分はナタリーの杖と一緒に殴り飛ばした。
私は、ライカン達と一緒に頑張っていくと決めたのだ。この街で暮らしていくと決意したのだ。
だから今日の闘い、決して負けるわけにはいかない。
自分が卑屈屋で、価値の無い人間だと認めたくない。家畜のように意思なく巣食う、血の気の薄い生き物でありたくはない。
最後まで抗って、死にかけるまで戦ってやろう。
「母さん、見守っていて」
再び右手を強く握り、私は学園へと踏み込んでいった。
意気揚々と静かに階段を上がっていた。
「ロッカだな? 頼むぜ」
「え?」
第五棟の階段を登る最中に、見知らぬ男がそんな声をかけてきた。
記憶を掘り返してみても、今の男とは話した記憶がない。
面食らった私はしばらく彼が通りすぎて行くまで呆けていた。
暗色のケープに腰の短杖、ここの学徒であることはわかったものの、はて、誰だったか。
「ロッカ=ウィルコークスね? 一発でいいから、またナタリーを殴っちゃってよ」
「ん?」
呆けている間にもまた一人、私に声をかけてはするりと清水のように流れて去ってゆく。
見知らぬ人間からの度重なるエールに、私が嬉しいと思うより先に不気味さを覚えていた。
「ああ、それはね。やっぱりみんな、ロッカを応援してるんじゃないの?」
講義室にてそんな話をしてみると、さも当然であるかのようにソーニャは答えてくれた。
「応援って言っても、誰も私が勝てるなんて思ってないんじゃないの」
「うん、そうだけどね。でも相手はナタリーだから、みんな一矢報いるくらいの事をロッカに期待してるんだと思うわ」
なるほど。ナタリーが不人気なあまり、私の方に応援がやってくるわけか。
これで相手が学園の人気ある優等生だったりしたら、私は本当に孤軍奮闘だったのだろう。
それでも特異科の彼らだけは、変わらないでいてくれるとは思うが。
「私って、顔も名前も覚えられてるんだね」
昨日も階段で話しかけられたことを思い出す。
学園での私の注目度は、ちょっとした有名な女優くらいはあるのかもしれない。
見知らぬ人が応援してくれるのは嬉しいけど、自分のあずかり知らぬところで顔と名前が覚えられているというのは、あまり慣れていない。
デムハムドでも経験したことのない、ちょっとむず痒い気分だった。
「ロッカの場合は顔を覚えられているというより……」
「ん?」
「いや、それはいいんだけどさ」
ソーニャは机に身を乗り出して、顔を私に近づけた。
「ねえ、本当に行くの」
「うん、行く」
「怪我するよ」
「うん」
それでも殴ってやらねば気が済まない相手なのだ。
この右手は、引込みの付かない拳だ。
この手で一度殴ったものは、もう一度殴っても正しいものなのだと、言い張り続けなければならないのだ。
少なくとも、今の私がそれは正しいのだと思い続けている限りには。
「やれやれ、頑固だね。良い意味でもあるけどさ」
ソーニャの横からはヒューゴも割り込んできた。
いつでもどこでも顕れて、会話にもすっと自然に入り込んでくる、相変わらず不思議な男だ。
「けどロッカ、危なくなったらすぐに棄権するんだよ。敗北を認めれば、いつでも闘技演習は終了にできるんだから」
「……うん」
「途中棄権する気ないでしょ」
「うん」
ばれてしまったか。ヒューゴは人の心の読むのが上手いな。
棄権はしない。それは当然だ。
途中で闘う意志を折ってやるつもりはない。
勝ち目がないのは最初からなのだから、闘いの最中に旗色が最悪なものになったところで、そこで抗うことをやめるというのは、ありえない話なのだ。
たとえナタリーの鉄針に貫かれたとしても、敗北が決定していないのであれば、私はその時まで戦い続けるつもりだ。
自ら敗北を認めるのと、他人の力でルールによって敗北するのとでは、今回大きく意味が変わってくるのだから。
『ロッカ。俺には手助けをすることはできないが……観覧席では見守っているからな。応援しているぞ』
「ありがとう、ライカン」
「あたしも応援する! ロッカ、絶対勝てよぉ!」
「うん、勝つつもり」
ライカンもボウマも集まってきた。
いつの間にか、私の席の周りは多くの人で囲まれている。
「席は早めに取ったほうが良いよね。講義が終わったらすぐに行くべきかな?」
『そうだな。特異科の役得だ、一足早めに向こうで待っているとしよう』
「ねえねえ、観覧席ってお菓子もってっていいんだっけ?」
「基本的には駄目だけど、賑わってくればそんな規則を守る人はいないし、持って行っても良いと思うわよ」
こんながやがやと騒がしいエールでも、今の私にとっては一番の鼓舞であった。
私はナタリーによって傷つけられた特異科の名誉を突き通すために。彼らは私のために。闘技演習場へと足を運んでゆくのだ。
私が闘うのは、ナタリーが気に食わないことを抜きにしたって、彼らの名誉を守るため、それだけでも充分だった。
「はーい、それじゃあ今日の講義を始めますよー」
『おお、マコ先生! 待っていました!』
特異科はただ単純に怠惰なのではない。
確かに制度は緩く、待遇は厚く、過去はそういったものに身を預けきってしまう学徒の色が強かったのかもしれないけど。
今この時、私がいるこの講義室で席に着く彼らに対して穀潰しとまで罵るのは、許せないことだ。
ライカンやヒューゴはそれぞれ、真面目に努力している。クラインだって当然、毎日誰よりも熱心に学徒らしい学徒として勉強などしているに違いない。
これからの私だってそうだ。その道を軽薄に貶めようとする奴は、この私が絶対にゆるさない。
「では、今日はえっと……じゃあ、今までの講義内容と逸れますがっ! 鉄魔術の避け方について勉強していきましょうっ!」
……よし、がんばろう。




