楔025 漕ぎ出す小舟
“横たわる永遠の聖櫃”より帰還したイズヴェルは、当初驚きでもって迎えられ、その無事を歓迎された。
しかし実直な彼自身の証言によって、現在ではある程度の監視の下に保護されている。
場所は水国立ラリマ競技場の準備室。普段は控え室などに用いられる多目的の空き部屋のひとつだったが、今日に限ってはそのように暇を持て余した空間は競技場内に存在しない。
どこも事件解決のために奔走する警官や職員が犇めいており、イズヴェルのいるそこもまた、多くの警備関係者によって占有されていたのだった。
人数は多い。機人警官たちは手狭な部屋の中に十人ほどいた。
反して口数は少なく、ある人物のやり取りを大勢が静観している最中だった。
『さて、イズヴェル=カーン君。君がスキラー・ブライオンと出会ったのは幼い頃。十年ほど前の風の国……それで間違いないね?』
「はい」
小さな机を挟み、大柄の機人警官と小柄な異国風の少年が向かい合っている。
“聖櫃”より帰還したイズヴェルの取り調べは彼自身の証言の有用性が認められ、慎重かつ入念に執り行われていた。
『ファー・ジロンジャ……カーン家の三男、と。ふむ。渡されたものは魔導書と小さなワンド……それは今、どこに?』
「……わかりません。ある日父がどこかにやってしまったので、探しても見つからなくて……きっと、行商人に二束三文で売り払ったんじゃないかと……」
『そうか。それは魔術によって生み出された物品ではなかったのかな?』
「生成物ではないと思います。何日もそのままの形で現存していましたし、安物の品だったと思います。魔導書も基礎的なものだったし……。とはいえ、未熟な僕の見解が正しいとは限りませんが……」
『いや、君の主観も参考になる。ふむ、そうか。渡された杖や魔導書に異常性はなかったと』
取り調べは随時速記によって書き留められ、情報が整理される。
重要な情報は小型の(それでも抱えるほどはあるが)紋信機によって発信され、施設内の人々に共有されていた。
『接触は半月ほど。その間に魔術の教導を受けた、と……』
「はい。……今回の事件はとても悲しいです。まさか師が、こんなことをするなんて……」
『期間が短いようだけど、君はこれほどの短期間で様々な魔術を身に着けたのかな』
「いえ、すぐには身につきませんでした。師は僕に基礎的な文法と、様々な魔術の概要を授けてくれたのです」
『概要?』
警官は円筒型の頭を小さく傾けた。
「はい。術の理学式や、詠唱などです。それを十数個ほど」
『……詠唱はともかく、理学式をどうやって伝えたのかな?』
「感覚的なものでした。今にして思えば不思議な力だとしか……くっ、説明が難しいな……僕にもうちょっと表現力があれば……」
『いや、気に病むことはないよイズヴェル君。なにも君を責めているわけではないんだ』
イズヴェルはしばらく気に病んだ様子で頭を掻いて唸っていたが、途中で何を思いついたのか、はっと顔を上げた。
「……師から教わった魔術は……土壁に塗りつけた絵の具のように、しばらくの間掠れることなく、鮮やかに残り続けてました」
『ほう……詳しく聞かせてくれるかな』
「思い出そうと思えば、すぐに思い出せるのです。そうだな……あれはそう、新しい理学式を数日かけて丸暗記したような感覚に近いでしょうか。師の教えを授かると、実に鮮やかに、魔術の理が頭に刻まれるんです」
『……あー、私は魔術に詳しくないのだが、イズヴェルからみてその感覚は普通の勉強によるものと違いがあるのかな?』
「全く違います。誰もがあれほど短期間で魔術が習得できるならば、学園に一年もいる意味はないです」
イズヴェルは断言した。
「しかし最初、僕は魔術というものを知らなかったので……その感覚こそが魔術の修練なのだと誤解して疑っていなかったんですが……師がジロンジャを去ってしばらくすると、急に頭の中に刻まれていた多くの理学式が掠れていくような感覚を覚えたんです。それまでははっきりと覚えたまま保持できていた知識が、唐突に」
『……ふむ。続けて』
「その時に僕は初めて焦り、自分にできる限りの様々な方法と努力で、どうにか忘却する前にいくつかの魔術を完全に我が物とすることができたのです。こうして自分なりに“復習”した知識は、不自然に頭に定着することもなければ、急激に忘れ去ることもないものでしたね」
『……ブライオンによって教わった当初は、その知識が異常性を持っていたが……今君が持っている知識は、正常なものであると』
イズヴェルは自信有りげに頷いた。
「僕は理式科ではないので詳しくはないですが、理学式と詠唱が極めて古風なこと以外は、式通りのふるまいをする正常な魔術です。これそのものは師と関係ないはずです」
『断言するね……。どうしてそう言い切れるのだろう?』
「僕なりに調べ、学んだことの範疇ですから。仮にこれらが闇の性質や影の制約を司る部分があったとしても、理学式を見る限りあの人と繋がるようなものはありません。断言はできますよ。理式科の人や……きっと杖士隊の詳しい人に見せても、同じような答えを出してくれるんじゃないでしょうか」
『うむ……』
警官たちは身体強化こそ得手とするものであったが、込み入った魔術の知識でいえば実戦的な驚異としてのもの以外には明るくなく、理学式ともなれば完全に専門外の領域だった。
水国において魔術を用いた犯罪は多いが、そういった案件でも特に高度な魔術が絡む場合には、すぐさま専門のチームに調査が回される。
イズヴェルの発言が正しいかどうかは、彼らには判断しかねるものであった。後で一度調査するべきだろう。
「僕が師より教わった魔術はさっき紙に書き出した通りです。中には闇を属性に含んだ“遵法の釜”など、違法とされるものもあります。……これは違法なんですよね」
『違法だね。だが、今それを論じるつもりはないし、当時の幼い君にそれを求めるのは酷だ。君が正直に教えてくれたこれらの魔術は、我々の貴重な資料として取り扱わせてもらうつもりだよ。悪いようにはしない。安心すると良い』
内心では緊張していたのか、イズヴェルはほっと息を吐いた。
が、すぐにまた自分を責めるような難しい顔になり、俯いてしまう。
「……僕はそれらの悪しき魔術を、違法なものだとわかっていて使ったことがあるんです」
『ふむ、そうか』
「資格もなければ、危険性だってわかっていたのに……」
『悪いことをしてしまった、と。ふむ……君がその魔術で人を殺めたり、取り返しのつかない怪我を負わせたのならば我々も動かねばならないだろう』
警官は身を乗り出し、黄色い目線をイズヴェルと同じ高さに並べた。
『だが、君はそうではないのだろう。ならば、今は不問だ。場合によってはこれからも。君も知っての通り、我々は忙しいのでね』
「……悪人を見過ごすこともある、ということですか」
『はは、それは極端な話だが、正直に言えばそういうことも、なくはないね。大人なんて皆、うまく隠しているだけで小汚いものなのさ。肝要なのは、そうやってうまく社会を回していくことだ。それが我々の守っている“平和”というやつで、もっと堅苦しく言えば“正義”というやつなのさ』
速記役の一人が思わずといった風に小さく吹き出し、それを聞き逃さなかった聴取官が“こら”と短く窘めた。
普段は見ることのない警官同士の人間らしいやり取りに、イズヴェルの大きな目がぱちくりと開かれる。
『……いいかい、イズヴェル=カーン君。君は法を犯したかもしれない。だが、今のところ君のしでかしたことは悪じゃあない。万が一に裁判が行われたとしても、酌量の余地は充分にあるだろう。……だがね、君の師であるスキラー・ブライオンという人物は違う。彼が君の良き師であろうと、悪意があろうと無かろうと、彼が今回引き起こした大規模な失踪事件はとても許されるものではない。それはわかっているね』
「……もちろんです」
『君にとっては内心複雑かもしれないが……』
「大丈夫です。僕は師を庇い立てすることはありません」
彼の赤い目に迷いはなかった。
自分自身に厳しい彼は、人にも厳格さを求めることが多い。
情のない少年ではなかったが、甘えという感情に対しては人一倍厳しいのだ。
「この僕にできることであれば、どんな捜査でも協力します。いえ、ぜひともさせてください」
『……真面目だね。我々としては、有り難い限りだ』
イズヴェルは長時間に及ぶ取り調べを受けた。
中には心に踏み込む、普通の人間であれば嫌悪感を示すような質問を投げかけられもしたが、それでもイズヴェルは可能な限り正確に言語化し、記憶の許す限り答えきったのだった。
「ふう……あれ?」
「……」
「ミスイ、どうしてここ……」
取調室を出た後、イズヴェルは廊下の長椅子に腰掛ける一人の女性に目が留まった。
長い紺髪の水魔道士、“冷徹のミスイ”がロッドを抱きながらベンチで眠りこけていたのである。
「えっと……寝てる? ミスイ?」
いびきや寝息は聞こえない。しかし返事を返さないので、眠ってはいるのだろう。
彼女は瞑目し、静かに呼吸している。
「んと……ええと、どうすればいいんだろう……」
体に触れて揺するのも憚られる。かといってこのまま廊下で一人眠りこけるのを見過ごすのも気が咎めた。
「……よし、ミスイが起きるのを待とう。それしかない」
なのでイズヴェルは、座ったまま眠る彼女の隣に腰を下ろし、番犬のごとく目覚めを待つことに決めたのだった。
「ん、んぅ……むぅ……」
が、取り調べで精神的に疲弊していた彼が退屈な待機をそう長く続けられるはずもなく、すぐに舟を漕いで眠りの世界に落ちてしまうのだった。
「……?」
ミスイが仮眠から目覚めた時、彼女の肩にはイズヴェルの小さな頭が寄りかかっていた。




