鎚017 引き込む智者
ノーマ機人整備店の二階で、細い人影が伸びをした。
「んぅ……んんっ……」
二回戦の終えた次の朝。
窓から久々に差し込んだ朝陽もあって、久々にベロウズの目覚めは快適であった。
「……ん」
が、心は未だ夢見心地のまま。
どうしても、昨日の試合とその結果が現実であると、頭の奥深くで咀嚼できていなかったのだ。
「……勝った、んだよね。ぼく……」
思い起こされるのは、夢中になって闘っていた試合中の記憶。
対戦相手は自分よりも更に小さな男の子、属性科三年火属性専攻のイズヴェル=カーン。
年下で小柄な見た目だが、類稀なる火属性術の実力を有しており、同学年の火属性においては並び立つ者が居ないとまで言われる、いわゆる神童だった。
ベロウズは彼と話した事はないし、一度も闘ったことはない。
それでも学園で生活していればイズヴェルの噂や高評価は耳に入ってくるので、自然と苦手意識とコンプレックスだけが積み重なり続けていた。
かたや三年で神童。かたや六年で凡人のまま。
同じ火属性を扱う魔道士であったからこそ、その劣等感は無視し難い。
イズヴェル=カーンという少年は、ベロウズ=ビスマロイドにとって、越えられない壁の最たるものだったのだ。
「けど、勝った……ぼくが……」
そう。だが、ベロウズは昨日、そのイズヴェルに勝利した。
試合が長引くことはなかった。
何度かの魔術の応酬があり、その果てか途中かで、イズヴェルが一瞬の回避を鈍らせ、火球に呑まれて決着したのである。
対するベロウズは無傷。緊迫感のある僅かなやり取りではあったが、疑いようもない勝利であった。
「ふふっ……!」
昨晩、思わぬ金星を上げたベロウズはそのまま辻馬車を利用して下宿先へと戻り、一番にノーマへ勝利を報告した。
ノーマは六年間努力してきたベロウズの頑張りを間近で見て知っていたので、我が子の活躍のように喜び、讃えた。ささやかながらもご馳走が用意され、店の中で二人だけのお祝いパーティなども行われた。
人から結果を賞賛される経験を久しくしていなかったベロウズにとって、昨日の思い出は少々気恥ずかしいながらも、嬉しいやり取りであった。
きっと生涯忘れられない、良い思い出となるだろう。
「……そうだ。師匠」
思わぬ大金星。掴み取った栄誉。
ベロウズにとってそれは、自分だけのものではなかった。
この勝利は、自分一人では手に入れられなかったもの。
ベロウズは自身の勝利を、“師匠”が導いてくれたものであると思っている。
その恩義は今の満たされたベロウズにとって、果てしなく重い。
「報告しなくちゃ」
ベロウズはハンチング帽を被り、スパナ型のメイスを手に取り、店にいるノーマに明るい挨拶をしてから、ミネオマルタの街並みへと駆け出していった。
「……あ」
道の途中で、新聞の販売馬車が目についた。
水国の新聞を中心に、他の国の大手紙の幾つかも取り揃えている移動販売馬車である。
「あ、あの。日刊クレイモア、一部ください……」
「あいよー、毎度あり」
ベロウズは普段からあまり新聞を読む方ではなかったが、今日だけはどうしても気持ちを抑えきれず、火国の大手紙を購入した。
もしかすると、自分の金星が載っているかもしれない……そんな淡い期待を懐きながら。
「……ぁ、この人……」
だが、そこにはベロウズの活躍は記されていなかった。
マルタ杯の話題が占める面積は非常に大きかった。しかし辛うじて箇条書きにされた勝利者一覧の中に二つ名が載っているだけで、そこにベロウズの活躍は記されていない。
そのかわり写真付きで掲載されていたのは、クライン=ユノボイドとロッカ=ウィルコークスの二人。
二人はインタビューにも答えたのか、そこには長めの文章が連なっており……。
「……そっか」
ベロウズはそこで読む気を失って、早々に新聞を畳み、荷物へ仕舞い込んだのだった。
「……ここ、だね」
ちょっとした寄り道はあったが、ベロウズは贔屓にしている路地裏へとやってきた。
普段は薄暗くなった時に来ることが多いので、雰囲気はその時に見る風景と比べ、幾分か違っているようにも思える。
しかし特徴的な煤けた白い壁に、三つ繋がって剥がれかけたタイルの痕を見るに、間違いではない。
「……ん」
周りにはちらほらと人がいる。遠くの屋根の上には、機人警官が飛び回っている姿が見える。
後ろ暗いことをしているつもりは全く無かったが、ベロウズは行き止まりしかない路地裏に入る姿を誰かに見られたいとは思わない性格であった。
しばらく待って誰も見ていないことを確認すると、そこでようやく、ベロウズは路地裏へと入り込んだのだった。
路地裏には当然、人はいない。両隣の建物は滅多に使われることない資材保管庫と普段使われない別荘であるため、一つだけある裏口のドアノブには埃が積もっている。
地面には壊れた木箱に割れた鉢植え、崩れ落ちたタイルと風化しかけた魚の骨だけがある。
硬貨の煌めきも感じられない、子供が入るにしても魅力を感じないような、そんな路地裏だ。
ベロウズは自然と息を潜め、その奥へと進んでゆく。一度だけ角を曲がれば、その先は行き止まりだ。そこには板張りで封鎖された窓があるのみで、人の姿は認められない。
一応、行き止まりには土と泥で薄汚れた毛布が落ちていたが、ベロウズはその薄っぺらな裏側に待ち人が潜んでいるとは思えなかった。
「……今は、いないのかな」
誰もいない。まさか夜だけしかいないのでは。
ベロウズが気落ちして路地裏を戻ろうとした、その時。
「若者よ」
「!」
声が聞こえた。野太く、威厳の篭った男の声だ。
「あ……師匠!」
「栄光ある勝利を掴んだな、若者よ。私はその第二歩を、魂から祝福しよう」
路地裏の最奥には、偉丈夫が立っていた。
長い神官帽。顔を覆い隠す聖布。数多の傷痕が見られる屈強な上半身。無数の飾り布と帯で彩られた、下半身。
まるで神話か、それに類する何かから現れたかのような出で立ちは、はっきり言って怪しい。
しかしベロウズにとって目の前の男は、自身を到達困難な勝利へと導いてくれた、正真正銘の良き“師匠”であった。
「あり、あ、ありがとうございます! ぼく、ぼく師匠のおかげで、また! 今度は、勝てないかもって、そんな相手だったのに……!」
「だが勝った。そうであろう」
「……はい!」
ベロウズは目尻の涙を手袋で拭い、破顔した。
目の前の大男の顔は窺えないが、小さく何度か頷いているようにも見える。悪いように思っていないことは確かだろう。
「だが、若者よ。お前の求める力は、この二歩目で止まるのか」
「……」
男の問いに、ベロウズの表情が引き締まる。
「お前は私の教えを受け入れ、栄光を掴んだ。だがそれは未だ駆け出しの栄光に過ぎず、魔の極地でも、技の果てでもない」
「……まだ……まだ、ぼくでもまだ、強くなれるんですか?」
ベロウズの表情は強張っていた。
不安。覚悟。相手の答えが何であってもその先を受け入れる力強さが、表情に宿っている。
「それはお前次第だ、若者よ」
男はベロウズに手を伸ばした。
包帯でぐるぐるに巻かれた、大きく太い腕である。
「飢えた獣のように、力を渇望せよ。鍛錬に鍛錬を重ね、技を磨け」
差し出された腕は逞しく、安心を与えてくれる。
「若者よ。受け入れるならば、私の手を取るのだ」
怪しい。
奇妙だ。
そしてどうしてか、恐ろしくも感じる。
第三者から見れば、疑いようのない光景であろう。
それはきっと、ベロウズだって解っていたに違いない。
「……はい」
だが解っていながらも、ベロウズは手を取った。
その手を取ることでしか栄光が掴み取れないのだと、思い始めていたが故に。
「また、修行します。師匠と一緒に、今度はもっと、全力で……」
「良かろう――」
そして二人は、黒い輝きに包み込まれ――。
――次の瞬間には、路地裏には何も残っていなかった。




