擦008 握る拳
私は必死になった。
学園生活そのものと私自身。社会と肉体の両方の運命がかかっているのだ。ここで必死にならずしてどうするか。
まずは理学式の暗記だ。これをやらずして実技には移行できない。
寮の自室や講義室では、休む間もなく理学式とにらめっこだ。
複雑な線の行方をそれぞれ覚え、わからない記号はわかりそうな人に聞く。
マコ導師に訊ねれば講義中でも教えてくれるし、クラインも聞けばすぐに答えを返してくれる。
あいつの場合は、かなりトゲのある言い方をするけど……。
その他、空気の読めるヒューゴの助言もあって、私の理学式の勉強は実にスムーズだ。
手伝ってくれる人がいるだけで、勉強が大いに捗る。ここに来て初めて知ったことだった。
相変わらず頭の固い私は、勉強を得意にはなれそうにないけど、好きにはなれそうだった。
屋内で理学式を学んだ後は、例の林地で実践だ。
頭に叩き込んだ理学式を思い描き、線に魔力を走らせるイメージで魔術を発動させる。
スティ・ラギロ・アブローム。
呪文の単語ひとつひとつにつき、理学式の環陣を進んで発現へと至らしめる。
実践は順調そのものだった。
理学式を勉強した後に使う私の岩魔術は、学ぶごとにみるみる巨大化していったのだ。
最初は私の身長に満たない高さの石柱も、二メートル、三メートルと、本を読む毎にその高さを増してゆく。
高さだけではなく、太さも柱として充分なくらいに増強されていった。
自分でもそうこうして驚いているうちに、数日も立たずに五メートルの石柱を作り出せるようになったのには、本当に嬉しかった。
五メートル。
魔術の世界じゃあまり長い距離ではないんだろうけど、短いチャチな杖を持っているだけでその範囲をカバーできるというのは、私にとっては新鮮だ。
クラインも「及第点だな」と、多分褒めてくれた、んだと、思う。多分。
もっと素直に褒めてほしいな。
別に褒められても嬉しいわけじゃないけど。
とにかく、クライン監修の下に着々と進む私の修行は、実に良いペースで進行していたのである。
「あれ、特異科のロッカだ」
「!」
廊下を歩いていたある日、そんな言葉を耳にする。
特異科の学徒ではない、会ったこともない奴の口から私の名前が出てきたのだ。それは私に向けた言葉でもないだけに、なおさらびっくりした。
私は後ろで話すそれを聞き取れなかった振りをして、曲がり角に消えた後にすぐに聞き耳を立ててしまった。
「特異科なのに何冊も本を持ってるな」
「付け焼き刃ってやつさ。無駄なんだがね」
予想はしていた。彼らの反応は概ね、私の後ろ向きな想像通りだった。
誰も私を応援なんてしないし、勝てると思っていない。
そもそも、私の存在自体を疎ましく思っているのだろう。
“ナタリーを応援するわけではないけど、特異科ならこっぴどくやられてもいい”。
大方、そんなところだろう。
私の存在自体が、彼らにとってはどうでもいいのだ。
「ふざけやがって」
陰口を叩くあいつらに聞こえないよう、私は静かに奥歯を噛み締めた。
私の名前は学園中に広まっているのだろう。
けどそれは名前だけ。注目されているのは、私の特異科というレッテルだけだ。
誰も私自身を見てはいない。
誰もが当日に処刑されるバカな死刑囚くらいにしか思っていない。
そして彼らは皆、その死刑執行の日を密かに楽しみにしている。
喧嘩は華だ。祭気分になるその気持ちは良くわかる。
だけど喧嘩って、そうじゃないだろうと思うのだ。
咬み合わない二人が殴り合い、とことん納得がいくまで拳で語る。
喧嘩ってそのは、そういう気持ちの良いもんだろう。
誰かが一方的にやられる喧嘩を見るのが楽しみだなんて。そんなのは、腐った這竜の皮を焼いた臭いがしそうな、湿った楽しみ方だ。
私には、彼らの楽しむ気持ちがわからなかった。
当事者なのだから当然か。
しかし、そんな外野の騒がしさも、私が叩きだす結果によって変えられる。それは間違いない。
私がナタリーに勝てばいいのだ。
それで奴らの私を見る目を変えられる。
そして、特異科に向けられる侮蔑の視線を挫いてやることができるなら。
なんて想像するたび、私の闘志はより一層、朝顔のように燃え上がるのだ。
「絶対に見返してやるからな」
これもまた、陰口を叩く誰かに聞こえないように小さくつぶやいて、私は廊下を後にした。




