函003 出会う二人
しばらく歓迎の言葉を受け流した後、私は浅く一礼してから学園長室を出た。
扉越しに聞こえないよう、静かにゆっくり、大きな息を吐いて。
いかに私が世間知らずな田舎出の小娘とはいえ、話した相手がこの国最大の理学学園の長であることくらいは知っている。
そんな人物が、問題を起こした自分のため警官に働きかけてくれた事には、ただただ感謝の言葉もなく、萎縮するしかない。
頷いてしまった私はこれでもう、容易く後には退けないというわけだ。
……まあ、謹慎された時から、覚悟していた事だけど。
「理学校……魔術の学園、か」
しかし、まさか自分にこんな機会が訪れるなんて。
今でも信じられない事である。
この私が、理学学園?
馬鹿を言えって話だ。私が初等学校を何回サボったと思っているのだか。
……入学を認めてくれた学園長には感謝の気持ちもあるけど、そう言ってやりたい暗い感情も、ちょっとはある。私は、全くもって場違いな存在なのだ。
夢見心地とは違う、この……姿勢もままならずただ浮かされたような気持ちが落ち着くのは、いつになるのだろう。
先ほどの部屋で渡された小さな紙片を見やる。
さて。私には、とにかくやらなければならない事があった。
「四階の字選室、ってところに行かないと」
手渡された紙は、学徒指令書と呼ばれるものらしい。
今日行うべき、学園の手伝いの内容が書かれたメモである。
この学園で活動する者は、日々様々な小間使いによって学園や導師のために貢献しなければならない。
左手に握った小さな紙は、私の栄えある学園業務の第一指令なのだった。
“指令とはいえ、この学園での講義料代わりのようなものだ”。
“特に緊張することではない”。
……と、学園長は言っていた。けど授業料が授業料なだけに、どの道緊張は禁じ得ない。
“六時より中央棟四階字選室にて、ベルキンス導師を手伝うこと”。
「字選ってなんだろう……?」
学徒指令にはそんなことが書いてあった。
学園長曰く、学徒指令は大体一時間ほどで終わる簡単な手伝いらしい。
まあ、優秀な都会の連中が集まる学園とはいえ、入学早々に難解な研究の助手に任命されるはずもないか。
やることはいまいちわからないけど、そんなに難しくはないのだろう。
……まだ予定より数十分の余裕はあるけど、謹慎解除からの初仕事だ。
それに、人目が煩わしい街中で率先してやりたい事もない。
せっかくだし、早めに部屋で待っていようかな。
ということで、私は余裕な足取りで四階を目指したのだった。
そして、字選室の扉を静かに半分だけ開けて、私は唖然とした。
インク臭い部屋の中では既に、白衣を纏った男が忙しそうに作業を行っていたのである。
復帰早々に遅刻か? 嘘だろ?
そんな焦燥感が湧き上がり、私は慌てて室内へ飛び込んだ。
「て、手伝いますっ」
「ん」
白衣の男が私に気付き、眼鏡を向ける。
人付き合いの悪そうな据わった青色の目は、知的な印象を与えさせるには十分な迫力があった。
少なくとも私の故郷に、彼のような不健康そうで、冷たい目をする男は居ない。
「オレの手伝いか」
「はい」
将来が心配になりそうな猫背と、跳ねまくっている癖っ毛と、冷徹な目つき。
どこか乾いて枯れたような雰囲気は壮年の学者を思わせたが、声は青年だった。
まじまじと見つめてみれば、薄い水色の髪はまだ瑞々しく、白い肌には皺もない。
私は少し遅れて、彼が自分とそう歳の離れていない若者である事に気が付いた。
「これが原稿だ」
「は、はい」
白衣の男は有無を言わさず数枚の紙を差し出して、私はそれを慌てて、反射的に受け取った。
だが、男はそれだけに留まらない。
「この約物が空白用のインテル、これが固定用のステッキ、これは原稿で使う金属活字だ。落として溝を潰すなよ」
「え、は、はい」
書類の上に、金属の棒や板が乗せられる。
次々と乗せられる。
まだまだ乗せられる。
山のように重なってゆく見慣れない道具たちが、これから行われる作業の謎を深めてゆく。
ついに重みで原稿が大きく撓りそうになったのを抑えた時、私はようやく疑問を口にした。
「あの、私は何をするんですか」
「その原稿通りに活字を並べろ。改行の空白には二番の長い棒を使え。オレは次の棚から活字を探さなければならないから、君の物分かりの良さに期待する」
身振りや手本の実演を一切見せることなく、男は部屋の棚に向き直ってしまった。
印刷で使われるであろう金属の文字版が並ぶ棚に指を添えて、私の方へはもう見向きもしない。
お手本のように見事な“見て覚えろ”の職人気質である。
「……やります、はい」
私と彼とでは、大して歳も違わないだろう。
だがこいつは、きっと偉い。つまり彼は俗にいう所の、天才と呼ばれる人間なのだろう。私はそう予想した。
同年代からのふてぶてしい命令口調には、冷えた身体が温まるくらいに腹わたも煮えたぎったが、それでも相手はある程度立場のある導師だ。
既に問題を起こしている身分として、相手の態度はどうであれ、慎ましく忠実に仕事をするしかない。
幸いなことに私は、ぶっきらぼうな態度は故郷の男共で慣れている。
頑固で融通の効かない男と仲良くするコツは簡単だ。
曰く、黙って手を動かせである。
しかし、最初の仕事でそう黙々と進められるはずもない。
自分が問題無く仕事に着手するまでは、当然のことではあるのだが、いくらかの質問が必要であった。
「すいません、これってどうすれば……」
「そんなこともわからないのか?」
「……はい、すいません」
「全く、君は今まで何をして生きてきたんだ」
「すいません」
少なくとも、私は活字を並べる人生を送ってきたわけではない。
「こうだ、これを、こう……」
「……」
「おい、見ているだけか?」
「え」
「君の仕事だろう。自分でやれ」
「は、はい……えっと」
「だから、そうじゃないと言ってるだろ」
「えっ、はい、すいません……」
「貸せ。まったく、これだから……」
理不尽な対応にも、仕事柄ある程度は慣れている。
しかしどうも、この男とは後々も仲良くなれそうにない。そんな気がした。
しかしある程度慣れてくれば、あとはもう黙々と活字を並べる作業だ。
最低限聞くべきことも、罵倒混じりに懇切丁寧に教えてくれたので、ようやく手を動かすだけの段階に入ったと言えよう。
あとは淡々と進めて、終えるだけだ。
「あの、これ、急ぎの作業なんですか?」
「オレも最初はそのようなつもりではなかったのだが、六時までに仕上げなくてはならなくなってな」
「それで早くやってるんですか」
「速くなければ間に合わないだろう。馬鹿め」
そんな感じで、一度もやったことのない不慣れな作業だったが、時折、精神を逆なでする男の指示を仰ぎつつも、なんとか活字並べを進めてゆく。
金属棒を並べ、枠で挟み、固定する。それだけの作業とは思えないほど、とにかく見た目以上に複雑で繊細で、難しい。
本自体も嫌いであまり読まないってのに、まさか一足飛びに本造りの大変さを味わう事になるとは……。
作業を急かされる焦りと怒りを強引に鎮め、金属活字の冷たさに左手の感覚を失いながらも、私は持ち前の忍耐強さで、どうにか頼まれた原稿用の活版を完成させた。
「……ふー」
過酷な作業も終わり、一息つく。
原稿の活版は四ページ分、無事に組み上がった。
……しかし、岩山を掘ったりスラを曳いたりといった肉体労働よりも、どっと疲れるような作業だった。
こんな仕事が学園生活の数年間に毎日あるのかと思うと、憂鬱なんてもんじゃない。
……なんかもう、講義受けてもないのに帰りたくなってきた。
「ご苦労、手際が悪いにしては、まぁ及第点といったところか。これでなんとか仕上がるだろう」
「どうも……」
人が必死になって仕上げたというのに、片付けながらの労いだ。そもそも労っているのかも怪しい。
見返りを求めているわけじゃないけど、この男にはもう少しでも、人に対する思いやりというものが必要だと思う。
導師が全員こいつのような性格だったら、正直なところ、私は学園生活を何年も耐え凌ぐ自信がない。
「では、オレはこれで」
堅い椅子の上で疲れ伏す私をよそに、男は白衣を脱ぎ捨て、足早に字選室を後にした。
入り口付近に掛けられた大きな時計は、六時五分過ぎを指し示している。
結局、指定された時間からは五分しか経っていない。
あいつは、六時までに終わらせなきゃならない仕事とか言ってたけど……。
私が早く来なければあの男、一体どうするつもりだったのやら。
「あー……まだ、朝かぁ」
私の気分は、既に黄昏時である。
この後に講義かぁ。学徒ってのも結構きついな……。
「おお、すまない、先に来ていたか」
「?」
ぼんやりと字選室の時計を眺めていると、先ほどの男とすれ違うように、今度は白髪の老人が入ってきた。
老人も小脇に数十枚の紙を抱えていて、字選室を利用することは明白だった。
私は身体を投げ出した長椅子から跳ね起きて姿勢を正し、礼をする。
「すみません、この部屋、使うんですよね。休憩に使っちゃってて……」
「うむ、君がロッカ=ウィルコークス君だね? 話は聞いているよ」
「え?」
「早速で申し訳ないね。慣れていない仕事だろうが、ワシの仕事を手伝ってもらうよ。理式科の資料で、印刷しなければならないものが多いんだ」
「……」
「ああ、はじめまして。ワシはベルキンスという。ペルラビッツ学園長から、学徒指令の話は聞いているね?」
私は老人から原稿の見本を手渡された。
時計の短針は、ほぼ六時を指している……。
……嘘でしょ?
そして私は今、頑丈なブーツの底を石の廊下へ叩きつけるように歩いている。
結局、本命の仕事は予定よりも早く終わった。
導師から手馴れている事を褒められた。
私の字選能力が大幅に向上した。
……だからどうしたってんだ畜生が。
私の機嫌には何の足しにもなりゃしねえ。
「あの野郎、遅かれ早かれ、この学園を出る前に一発は殴ってやる……」
私の怒りがそろそろ許容限界を超えそうだ。
あの猫背の野郎……導師の頼みならと仕方なく高慢な命令を聞いてたってのに、ただの学徒だったのかよ。紛らわしい白衣なんざ着やがって……いや、それは別に良い。勝手に勘違いした私も私だ。
けどそれで勘違いで下手に出てしまった私を、あの男は自分にとって都合のいいように顎でこき使いやがった。それは許せない。
ただでさえ普通の“お偉いさん”すら嫌いだというのに、偉くもない奴が偉ぶっているときた。
いつかこの右手で殴ってやろう。これは決定事項だ。今決めた。
……ふう。
よし、奴の処遇を決定したところで、心を入れ替えよう。
いつまでも眉を吊り上げ殺気立っていたのでは、次の一大イベントに支障を来してしまう。
「……こっちの棟が、特異科か」
私が編入した学科は“特異科”という。
一般的らしい属性科でも理式科でもない、非常に珍しい理学学科だ。
悪い言い方をすれば、小さな学科。学園を構成する五つの棟の端に専用の講義室があるのも、そういった事情が関わっているだろうということは、頭の悪い私でも容易に想像できる。
「……」
見事な石造りの棟連絡橋を渡り歩く途中で、ふと立ち止まる。
蔓草彫りの窓枠で縁取られた大きなガラス窓から覗ける朝の景色に、つい目が奪われてしまったのだ。
「……綺麗」
山の上のように高い建物からの細かな風景。
遠くに広がる首都の街並み。
朝の澄んだ空気と朝露に照った世界は、煙る故郷よりもずっと鮮やかだった。
「……」
それでも私は、あの灰色の故郷が恋しい。
暗く蒸し暑い、寂れた故郷が。
ミネオマルタ国立理学学園の総学徒数はおよそ千名である。
属性術を学び実践能力を将来に活かす属性科。
独自の魔術を習得し、実用のために研鑽を重ねる独性科。
魔術式を研究し、魔術の実相を研究する理式科。
古代の理学的遺物、ゴーレムの制作などを行う魔具科など。
様々な学科で様々な学徒が活動しているが、どの学科にも学徒が五十人程度は在籍している。
その中で、特異科の学徒はほんの十数名程度であり、数ある学科の中でも最小の人数だ。
そのため、特異科の学徒たちは他の学科とは違い、在籍する学徒全員が、同じ時間に講義や実習を受ける事となっている。
……というようなことが、旅立ちの前に読んだ切り抜きには書かれていた。
要するに、私は少ない友達とよろしくやっていく必要があるわけだ。
「この中にいる人と一緒に勉強していくのか……」
廊下を歩き、特異科の講義室の前までやってきた。
始業時間はまだであるが、特異科の講義室からは賑やかな話し声が聞こえている。担当の導師はまだ来ていないらしい。
それだけに、私は講義室の前で踏み留まっていた。
紹介してくれる導師よりも先に知らない奴が入ってきても、中の学徒たちも困惑するだろう。
……本当は、そんな空気の中で自ら喋りたくないという気持ちの方が強かったのだが。
「……さっさと来てくれないかな」
私はドアを見つめながらぽつりとこぼす。
「誰がですか?」
その一言は、すぐに拾われた。
「ひっ」
背後からのか細い声に肩が浮く。
声をかけた張本人も、その挙動にびくりと震えた。
「ご、ごめんなさい、急に声かけちゃって……驚かせちゃったかな」
「いや、全然大丈夫……こっちも悪いね、気付かなくて」
声をかけてきたのは、背は高いが気弱そうな女魔道士だった。
彩佳系特有の肩まで伸びる紺色の髪に、海のように青い瞳。典型的な水の国の人間だ。
ゆったりとした長いローブと大きなスカーフ。実にインテリらしい装いだ。
言葉にするなら、理性的な女性の姿がそこにある。
十八年間粗暴に生きてきた私には到底目指せない、けどちょっとだけ憧れる、大人っぽい人だった。
「あ……もしかして、ウィルコークスさんですか?」
「え? 私を知ってるの?」
自分とは違う世界で生きる人間なのだろう、と思っていた矢先だったので、その一言には本当にびっくりした。
「ええ、もちろん。私が担当する特異科の、新しい教え子さんですからね」
「……」
私は固まった。
「すいませんでした、導師さんじゃ、ないかと思って」
「そ、そんな、大丈夫ですよお、気にしてませんから」
「お若いんですね」
「あは、あはは……そう、ですか? 嬉しいな」
照れながらも朗らかに笑う仕草は、歳よりも遥かに若く見える。まさか、私の担当導師だったとは予想外だ。
密かに悶々と危惧していた、エリート魔導師のような嫌味ったらしさは、彼女にはない。
スパルタ方針を強行するような厳しい人柄でもなさそうなので、ひとまず胸を撫で下ろしても良さそうだ。
少なくとも、字選室で出会った男のような導師ではなくて、本当に僥倖である。
「ではウィルコークスさん、一緒に中へ入りましょう」
「はい」
扉は開かれ、導師と共に室内へと踏み込んでゆく。
導師の入場によって話し声はぴたりと止み、講義室内の学徒たちは今更に存在感を潜めさせた。
注目を受けていることは、なんとなくわかる。この大人しい静けさも、私のせいかもしれない。
それでもとりあえず、横目にちらりと見えるすり鉢状の座席側へは、まだ視線をくれてやらない。
ここではせめて、田舎者ではない大人びたところを態度で見せてやるのだ。
私は落ち着いた風を装って、教卓までまっすぐに歩く。
そして教卓の隣に立ってようやく、こちらを伺う学徒たちの方へ澄ました顔を向けてやった。
「……!」
それから私は色々な顔を静かに舐めるように、値踏みするように眺めてやろうと思っていたのだ。
だが目線は泳がずに、一点に縫い付けられたまま動かない。
「……」
あの野郎だ。
私はすぐに気が付いた。
今朝のことだ、容易く忘れもしない。
私は、並ぶ席の最後列で本を読む、いけ好かない眼鏡の男だけを睨んでいた。
繕っていた和やかさなどすぐに消え失せ、怒りの感情が眉間を力ませる。
物怖じしない堂々とした姿勢という意味では、ある意味大成功だろう。
転入初日、こうして私はまた、見知らぬ人々に威圧感を与えてしまうのだった。