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打ち砕くロッカ   作者: ジェームズ・リッチマン
最終章 打ち砕く石

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222/545

掌003 砕き磨る推測

「ロッカ!」


 竜が女を連れてどこかへ飛び去り、その後間もなくして男が棟から落下死した。

 残されたクラインはすぐさま駆け出し、竜の飛び去ったであろう外に向けて走る。


「クラ、イン……」

「……お前も来い!」

「え……あっ……」


 彼はそのまま走って観覧席へ飛び移ろうとしたが、視界の隅で倒れるミスイの姿を認めるや、徐ろに彼女を背負った。

 突然に手を差し伸べ、強引に身体を密着させたクラインに、ミスイは一瞬のうちに顔を真っ赤に染めた。

 だがクラインはすぐに走り出し、その勢いで舌を噛みそうになったので、浮ついた気持ちはすぐに引っ込んだ。


 クラインが最大限に高めた身体強化によって観覧席へ飛び上がると、開け放たれた非常出口の向こう側にソーニャの後ろ姿が見えた。

 近くには、男の気配が無い。罠にしては不自然だし、今の状況は向こうにとって落ち着けるものではないだろう。クラインはそう素早く判断すると、観覧席最上段の長椅子の上にミスイを横たえて、特に身構えることなく、素早さのみを意識して出口に近づいた。


「おい、エスペタル」

「あ、クライン……」


 ソーニャの顔は、元々白い顔が蒼白になっていた。

 表情もわかりやすい言葉に表現できるものではなく、近くに居ない男の事も含めて、何かが起こったのであろうと読み取るのは容易だった。


 それを見て、クラインは“落ちて死んだか”と自己完結する。

 実際にそれは正解であった。彼がそのことをソーニャに確認しなかったのは、無神経であるが、今回ばかりは両者に都合の良い事であった。


「ロッカは。竜はどこへ向かって飛んでいった。見たか」

「え、竜……」

「ラスターヘッグだ」


 ソーニャは茫然自失としていたが、珍しい気迫に満ちたクラインを見て、正気を取り戻したらしい。

 一度だけ頭を振って、藍色の空を見上げる。


「……確か、あっち側……だったかしら」


 ソーニャが曲がった人差し指で示したのは、紺色の空だった。

 しかも指先は左右に触れ、その範囲を広く取っている。


「……もっと、詳しく覚えていないのか!?」

「お、怒らないでよっ、私だって……!」


 彼女は確かに、竜が飛び立つ瞬間を見ていた。その時点で屋外にいたのだから、誰よりもはっきり見ていることは間違いない。

 だが彼女は彼女で、必死に戦っていたのだ。一瞬の隙でも見逃すまいと、常に気を張ってエルドレッドの行動に神経を集中させていたのだ。


「えっと、えっとぉ……こっち側の、はずなんだけど……!」


 皮肉なことに、エルドレッドが隙を見せたタイミングは、竜が飛び立ったその瞬間だった。

 ソーニャはそこを突くことによって助かったが、それは同時にロッカを見失う要因ともなってしまったのだ。


 しかしソーニャはそれを激しく悔いた。

 ロッカの中に垣間見える彼女の亡き妹、レイチェルの面影が、自責の念をより強めたのである。

 必死に思い出そうとすればするほど、より強い焦りと恐怖が込み上げ、正常な判断力と思考力は失われてゆく。


「もういい」


 その様子に希望が見えないことは、クラインにさえ見て取れた。

 彼はぶっきらぼうに言いながらも、ソーニャの肩に優しく触れて、闘技演習場の中へ戻るよう、無言で促す。


「だいたい向こう側……どこだ、どこまで行った……」


 クラインは目を細め、夜景を探り始めた。

 地上十階から見渡せるミネオマルタの夜景は、黄みがかった窓明かりが点在し、まるで星空のようである。

 つまり、その数だけの明かりが邪魔となり、ロッカの行方をわからなくさせていた。


 もしかしたら近くかもしれないし、遠くかもしれない。

 場合によっては、まだ竜は空を飛び続けていることだってあり得る。

 どちらにせよ、遠くへ行ったとすれば、手の出しようがない。


「……近くにいる」


 ならば、捜索は近距離に限定するべきだ。

 手の届かない場所を探るより、自らの手が届くであろう場所を探る方が有意義である。

 脚に人一人が張り付いているならば、その重量はそこそこだ。竜種とはいえ、大荷物を抱えたまま遠くまで羽ばたき続けることは難しいはずである。


 実際がどうかは不明だ。

 しかしクラインは合理的に、ロッカは近くにいるものと仮定した。


「なら、どこだ……」


 眉間に親指を当て、思考する。

 竜はそう遠くへ逃げていない。だとすれば、近くではどこに行くのか。


 灼鉱竜の習性。生息地。そこまで考えて、クラインは鮮やかに舌打ちする。


「違う、馬鹿か。そうじゃない……もっと絞れ」


 問題は、竜がどういった場所を好むのか、ということではない。それも重要ではあるが、今懸念すべきことはそれではない。


 クラインにとって重要なのは、ロッカの安否それだけなのだ。

 たとえ近くであっても、人が大勢いる場所に降り立ったのであれば問題はない。学園の周囲を固める厳重な警備が、きっと彼女を助けるために動くだろう。


 考えるべきは、最悪のパターンを阻止することである。

 最悪。それは、ロッカの死亡だ。


「……」


 ふと、クラインは思考を途中で止め、自らの心が激しく揺れていることに気がついた。

 自己分析上、常に冷静で、それ故に判断を誤ることのない自分が、今はやけに焦っている、と。


 クラインは誰にでもなく反論する。当然だ。人が死ぬんだぞ。


 ただ一人、人間が死んだから何だというのだね。

 彼の心の表層にある冷たい理性は、すぐに声を返してきた。


「……ロッカが死んで、良いものか」


 良くはないな。


「ふ」


 自問自答の末、クラインが小さく笑った。

 その様子をソーニャは見ていたが、彼が笑った理由などは当然、少しもわからなかったし、薄気味悪ささえ感じられるものだった。


 だがクラインの中では、些細な疑問に確かな答えが出たのである。

 だから彼はこれ以降、思考を迷うことはなかったし、一つの大きな目標を前にして、より一層、自らの中にある集中力を高めていった。


「……竜は、人気のない場所に降り立った」


 瞑目し、クラインが呟く。

 仮定のみによって答えを導く作業には、ちらつく夜の明かりが邪魔だった。


「人気のない場所、応援の来ない場所……高い家屋の屋上、物見の塔……どれも違う……そうか、学園の中だ」


 警備の厳重な外。人々のうろつく外。

 今は夕食前。人通りは、どこでも多い時間帯だ。

 そんな最中に竜がやってくれば、誰だって異常に気付くはずである。騒ぎが起これば応援や討伐隊が駆けつけ、早急に対処されるだろう。


 だとすれば懸念は、学園内部。今は人のほとんどが第二棟の中へ消えて、視線が少ない。

 藍色花火は上がっているものの、それも飽きられた恒例行事のひとつ。世紀の一大イベントである光属性術の講義を蹴ってまで見る価値はないはずだ。

 そして学園内に不審者を入れまいとする監視の目は、常に外側に向けられている。


 花火の音と、外側に向けられた監視の目。

 学園内で多少の異常があったとしても、これらが重なればどうだろうか。


 その時竜は、存分に暴れるのではないだろうか。


「……この距離であれば、竜の赤熱が目視できるはず……!」


 クラインは外周部の狭い足場を、棟に沿うようにして歩き始めた。

 第三棟の外側を、一歩ずつ、一歩ずつ、手すりが必要なほどではないにせよ、歩みを慎重に、弧を描くように歩いてゆく。

 同時に目線は忙しく学園の敷地内へと向けられ、いくつかの灼灯によって照らされた地面を監視する。


「……あれは!」


 そしてクラインは、ついに発見した。

 近くにいる。それはただの仮定だったが、彼の予想は的中してしまった。


 それは、最悪の予想。

 できれば外れて欲しかった予想の通りの場所に、仄かな赤い輝きは瞬いていたのである。


「なんという……!」


 学園内、庭園外部の林。

 近くに人もおらず、備蓄品の倉庫だけがぽつりと佇んでいるだけの場所から、灼鉱竜の発する赤い輝きと、薄い黒煙が見えていた。


「どうすればいい……!」


 今度は、“どう助け出すか”を考える時間だ。

 既に竜は降り立ち、林の中では激しく、おそらくは一方的な戦闘が予想される。

 竜と人間の一騎打ちなど、冗談にしても非現実的だ。誰かが手助けに、救い出す必要があった。


 しかし救いの手を差し伸べるには、クラインの立つ十階は非常に高く、距離も離れすぎている。


「どうすれば……!」


 クラインは考える。

 現在位置は十階。

 その高さもさることながら、夜闇のせいもあって地面が見え辛く、風向きや強さも不明瞭。

 クラインとしても、この高度から落下して無事に済むかといえば、絶対に大丈夫だという自信や確証はなかった。


 影魔術で勢いそのものを軽減する、風魔術によって上昇気流を生成する、身体強化で着地する。

 民家の屋根程度の高さであったり、数メートルほどであれば問題はない。しかしここまで位置エネルギーが高くなってしまうと、勢いを止めきれるかどうかは大きな疑問があった。

 上昇気流を作っても、自らの落下の勢いに勝てるとは思えないし、方向の制御がままならない可能性がある。

 影魔術によって重さを軽減し、反重力を生み出したとしても、やはり落下の勢いを全て消すのは容易ではない。

 そうしてある程度消した後に、複雑な全力魔術をすぐに遮断して、身体強化に全魔力を回す……属性魔術のほとんどを修めたクラインをして、それは非常に難しいことであった。


「くそっ、こんな時に水魔術が使えれば……!」


 仮定の話として、緩衝材になり得る質量魔術を利用できれば、落下の衝撃を和らげることは可能だ。

 実際そういった専用の魔術は存在し、水魔術と影魔術を用いたそれの存在はクラインも知っている。多少難易度のある魔術ではあるが、クラインほどの魔道士ともなれば必修と言っても過言ではない程度のレベルでしかない。

 それでも彼がその魔術を修めていないのは、彼の持つ特異性故のことであろう。


「待て、考えろ。とにかく考えるんだ。場所はわかった。あとはオレが無事にいけば、それでなんとかなる……!」


 嫌悪感に呑まれそうになった一瞬、堪え踏みとどまり、冷静な思考を維持させる。

 自分の不遇を嘆くよりも、成すべきことがあるのだ。クラインはとにかく考え、いち早くロッカを救い出す方法を見つける必要があった。


「遠距離魔術……届くわけがない。落下……緩衝……風……“天使の秤”、いや、あれはこの高さで使うものでは……」

「クラインっ!」


 集中するクラインの横から、甲高い声が投げかけられた。

 クラインが思考を阻害されて鬱陶しそうに目を向けると、そこには壁に半身を預けながらも、どうにか立っているミスイの姿があった。


「クライン、何を……するつもりですか……!」


 ミスイは闘いの痛みを引きずりながらも、クラインのことが気がかりでやってきたらしい。


「オレは、ここから飛び降りる。ロッカを助けなくてはならない」

「な……」


 しかしクラインの目線は、もう既にミスイを見ていない。

 彼の目は真っ直ぐ、夜闇の中で仄かに輝く赤へと向けられていた。


「駄目です! クラインの魔術では、この高さを無事に飛び降りるなんて……!」

「……やってみなければわからない」


 言いながらも、クラインは冷や汗を浮かべる。

 彼の中でも成功率は半々で、実際に行動に移してみなければ本当にわからなかったのだ。


「そんな、そんなに……」


 ミスイには、それが解っていた。クラインの限界が、クラインの得手不得手が、全て見えていた。


 彼女はクラインの幼なじみであり、元許嫁だった。

 元々は親同士が勝手に決めたことだったが、ミスイは誰に言われるまでもなく一目見た時からクラインのことが好きだったし、それはクラインの特異性が発覚し婚約が破棄されても、そして今でも変わらない。


 そんなミスイだからこそ、今のクラインがやろうとしている無謀の動力源が解っていた。


「……風魔術で棟から距離を取った後、瞬間的に大きな上昇気流を作って減速する。それを三回に分けて行い……影魔術で全体減速を行った後姿勢を整え……身体強化で着地する。そうだ、これならいける、風、影、強化……これで……」


 大きく息を吐き、大きく息を吸う。クラインにとっても緊張を要する一瞬だったが、あまりまごついても居られない。

 外せば命を失う賭けだとしても、急いで硬貨を投げねばならない時もあるのだ。


 今のクラインは頭の中で正確な魔術の発動を思い描きながら、ただ最終的な覚悟だけを固め続けていた。


「……クラインッ!」


 彼女は、そんな彼を見ているだけではいられなかった。


「私が……私が“水霊代(キュレイドル)”で貴方を下まで運ぶから!」

「……ススガレ?」


 ミスイは叫びながら、クラインに一歩一歩と近づいてゆく。

 その表情は何かを堪えているような、悲痛さを感じさせるものだった。


「私の“水霊代(キュレイドル)”を使えば、クラインを無傷で、安全に下へ届けられるから……だから……貴方は無茶しないで。お願い」

「……オレに、力を貸してくれるのか」


 クラインが柄にもなく訊ねると、ミスイは無言で大きく頷いた。


「……わかった。なら、これを使うんだ」

「え……」


 そう言って、クラインは真面目な顔のまま、右手の中指に嵌めた指輪を抜き取って、ミスイへと差し出した。

 純銀のリングの中には魔精の生体素材が埋め込まれ、宝石は夜魔の力の結晶とも言われる暗がりの結晶をあしらった、お世辞にも縁起の良いとはいえない指輪である。

 しかし魔術を扱う際の効率だけで言えば一級品であり、無手であるならばこれを装着するだけでも、魔術の精度や能力が飛躍的に向上する。

 埋鉛帽のロッドを壇上に置き忘れたミスイには、これからの大役を果たすため、ある意味で必要不可欠とも言える装備である。


「……ひどい。ひどいわクライン。こんなの……本当、酷い……」

「時間がない。オレは術が発動した瞬間、即座に乗って降下するぞ」


 飛び降りることに変わりはないクラインは緊張を解すために息を整え、瞑目する。

 その横ではミスイが涙を流しながら、クラインから受け取った銀の指輪を、両手の中に大事そうに握り締めていた。


「……でも、ありがとう。私を頼ってくれて、ありがとうございます、クライン……絶対に、忘れませんから……」


 ミスイは指輪を愛おしげに、ゆっくりと薬指の奥まで嵌め込み、それを終えると、一瞬だけ強く目を閉じた。




 そして、彼女はすぐに目を見開いた。


「……“水霊代(キュレイドル)”!」


 ミスイは左手を突き出して、渾身の力で水魔術を発動させる。

 空中に大きな水の球体が出現し、それは内部の気泡を外へとはじき出しながら、混じり気のない球を形成してゆく。


 ゆっくりと落ち、ゆっくりと割れる神秘の水玉、“水霊代(キュレイドル)”。

 この水魔術は上に乗ることができ、高い場所から人を降ろすなどといった作業の際に重用されている。

 ただし水魔術に影魔術を併用する都合上、習得出来るものは非常に少なく、かなり高度な魔術であった。


「……ありがとう」


 クラインは一言礼を言うと、颯爽と“水霊代(キュレイドル)”の上に飛び乗って、ゆっくりと下降していった。


 どんどん下へ離れてゆく、幼なじみの姿。

 彼の顔はやはり、森に輝く赤い炎へと向けられている。


 ミスイは、そんな彼を見て再び涙を零しかけたが、それは下の彼に浴びせまいと、袖で強く拭い取った。

 それでも涙は、次から次へと溢れてくる。拭っても拭っても出てくる涙を何度も枯らし、そしてミスイは視界が落ち着くと、自分の薬指に嵌め込んだ銀の指輪をそっと一撫でした。


「……クライン!」

「なに……おっ、と」


 突然、上から投げかけられた言葉に目を向けると、クラインは自らを目掛けて飛んでくる銀色のものに気がついた。

 咄嗟に掴み取ってみれば、それは先ほどミスイに渡した、銀色の指輪であったらしい。


「杖なしで戦うのは、無謀ですよ!」


 どうやら、上からミスイが投げ渡したものらしい。

 クラインはもう一度見上げ、十階にいる彼女の姿を探したが、彼女は既に下に注目していないのか、その顔を見ることはできなかった。


 だからクラインは特に気にすることはなかったし、何も思うところはなく、淡々と銀の指輪を右手に嵌め直す。


「……これで、助けにいける」


 彼はただ、窮地に立たされているであろう彼女が気がかりであったのだ。




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