掌002 砕かれぬ戦意
「は――なせっ――」
風圧で息ができない。
急降下による無重力感が不安と恐怖を煽る。
竜にしがみついたまま、身動きが取れない。それは風圧のせいもあるけど、恐怖のせいでもあった。
そして、感じる落下速度と距離にほとんど差を付けずに、大きな衝撃が全身を襲う。
「うッ……!」
急停止。身体が勢い良く投げ出された。
視界は、暗闇。真っ黒で完全な暗黒ではなかったが、凄まじい速度で見る世界は、ほとんど目視のできない乱雑な模様だ。
当然、私は何の抵抗もできずに、何か硬いものに背中から叩きつけられた。
「かはっ……」
……まだ、生きてる。
樹の幹に叩きつけられるまでに、何十本もの枝葉を折っていたのが緩衝材になったのだろう。
肺から力なく空気が漏れて出たものの、奇跡的に再起不能は免れたらしい。緊張の一瞬に高められた身体強化も味方してくれた。
ここは、そうか。学園の敷地にある、クラインと一緒に特訓した、あの林か……。
ってことは私、十階の高さからここまで一気に飛び降りてきたってことかよ……我ながら、どうしてまだ生きてるんだ。
そんな呑気なことを考えている間に、竜の叫び声と赤い炎の輝きが、再び目に映る。
竜に捕まってここまでやってきたのだ。近くにいるのも当然のことだった。
「ちくしょっ……!」
全身が痛い。もしかしたら、どこかしら異常があるかもしれない。
それでも今動かずして、いつ動くのか。私は軋む身体に鞭を打ち、その場から飛び退いた。
「うわっ!?」
直後、私が背を預けていた樹木に大きな腕が叩きつけられ、無数の小さな木片が宙を舞う。
もはや岩が砕けるにも近い轟音と共に、木が丸々一本へし折れて、なぎ倒された。
これが、竜の一撃。
私がいくら身体強化を重ねたところで、こんなの無理だ。絶対に防ぎようがない。
避けるか、逃げるのみ。他の行動は死へと直結するだろう。
幸い、ここは人のいない静かな場所だ。
ソーニャやミスイのように、誰かを巻き込むという危険は少ないはずである。逃げるにあたって、気兼ねする要素は存在しない。
逃げ切れば、それで勝利だ。
周囲に林立する樹木も、私が逃走するために役立ってくれるに違いない。
……だけど。
「ッつぅ……!」
いざ逃げのための一歩を踏み出そうとしたその時、冷静になった私の頭は、身体の上げた悲鳴を聞き取ってしまった。
「うそ、だろ」
足が、痛い。
こんな、あとはもう足だけで良いって時に限って、これである。
私の右足は、……折れているらしい。
竜が全貌を現して、赤黒く光る体躯を私の真正面に持ってきた。
同時に、耳障りで金属質な咆哮が上がる。
……逃げ場はない。
足は思うように動かない。
立ち向かえば、まず間違いなく殺される。
心のどこかで、“ああ、なるほど”と納得できた。
なるほど確かに、人が死ぬと言われてみれば、今この状況はまさにその通りだ。
手負いの人間に、巨躯の竜。それは、“死”をそのまま絵に描いたような構図だろう。
私の目の前にいるやつが死そのもので、そいつが触れた瞬間、私の人生は終わりを告げるのだ。
十八年。長いようで短いような人生だったな。
長くヤマの仕事について、父さんからイロハを教わり、そこでヤマの人間としての酸いも甘いも味わった。
その反面で、母さんがよく言って聞かせてくれたような女としての楽しみは、あまり謳歌できなかった気がする。
それと……わずかな時間ではあったけど、魔道士を目指して過ごしてきた時間は、私にとって素晴らしい日々だった。
歳の近い賑やかな友人達に囲まれて、気風こそ違うものの、賢く優しい人達からいろいろなことを教わって……まぁ、楽だけじゃなくて苦労するようなことも多かったけれど……ミネオマルタで過ごしてきた時間は、私の十八年という人生の中では、特に輝いているのだろう。
それが……ここで、終わるのか。
いろいろやった。いろいろ楽しんだ。最後に過ごした時間は忘れられない。
……それで、もう終わりなのか。
……まだ、私は何もしていない。
確かに、これまで楽しんで生きてきた。けど、ここで死ぬのかよ。こんな場所で終わるのかよ。
私はまだ、生きていたいぞ?
竜が細目を赤く輝かせた一瞬の、めまぐるしい思考の中。
私は自らの内に、結論を出した。
「……なんで、私がお前なんかに殺されなきゃいけないんだ」
確かに楽しかったよ。充実してたよ。これまでの中でやるだけのことはやったし、必死に最善を尽くしてきたつもりだよ。
でもだからって、こんな簡単に一生を手放せるもんか。
私はこのまま死にたくない。
まだまだやりたいことは沢山あるんだ。
私はまだ魔術投擲を覚えてないし、数学が苦手なままだし、友達もたくさんいないし、父さんに仕送りを送ってないし、上手い料理を飽きるほど食べてないし、結婚してないし……。
死ねない理由はいくらでもある。
ああ、馬鹿だった。チクショウ。なに弱気になって自分の一生を振り返ってるんだか。
んな簡単に人生を諦めるかよ。当たり前だろうが。私の人生だぞ。それをどうして、こんなデカいトカゲ一匹のために捨ててやらなきゃいけねえんだ。
畜生が。ふざけやがって。
つうかよ、お前の脚に刺さってるそれは何だ。それは私のだ。母さんの宝物だ。
ふざけんなふざけんな。百万歩譲って私の命はくれてやる。けどそのデムピックだけはな、死んだって譲ってやれるもんじゃねえんだよ。
ああ。見ているだけでイライラしてきた。
全身の痛みと正面から吹き付ける熱風で、あの日の出来事が思い起こされてきた。
炎と煙に包まれた灼熱の坑道。
赤黒い壁面。
落盤。激痛。
「てめぇなんか、怖くねえ」
坑道火災が起きたあの日、私は自分の右腕を失った。
あの日以来、巨大な炎を前にすると身が竦んでしまい、心臓が警鐘を鳴らすほどになってしまった。
炎は、あまり好きじゃない。かなり怖い。
大きなものを見ると、そこに飲み込まれてしまうんじゃないかと思って、泣き出しそうになってしまう。
でも、私は同じくらい、炎というものを“ぶん殴ってやりたい”とも思っている。
あの日の象徴であり、全ての元凶である大火を。私から腕を、大勢の鉱夫の命を奪った、災厄の炎を。
気付けば、私は竜の細目を睨み返し、ポケットに手を入れたまま正面から対峙していた。
灼鉱竜ラスターヘッグの巨躯が、こちらへゆらりと傾く。
凶悪な顔がこちらに近付き、口を開いて、無数の針のような歯を向けてきた。
噛まれれば、ズタズタに割かれて死ぬ。
人間同士の喧嘩ではほとんどあり得ない、顔からの接近。
顎が堅くなけりゃそのまま殴ってやるところだが、それは危険だ。
右足も折れている。無茶はできても、無謀はできない。
「ふっ!」
近づく顔面に向かって、左手に握りしめていた土を投げ放つ。
土の飛沫は灼鉱竜の無防備な顔を襲い、切れ長の目に叩きつけられた。
「うわっ」
それが見事に効いたのだろう。灼鉱竜は口から火を吹きながら悶え、首を振り回し始めた。
どんな生物だろうと、眼だけは弱いと決まっているものだ。これで奴の視界は奪えたはず。
「うっ」
しかし、本格的に相手を怒らせてしまったらしい。
灼鉱竜は乱雑に暴れ始め、腕を振るい、翼を動かし始めた。
細い枝葉が灼熱の爪によって引き裂かれ、炎に包まれ舞い落ちる。
屈強な長い尾は幹に打ち付けられ、土を巻き上げ暴れ狂う。
私はその中で、竜の太腿から咄嗟にデムピックを引き抜いた。
「あづっ…!」
だが、熱い。ピックは火の中にくべられたかのように発熱しており、無防備に掴んだ手を焼いた。
その時に漏れた声が原因だったのだろう。
灼鉱竜の土混じりの目がこちらに照準を合わせ、腕が横に振られる。
「あ――」
衝撃。
硬質な竜の豪腕が、私の腹部を強く打ち付ける。
抉るような鋭い痛みと、たやすく折れ曲がる腰。
踏ん張りも防御も無い、ただの一撃によって、私の身体は吹き飛ばされた。
「ごふッ」
一瞬のことで、何メートル飛んだのかもわからない。
だが、ほとんど直線だったのだろう。背中を打ち付けた痛みは、すぐにやってきたのだから。
「う……」
身体強化はしていた。手を焼くような痛みに対して、反射的に全力の強化をかけていたから。
それでも私を正面から打ち付けてきた竜の腕は、あまりにも強力だった。
背中が、腹が、脚が痛い。後頭部も、ちょっと痛い。
「ちく、しょ」
……肋骨が折れてないのは、奇跡だな。
でも、母さんのピックは取り戻した。
ものすごく熱くて、正直身体強化を解いた状態では持ってられないけど……ミスイに冷やされた金属製の右腕なら、まだ握っていられる。
戦っていた時にはひでえことしやがると思っていたけど、まさかこんな場面で役立つとは。
怪我の功名って、こういうことを言うんだっけか。
知るか。休憩はもういいだろ、さっさと立ち上がれ。
「くっ……」
ピックを握り、身体を起こす。動くと身体が痛むけど、もっと痛そうな爪と牙をもった奴がこちらに迫っている。
それを見たら、おちおち休んでいられない。
逃げ足は潰れてるんだ。逃げも休みもできない。闘うしか、道はない。
「ふざけやがってぇ……」
赤黒く燃えて輝く灼鉱竜は、まるであの日に私の右腕を奪い取った岩盤のようだ。
それが再び今日、私を引き裂こうと迫っている。
一度ならず、二度までも。
岩のくせに。鉱物のくせに。
「そんなナリしてるなら、大人しく私に砕かれろ!」
岩を砕くのは私の領分だ。
この竜だって一見頑丈そうではあるが、デム鉱石で作られた最高硬度のピックの前では、強靭な鱗も役には立たないだろう。
竜のもとに近付き、ピックを振り上げる。
狙うは懐。柔らかそうな首元だ。そこを掻っ切ってやれば、いくら竜とはいえ、無事では済むまい。
「あっ」
しかし、竜の身体は大きく動いた。
岩のような巨体がぐるりと半回転し、巨大な黒翼を大きく振り回す。
腕を振るうでも、尻尾を振るでもない。ただ身体が回り、翼が偶然、私にぶつかっただけだった。
相手は未だ目が見えていないらしく、それは私を敵と見なしてのものではない、乱雑な動きでしかなかった。
けど側頭部を打ち付けるそれだけで、私は卒倒した。
勢い良く転げ、私は地面に這いつくばったのだ。
たったひとつ、気まぐれによって起こされた竜の動きで、返り討ちに合う。
それはまるで、人によって無意識的に踏み潰されてしまう、小さな蟻のよう。
「ぐぁ……」
情けないやられ方だ。頭を打って倒れるなんて。
けど、実際に当たり所は悪かった。今の偶然の一発は頭を揺らし、視界がグルグルと揺れてやがる。
ああ、そのうえ、最悪だ。
翼が私にぶつかったことで、奴が私の存在に勘付いてしまった。
視力の落ちた目は、地に伏せる私を見て、再びギラギラと輝き始めている。
身体が動かない。鈍い痛みが、絶え間なく襲ってくる。
竜が来る。竜が見てる。
動けない。奴が来る。
やばい、このままだとやばい。
何か無いのか。何か……。
「“スティ”……」
いや、ある。
ひとつだけ……動けない私に残されている手が、ひとつだけ。
「“スティ・ラギロ・アブローム”ッ!」
私は地に横たわったままピックを地面につきたて、呪文を叫んだ。
いつかと同じこの場所で、一番最初に教わった、この魔術を。




