釜018 寄せ付けない間欠泉
身体強化によって力が底上げされると、目に映る景色がどれだけ切羽詰まっていようとも、切り抜けられる安心感が湧き出てくる。
普段はできない動きができるということは、それだけ自分の動きに可能性が生まれ、普段は想像できないような回避の方法を、土壇場で閃かせてくれる。
「“クウザ・ラギレルテル”」
「っと」
弧を描いて迫る水の鞭を、当たる間際で仰け反って避ける。
「“コイズ・ディア”」
「ふっ」
無防備な体勢を見せた私目掛けて水の塊が飛んでくるが、つま先だけでバランスを取る片足に力を込め、その場から真横へ飛び退く。
普通なら成し得ない無秩序な動き。私ですら予想の付かない力任せの挙動。
身体強化を持った人間とやりあった経験の少ないミスイには、闘い難いことだろう。あからさまに苛立った奴の表情が、そう素直に白状している。
回避、回避。順調に避け続けたら、あとはもう何歩もない近距離だ。
身体強化は避けるのみでなく、接近にさえ力を発揮する。
棒立ちのままのミスイに肉薄することは、難しくもなんともなかった。
「シッ」
大幅六歩分の距離から右手を握り、一層の強化を込めて突撃を敢行する。
これは、充分な圏内なのだ。私がアイツを、思い切りぶっ飛ばすための。
「! “コイズ・ガミル”!」
やれると思った瞬間、ミスイの足元の水たまりが膨れ上がり、私がより深く認識する間もなく、私への指向性を持つ狭い爆発となって襲い掛かった。
「ぶっ」
針のような高圧の飛沫を全身に受け、丁度重心が浮いていた私は綺麗に吹き飛ばされる。
地に脚がついていなければ、いかに身体強化をしていようとも踏ん張りが効かない。浮き上がらせるような攻撃には弱かった。
さすが秀才。ミスイも専門外の事に無知ではないらしい。
「ペッ」
しかし、今のは中級保護であれば一発退場の水圧だったが、身体は吹き飛ばされただけで、怪我はひとつもない。
身体を濡らす魔力の水も、私の強化に相殺されて、すぐに乾いてゆく。
ナタリーの使うような鉄魔術はわからないが、生半可な水魔術程度なら、まともに受けても平気というわけだ。
強化の保護は、心強い。けど、先ほどのように何度も突き返されては困る。
水を受けた一瞬、身体を覆う強化の魔力がかなりの速さで消耗された。
そう考え無しに、何度も体当たりできるものではない。
攻め方も、馬鹿正直じゃ駄目ってわけか。
「魔道士は、敵を近付かせないからこそ魔道士なのです。接近戦は苦手だろう……とでも、思っているのですか?」
ミスイがロッドを抱き、私を睨む。
昏い瞳は、侮蔑と敵意を孕んでいた。
「そう思っているのであれば、愚かの一言に尽きます。まったくもって、魔学というものをわかっていない」
「悪いな、勉強中なんだよ」
身体に纏わりつく水が乾いた。
これなら、今すぐいける。
「結構。ペンと本を置いて故郷に帰りなさい。貴女には……」
ロッドが光り、ミスイの周囲に滴る水が浮かび上がる。
「その格好がお似合いですよ」
浮かび上がった水滴は一瞬の内にツララとなり、前触れもなくこちらへと飛来した。
鋭利なツララ、その数は二十弱。私が避けるであろう範囲まで広くカバーした、とにかく当てに来るための攻撃だ。
弾いても良い。防御の構えを取っても良い。私が行える対処法はいくらでもある。
だがツララの向こう側では、既にミスイが杖を構え、このツララ攻撃ではない別の動きを見せている。
ツララは囮だ。そもそもこれには威力も込められていない。
本命は向こうからやって来る、別の何か。
「“ケツァル・コラル”――」
マズい。
聞き覚えのある詠唱。それと私の直感が、襲い来るツララなど全てを無視しろと告げている。
自分の勘は一番だ。私は敵に背を向け踵を返し、迷うこと無く駆け出した。
速く、距離を取らないと……!
「――“コイザ”!」
死ぬ!
「うッ、ぷ……!」
ミスイの周囲から湧き上がった水が、大きな滝を逆回ししたかのように高く立ち上る。
観覧席から見下ろすのとはわけが違う迫力に竦む間に、その大質量の水は波となって、一瞬のうちに私を飲み込んだ。
「ぐ」
水に呑まれ、波に巻かれ、身体が床を転がり、何度も打ち付けられる。
魔力の水によって削られる強化が防御力を緩め、鈍い痛みが全身を襲う。
これは、“大波濤”だ。
畜生、こんなもんどうしろっていうんだ。最初から近付き過ぎてたら、こんなのもう逃げようもねえじゃねえかよ。
「ぐぁっ!」
私は最後に尻を打って、ようやく水の呪縛から開放された。
新鮮な空気が悶えた肺を満たす。
「“テルス・キュアー”!」
「! しまっ……」
だが息つく暇などありはしなかった。
波から解放されかけた瞬間、下半身を浸す水全てが凍りつき、私の身体がマヌケな体勢のまま固定されたのだ。
尻をつき、両手がつき……四肢と下半身が固定された、最悪の状態。
「あっけない」
ミスイはそんな私を見て、気分良さそうに嘲笑った。
大波濤によって相手の体勢を崩し、大量に生み出されたその水を凍らせることで、相手の動きを封じる。
やっていることは、ド派手な魔術の力押しだ。
相手を押し流し、押し固めるだけ。ただ、それだけのこと。
けど、それが強い。単純な私だからこそわかる。単純なものこそ、最も力強く、恐ろしいのだ。
「……」
分厚い氷の枷には気泡が混じり、白く濁っている。
自らの手元を見通すことのできない氷の中で、私は指一本分も抗うことができなかった。
憎きミスイが、口元に気色悪い笑みを浮かべて、悠然とこちらへ近づいているというのに。
「イズヴェルについてきて良かったわ」
ミスイは戦闘中に乱れた長い紺髪を整えながら、私の目の前で立ち止まる。
丁度私が尻もちをつき、ミスイが見下すような、屈辱極まる形だ。
「こうして私が直々に、貴女に裁きを下せるのだから」
ミスイがロッドを片手で持ち、振りかぶる。
何をするつもりだ。どんな魔術だ。
私に、トドメを刺すつもりか。
拙い予想を巡らせきる前に、ミスイのロッドは風を切って、不器用な動きで私を頬を強く殴り抜けた。
「……ッ」
頬が熱い。
良い音がした。……思いっきり殴られた。
……なんて固い杖だよ。とても木材とは思えない。
強化も込められていないであろう一撃は、まるで石のように重かった。
「痛いでしょうね。殴るだなんて野蛮なこと、したことも、されたこともないので、私にはわかりませんけど」
ミスイは私に与えた痛み以上に、殴るために使ったロッドの消耗を気にしているらしい。
細い病弱な指でロッドの先を擦りながら、傷の具合を確かめているようだ。
少なくともそのわざとらしい嫌味な仕草は、頬を打った杖以上に、私の精神を強く揺さぶった。
そうだ、この女は、こういう奴だ。
ソーニャが侮辱された、幾つかの事件を思い出す。
陰惨な侮辱。陰湿な口撃。
一度は飲み込んだ一連の騒動の怒りが、再び頭に込み上げてきた。
「貴女には、この一発だけでは、到底足りない……」
激しい怒りで、頭が熱くなる。
身動きが取れず、されるがままの現状が、更に怒りに油を注ぐ。
今も、顔に少しの衝撃と痛みが走った気がしたが、そんなことが気にならないほどに、腹立たしい。
頬を打つ熱。手を凍えさせる氷。
どちらも、この激情を前にしては、何の意味もない。
これほどの怒りは、いつ以来だろう。
クラインに嫌味を言われた時?
ナタリーに喧嘩を売られた時?
それとも、ソーニャを遠回しに侮辱されて、殴りこみをかけようとした時……?
……比べる必要なんかない。
今の私の怒りこそが真実で、最高潮なのだ。
今が一番、私は怒っている。
今の一瞬こそが、私の頂点。
納得できない気持ちに、怒る気持ちに、度合いなんかあるものか。
ミスイ、お前が今、何故にこうやって悪意をぶつけてくるのか、それは私にはわからない。
でもこうして何度も、必死の形相で、慣れない握り方で杖を振るう辺り、相当の怒りを抱いているのだろう。それが、的はずれなものであったとしてもだ。
いいさ、怒るのは勝手だ。私だってよく怒る。
だから今、この私の怒りを受け止めてみせろ。
殺意なんて言葉じゃ生ぬるいほどの怒りを、受け止めてみせろよ。
「ァアアアッ!」
「うッ!?」
石のように硬く、壁のように分厚い氷の枷を、四肢の剛力が力任せにへし折った。
私の瞬発的な力が、氷の枷の拘束力を僅かに上回り、ぶち壊してみせたのだ。
煉瓦のような氷礫が勢い良く宙に舞い上がり、小さな破片は煌灯の明かりの中できらきらと輝く。
それが綺麗だとは思わない。
ミスイが作った。ただそれだけで、忌々しいものとしか感じられなかった。
「やっ……」
全身から氷をまき散らしながら、無言で立ち上がる。
声を掛ける段階は、とうの昔に過ぎ去った。
相手に容赦がないのだから、こちらも手加減する必要は全くない。
たとえ相手が一時の油断で形勢逆転を許したのだとしても、である。
喧嘩は、お互いの心に決着がつくまでが喧嘩だ。
途中で満足して攻め手を緩めるような半端者の事情なんぞ、私の知ったことではない。
「近寄るなッ!」
ミスイが叫び、見開く瞳に魔力を通わせた。
詠唱なき魔術が発現する。しかし、私の歩き出した怒りは、その程度の睨みで足を竦まるものではない。
「オラ」
力任せに振りきった右腕が、襲い来る冷気の壁と拮抗する。
痛みを覚えるほどの冷気が右腕に集中するが、どれだけ痛かろうとも、私の右腕は全て金属製だ。
樹脂もポリノキも一切使っていない私の腕は、極端な冷気をも耐えてみせる。
そして、瞬間的に生成された薄氷の盾は、砕け散る。
「やっ……」
薄いガラスのような即席の防御は数多に砕け散り、作り手であるミスイに牙を剥く。
痛みに耐性の無い奴の全身を、血の出ない範囲で鋭利な欠片が傷めつける。
自分が痛みを知らないくせに、他人には痛みを強いるとは……本ッ当に、都合の良い女だ。
「く、“凍れ”!」
「うるせえ!」
性懲りもなく襲い来る冷気の波動に、再び拳をぶつけて砕く。
突如現れる壁は、まるで空間を殴っているかのようだが、手応えはそこそこ。壊せないほどではない。
ミスイは何度か後退しながら冷気を放つが、力が拡散しきる前に殴って打ち消しているので、身体にくるのはせいぜいその余波だ。
全身を覆う強化も相まって、凍えることはない。
私得意の力押しと、恐れを捨てた極端な近距離が成せる、強引なミスイの攻略法。
私の右腕が、針山を殴るようなキツい痛みさえ無視すれば、相手の冷気をものともしないことも幸運となった。
ともあれ、良いことだ。痛みだけで済むなら、いくらでも受けてやる。
いっそこの義手すら、粉々に砕けたって構わない。
「な、何故、なんでッ……!」
痛いだけで、悪の権化と言っても過言ではないこいつに一矢報いてやれるなら……。
もう一度、右腕くらいくれてやるよ!
「ナンデもカンデもあるかスカタンッ!」
「がッ」
私の拳が氷壁を貫き、向こう側のミスイの腹を深く抉った。
「あ……」
肺から全ての空気が吐き出され、濁った黒目が苦しみに大きく見開かれる。
しばらくそうして硬直していたかと思えば、微かな痙攣はすぐに止まり、ミスイは目を薄め、そして、彼女は力なく、水浸しの床の上に崩れ落ちたのだった。




