函002 霧煙る朝
窓の結露が朝陽を七つに切り分けて、より眩い輝きが私の瞼に射し込んだ。
「……寒い」
頬へ垂れた冷気で身震いし、目を開ける。
白っぽい貝煉瓦造りの部屋は窓も大きく明るいものの、その反面とてつもなく寒かった。
一晩経って、水暖炉の熱はほとんど切れてしまったらしい。まあ、点いてても大して暖かくはなかったんだけど。
「……」
私が水国の首都ミネオマルタに来てから、これで丁度一週間目の朝になる。
けどこの記念すべき一週間目の朝は、悪夢のせいで良いものとは言えない。
寝冷えや未だに見慣れない天井も、この目覚めの悪さに一役買っているんだろうけどさ。
「チッ」
舌打ちを天井に吐き捨て、純白の固いシーツで額を拭う。
瞼に焼き付いた悪夢の残滓が煩わしい。右腕も、ちょっとだけ痛む。
ここの柔らかなベッドは鉄の国の故郷のものよりもずっと上等だけど、慣れるには、まだもうしばらくかかりそうである。
……今日だけは。
今日だけはという大事な日なのに、寝起きの汗も、右腕の疼痛も、今日の私を占うには、最悪の材料ばかりが揃っている。
ゲン担ぎやジンクスは大切だ。精神にも肉体にも響いてくるものなので、嫌な予感というものは決して侮れない。
もしもこれが故郷での仕事日の朝だったなら、迷わず無難な選別作業に移してもらっているところだし、そうすりゃ作業の仲間も快く頷いてくれたことだろう。
けど今いるここは。故郷とは違う、ミネオマルタの朝なのだ。
大切な日を、こっちの郷の理由で反故にはできなかった。郷にならえってやつだ。
あんな悪夢などは、早々に忘れてしまおう。
今日はようやく、気兼ねなく外に出られる日なのだから。
頬をピシャリと叩いて上体を起こし、天井から傍らの端由のテーブルへと目線を移した。
今日は大切な日。やらなくてはならない事がある、避けられぬ日。
とはいえ、私の気分はどうしても、重かった。
なんというか、思い出してしまうのだ。
昔、初等学校に通っていた頃の、憂鬱な気分を。
「行きたくねーなぁ……」
机の上に広げられた三つ折の書面には、目立つ文字でこう書かれている。
謹慎処分解除通知、と。
私の名前はロッカ=ウィルコークス。
魔術の大都会ミネオマルタにやってきて、今日で丁度一週間になる。
故郷の建築物とは平均階数がゆうに二つは離れているこの街で、私が色々なスケールの違う都会を満喫できていたかといえば、全くそんなことはない。慣れない環境での一週間は、とても長いものだった。
私の人生の中で五指に入るほどには、退屈な一週間を過ごしていたかもしれない。
しかし引っ越してきたばかりなので、部屋の中では全然やることがない。これならば勉強でもしていた方がまだマシだと思えるくらいには退屈な、地獄のような一週間だった。
理由は簡単だ。私はとある騒動がきっかけで、寮内での謹慎処分を受けたのである。
馬車に乗り込んできたこそ泥を殴っただけなんだけどな。
でも、あれはまず間違いなく誰だって殴る場面だっただろ。少しだけ反省した今の私でも確信している。
知らない国で、自分の生命線たる大荷物を目の前で持ってかれそうになっていたんだ。
その時の激情に身を任せた私を、一体誰が責められるってんだ。
大荷物の中の食料をもごもごと噛みながら、既に道中で読み古したミネオマルタの観光案内誌をぼんやり眺めたり。
持ち合わせのウエスとコピス油で、自室の燭台を磨いてみたり。
ジャケットにメルゲコの石鹸を擦りつけ、メンテナンスしてみたり。
一週間の謹慎期間中は、そんな風にのんびりと過ごしていた。
一分も座学を受けないままに缶詰になった学生寮。
しかしそこから解放されても、私の気は晴れていない。
私は今、通りの誰よりも早足で歩いている。
目指すは、遠くに一際高く聳える石造りの学び舎だ。
「初日から謹慎になる問題児なんだから、いっそのことバッサリ切り捨ててくれてりゃ良かったのに」
開店前の露店商に小さく愚痴を吐き捨てる。
日中になれば賑わっているこの通りも、夜明けの今は人も疎らで、大股でペース良く早歩きするには都合が良かった。
……が。私の気分は、歩調並みに快くはない。
「……どいつもこいつも、ジロジロ見やがって」
寮を出てからの短い道の間に、何度小さく舌打ちしたかもわからない。
不快。とにかく不快だ。
なんだってこの通りの奴らは、歩いているだけの私をこう、ジロジロと物珍しそうに見てくるのだろう。
露店の親父も、水運びの女も、老若男女問わず誰もが私に目を向けている。
けど、睨み返してやると目線を逸らす。一体何だ、アンタらは。
遠回しに“さっさと田舎に帰れ”と言われているかのようだ。
不快を通り越して、なんだか怖くなってきた。
私って、そんなに田舎者っぽいのかな。
……金持ちの国だ。
大方、貧しい出身の私を蔑んでいる。だいたいそんな所だろう。
私はこの国に詳しくないが、豊かな国であることだけは、最低限の教養として知っている。中途半端な知識でも、通りすがりの奴らの考えることには大方の予想がつくというものだ。
「私だって好きで来たわけじゃねえよ、こんな所」
苛立ちに荒くなる歩調は、高く括ったポニーテールを大きく揺らす。
視界を狭める朝の薄い霧は、元々きついらしい目つきを更に鋭くさせる。
荒んだ心は歩調を荒げ、タイルを踏むブーツの足音を大きくする。
私が音を強く一歩一歩と進むたびに、通りの奴らは蜘蛛を散らしたように端へと避けていく。
……一体私が何をしたってんだ。
土色に汚れた丈長のオイルジャケットの裾を翻し、割れた人波を突き進む。
僅かな油の臭さと仄かに残った炭鉱の煙い香りだけが、私に寄り添ってくれる優しい味方だ。
都会の奴らは田舎者ってだけで、野良犬を避けるように逃げて、そして遠目から眺めて馬鹿にしやがる。
ああ、本当に不愉快だ。こんな街。
そんなに怖がるくらいなら、しっかりこの姿を見ておけよ。
私はロッカ=ウィルコークス。
お前らの大嫌いな、正真正銘の田舎者だよ。
広い正門を通り、小川を跨ぐ短い石橋を渡る。
見晴らしの良い整った芝生の庭を早足で抜ける。すると、目的の建物前に到着した。
ずっと遠方からも見えていた石造りの学び舎を、今一度真下から見上げてみる。
「……でか」
総石造りの十階建てである。
全体の印象は、巨大な石像彫刻だ。
柱一つにも腕の立つ職人による精巧な彫刻があしらわれ、建造物というよりは、芸術品と呼ぶに相応しいように思えてしまう。
五つの棟には連絡橋が渡され合体しており、それらはひとつの巨大な建造物でもあった。
建物は至る所に魔金柱が埋め込まれており、頑丈さも十二分だ。
そんな威圧感のある学園が、私の前で壁のように聳え立っている。
美しい学び舎だ。
故郷の高いだけの火の見櫓とは、比べることもバカバカしくなる程である。
……いや。自分の人生を思い返してみれば、自分の記憶の中には、この街の建造物ひとつをとってみても、それに釣り合う程のまともな比較対象を持ち合わせていなかった。
私は虚しさにため息をついて、見上げて痛くなった首を鳴らしながら中へと踏み込んでいった。
「おはよう、早いですね」
「!」
不意に真横から声をかけられ、思わず肩を竦ませてしまった。
学園の棟に入ってすぐそこに居たのは、警備と事務を兼業しているのだろう、気の優しそうな老人であった。
「お、おはようございます」
「ええ、おはよう」
私が上ずった声で挨拶すると、老人は開いているのかわからないほど細い微笑んだような目で、優しく手元の書類を眺めながら挨拶を返してくれた。
私は書類を眺め続ける彼としばらく話すべきかと立ち止まっていたが、何も起こらない沈黙に耐え切れず、そそくさと中央階段を目指して小走りした。
目的の場所は人に聞かずともわかっている。一週間前にも一度だけ訪れた、学園長室だ。
「失礼します」
「ウィルコークス君だね、どうぞ、中へ」
指定された時間丁度に来たので、学園長はすぐに扉越しの返事をくれた。
“もしも居なかったら”、と無用な心配が解消された私はノックを忘れている事も気づかず、それでも気遣うようにゆっくりと、ノブを回した。
部屋では、柔らかそうな革のソファーに深く腰を下ろした中年の男性が、執務机とは別の応接机の上に書類を広げ、マグカップを啜って私を待っていた。
対面の席には、湯気をくゆらせる同じデザインのマグカップが置かれている。これは多分私の席で、私の分のカップなんだろう。
「コーヒーとどっちにしようかと迷ってね、けど既に朝一番で飲んでいたら悪いと思って、こっちを淹れておいた」
男はマグカップに口をつけながら、私を向かいのソファへ座るように促した。
私は半テンポ遅れたが、慣れない礼儀作法の基本を思い出しながら、とりあえず「失礼します」と頭を下げた。
オイルジャケットを脱いでソファーに腰掛けると、上品そうな、つまりこれっぽっちも慣れない香りが、一番に鼻をつく。まぁ、匂いは悪くないけど。
「さて、紅茶はどうだろう」
「ありがとう、ございます」
向かい側の学園長は得意げだったが、私にとっては外歩きで冷えた左手を温められればどちらでも良かった。
それに私は本来、もてなされる用件でここにいるわけではない。
差し出される善意に対して素直に喜ぶこともできなかった。
私が一口分飲むのを待ってから、学園長の男は話を始めた。
「では、まずはウィルコークス君、今日から君の謹慎は解けるわけだが」
「すみませんでした」
「不慮の事故……のようなものとはいえ、暴力が過剰だったらしいね。向こうが喋れなかったせいで取り調べも変に長引いてしまったらしい。災難だったね」
「すみません」
「なに、立場を排せるのであれば、私個人としては“よくやった”と褒めてあげたいくらいだよ。何にせよ、悪事を働く奴が悪いんだ」
学園長がニカリとほほ笑み、数枚の書類を仰いで見せる。
書類には、一週間前の荷馬車荒らしが逮捕された事件について、詳細に書かれているらしい。
中には私を擁護する文言も記されているだろう。が、内容はどうであれ、過ちといえば過ち。今更に、その時の事を振り返りたくはなかった。
……やり直せるものなら、腹を殴っておけばよかった。
「犯人はしばらく顎が使えない生活は続くだろうが、まぁリリの方でも悪名を馳せたタチの悪い犯罪グループだったらしいからね。因果応報ってやつだ、君が気にすることはない」
「……でも、警察の人からは注意されました」
「どんな風に?」
「……過剰暴力だ、って」
今回の件が過ちであると頭でわかってはいても、私自身は謹慎を受けた理由に納得出来ていない。
盗人に折檻を食らわせて、何が悪いというのだろうか。
警官に問いただされた時の事が、今でも頭の中で燻っている。
遠く離れた異国の地で、目の前で自分の全財産を引ったくられてみろってんだ。そりゃ、殴るだろうが。正義ぶりやがって。
……ってあいつらに言っておけばよかった、と後悔している。
やりきれなさに膝の上の右拳を握りしめると、ざらついた金属が擦れる音がした。
「ふっふふ、しかし警察も、どの口で言ってるのだかね。普段から向こうも変わらないことをしているのに」
学園長は歳の割に親しみやすく笑うのだが、まだ私自身は心開けない、小さな立場にある。私に対して親身な態度も何かあるのではないかと、つい疑ってしまうのだ。
私は今回の件で起こした失態については、あくまで申し訳なさそうに、こまめにマグカップに口付けるしかなかった。
謹慎について話が一段落した所で、学園長は資料を応接机の隅に追いやり、再び微笑みかけた。
話が変わる。
「ちょっとゴタゴタしてタイミングが遅れたが、ミネオマルタ国立理学学園“特異科”……入学おめでとう、ウィルコークス君」
「はい」
魔術が発展した島国、水の国。その首都に学び舎を構える、ミネオマルタ国立理学学園。
理学を修める者にとっての羨望の的。
将来が約束される場所。
歴史に残る数多の魔道士を輩出してきた、由緒正しい理学校。
「我が国の理学機関の双璧。その一端を担う者として、君は大いに誇っていい……これから自信を持って、街を歩きなさい」
「ありがとうございます」
こうして、一週間遅れではあるものの、私の入学が正式に決定した。
だけど本当は、すぐにでもこの学園と別れを告げ、故郷へ帰りたかったんだ。
“一週間前の騒動でそのまま入学取り消しになってしまえば良かったのに”と、この場で思うくらいには。