釜001 磨かれる輝石
一人の男が、闘技演習場の観覧席に座っていた。
壇上には誰もいない。
なので、観覧席にも、他には誰も座っていなかった。
第二棟の最上部で一人、黙々と硬いパンを食べる彼の名は、クライン=ユノボイド。
大抵の場合、在学は形だけと揶揄される特異科の学徒でありながら、彼は数多くの魔術を習得しており、実践に通用する戦術を網羅している。
学園の書物を読み漁り、導師と積極的に関わり、その上施設を最大まで利用する。
理学に対する異常な研究欲求と、それに引けをとらない魔術の腕前は、入学から数ヶ月のうちに学園全体に広がり、ついた二つ名が“名誉司書”。
属性科も、独性科も、誰が挑んでも彼には勝てず、例外なく分も掛からないうちに強制退場させられてしまう。
侮った相手を下し、侮った相手を下し……その結果生まれたものが、四十四戦四十四勝という、脅威の戦果。
たった一年少しの間に築かれたこの記録は在学者の中では最大のもので、未だに他者の追随を許していない。
ところがそんな彼は、絶対無敵の特異科学徒として畏れられると共に、同時に周囲から蔑まれる立場でもあった。
“特異科”、“出来損ないの旧貴族”、“高貴な紙魚”。
手も足も出ない強者に対して、弱者が使えるものはもはや、口先だけしか残されていなかったのだろう。
唯一の魔術的な劣等体質である“特異理質”。クラインのそれを集中的に突くことによって、敗北者達は溜飲を下げる他無かったのだ。
未だにクライン=ユノボイドは無敗である。
しかし、悪意ある人は、こう噂する。
“奴は火属性には勝てないのではないか”、と。
火属性魔術は、ただの炎を発生させるだけの魔術ではない。通常の炎とは原理が異なるのだ。
魔術の火は燃料を必要としないために、どのような場所にも張り付いて、燃え盛る。
なので炎は魔力が尽きるか、炎が故意に消されるまでその場に残り、高熱の影響を周囲に及ぼし続ける。つまり“環境”として場を支配し、術者以外の人間を拒むのだ。
環境として展開された魔術の火を消すためには、同じ魔術で対抗する他に手段は無い。
水で消火するか、同種の炎で対消滅を起こすか、鉄魔術で覆い被せて鎮火させるか、はたまた風や影の術で押し飛ばしたり吹き飛ばすか……。
対処法だけであれば様々な手段はあるものの、基本的に推奨されるのは水属性の魔術による消火だろう。
魔術の世界でも水と火の関係は健在で、環境支配能力の差もあり、水魔術は火魔術に対してかなり強い環境破壊効果を発揮する。
火を撒かれたならば、水を撒け。現実世界がそうであるように、理学的世界でも同じく、水は火を制する有効な手段なのだ。
しかし、クライン=ユノボイドは水魔術を使えない。
理由は単純明快。彼が“水がガラスになる”という特異理質を持っているためだ。
彼は様々な属性術の理学式を暗記しているが、水魔術は初等術ですらまともに発動させることはできない。
ただの“放水”でさえ、クラインの手にかかれば大きなガラスが生まれるばかりとなり、しかもそれは、一片が欠けただけであっけなく崩れ去ってしまう。
水魔術が使えない故に、クラインは火の魔術に対抗する手段が少ない。
連戦連勝を続けてきたクラインは当然、火属性魔道士とも戦っているのだが、しかしその誰もが実力を完全に発揮すること無く一瞬で敗北しているため、相手の火属性魔術を打ち破ったとは言い難かった。
学徒たちは予想する。
もしも、クライン=ユノボイドが火属性術を扱う魔道士と戦ったら。
しかもその相手が、火属性の実力者であったなら。
果たしてクラインは、その“天敵”に勝てるのだろうか、と。
クラインは連戦を重ね、今現在では飽きてしまったのか、得るもの無しと判断したのか、もう随分と闘技演習場の壇上に立っていない。
人はそれを、“火魔道士と戦いたくないから”と考えている。
闘えば負けるから。黒星を付けたくないから。
だからクラインは、“天敵”から逃げているのだ、と。
「クライン、こんな所にいたのね」
しかし。
だがしかし。口先だけでクラインを貶める彼らは、露とも知らない。
クライン=ユノボイドの“天敵”は、属性だの相性だの以前に、もっとわかりやすい形でこの世に存在していることを……。
「悪魔め」
「お姉さまと呼びなさい」
クラインのすぐ近くの床から、一人の女性が這い出てくる。
毛先が内側にカールした、母譲りの長い金髪。
人を知らない海のように澄んだ、父譲りの青い瞳。
クラインの姉、クリーム=ユノボイド。
彼女こそが、現状のクラインよりも遥かに強い存在であり、あらゆる面で彼の“天敵”と呼べる存在なのだった。
「失せろ」
「やあね。せっかく二人きりの時に話しかけてあげたのに。私だって、そのくらいの気遣いは出来るのよ?」
クラインは姉、クリームが嫌いだった。
それは彼の、歪みに歪んだ眉間やら口元やらを見れば、すぐにわかることだろう。
「何の用だ」
「私からの手紙を毎日ちゃんと読んでいれば、用なんてわかるはずでしょう?」
「火口としては優秀だな。だが封蝋は付けるな。燃えカスが残って邪魔になる」
クリームは額に青筋を浮かべかけたが、旧貴族として磨きに磨き続けた淑女の精神がそれを押さえ込んだ。
「……心配だったのよ? 地下水道の事件のこと」
「どうでも良いことだ」
「大事件だったじゃないの」
「興味は引かれないな」
クラインは強がる風でもなく、極々自然に答えてみせた。
同じ特異科のロッカ=ウィルコークスが悩み続けるこの問題も、彼にとっては本当に些細なものとしか感じられないのだろう。
そんな相変わらずな弟の態度にクリームは呆れたが、懸念はそればかりではない。
「あと、クライン。リゲルさんの光属性術の講義で、何度も倒れているんだって?」
「練習中だ。当然だろう」
「昔の拷問にも似たようなものはあったらしいけどね。けどクライン、あなたの無茶の回数は、ゆうにそれを上回っているわよ」
「貴族時代の魔道士が軟弱すぎるんだろう」
「強い弱いの話ではないの」
クリームは二つ分隣の椅子に座り、目尻を釣り上げて睨んだ。
「無茶の先に何があるの」
「強さだ」
「クライン、努力は必ず実を結ぶわ。けれど、誰もが同じ土壌で育っているわけではないのよ」
「リゲル=ゾディアトスに出来て、オレには出来ないと?」
今度はクラインの方も、目を細めて怒りを発露させた。
「……クライン。確かに貴方は優秀かもしれない。私よりもずっと多くの魔術を知っているもの。それは、口に出さなくても誰だって思っているはずよ。……それじゃあ駄目なの?」
「足りない」
「まだわからないの? クラインは、魔道士に向いていない。得意属性の無い貴方の土壌はもう、既に限界が訪れてる」
「まだだ」
「いいえ、頭打ちよ。魂の侵食を何度も起こさなきゃいけない時点で、それは滑稽すぎる強がりというものだわ」
辛辣な言葉にクラインが奥歯を噛みしめる。
「……早く、研究の方に移りなさい。自分でも気付いているはずよ。クラインが本当に向いているのは、魔道士なんかじゃないって」
「貴様がッ、貴様がそれをッ……!」
クラインが叫ぶ間に、クリームの姿は空中の影へと消えていた。
影魔術による転移の寸前、わずかに見えた姉の横顔は、どこか悲しみを抱くような、弱々しいものだった。
クラインは、姉との闘いでそのような表情を見たことがない。
クリームが困ったような、悲しいような表情を見せる時は、いつでも決まって、彼が属性術を学ぼうと、努力する時である。
クラインにはそれが、より一層腹立たしかった。
「……クソッ! なんでオレがっ!」
観覧席の手摺を蹴る大きな金属音は、闘技演習場に虚しく響き、誰に聞かれることもなく消えていった。




