盥018 回る車輪
斜に立ち並ぶツララの森。
足下を浸す魔力の水。
水と氷の世界で、ナタリーとミスイが死闘を繰り広げている。
滝のような勢いで噴き出す水流が、ツララを巻き込みながらあちこちを駆け巡る。
全身に鎧を着込んだナタリーは、常人離れした勢いでツララの森を飛び回りながら、襲い来る水を軽やかに避けていた。
だが、ナタリーも避けるばかりではない。彼女は攻撃にせよ、回避にせよ、六回までという区切りを持っているのだ。
逃げに徹していても埒が明かないことを知っているナタリーは、絶望的な状況ながらも果敢に攻める。
「死ねオラァッ!」
「“キュア・ラヒル・ケイジ”」
しかし、水は豊富に満ちている。
ナタリーの渾身の矛先は、ミスイへ届かない。
「“スティグマ・スティ・レット”ォ!」
「“クロウズ・クラムコイザ”」
多段階的な動きを見せるパイクの強烈な刺突でさえも、ネタが割れてしまったためか、今ではほとんど有効打を与えられていない。
氷壁にパイクを突き立てても、ミスイは空けられたヒビや穴を氷で再び埋め固めることで、二度目の強烈な刺突を難なく防いでしまうのだ。
「ぎィ、また……」
「“コイズ・ガミル”」
「!」
そして防がれた後は逆に、防戦一方。
ナタリーの足下から水流が噴き出し、彼女が避ける間もなく直撃する。
比較的弱い術である事と、重い鎧とパイクのおかげで、身体が派手に浮き上がる事こそなかったが、軋んだ鎧はそれなりの衝撃を内側の中身に与えている。
何より、ナタリーの身体を覆うそれは鎧とはいえ、魔術によって作られた生成物だ。
潮風が鉄を蝕むように、じわりじわりと、装甲は損傷の度合いを強めてゆく。
「“キュライア・ラギレルテル”」
「ぐっ!?」
冷気の風が氷壁を迂回して吹き荒び、ナタリーの右肩に直撃した。
鎧の肩を濡らしていた水分は鋭い結晶となって成長し、ナタリーの鎧の一部を凍りづけにしたまま砕き割る。
「少し、薄着になりましたね」
「クソ野郎、やりやがったな」
ナタリーの鎧が、また欠損した。
今度は右肩の装甲だ。これで右肩と左肩の装甲が消えたことになり、鎧の防御能力がかなり弱まったことになる。
「その鎧……背中の強い推進力を、武器を握る手先まで伝える役割があるようですが」
「……テメェ、それを見破ってたか」
「両肩の装甲が無いと、もうその利用もできないかもしれませんね」
「……」
しばらくの沈黙の後、ナタリーがそろりそろりと後ろに歩き、ミスイから距離を取り始めた。
それまでの、急接近からの一撃を狙った戦法とは真逆を行く動きに、私だけでなく、会場全体が訝しむような唸りを上げた。
「……ナタリー、なんで距離を取ってるんだろ」
「魔杖騎士団の鎧の問題だろう」
「えっ?」
私は事情を知ってる風なクラインを見やり、続きを求めた。
けれど、それに気付いたらしいクラインは、ものすごく嫌そうな顔を私に向けた後、またすぐに壇上へと目線を戻す。
「君が相手だと、解説する間に試合が終わってしまいそうだ」
「……ぐっ……そうかい」
クラインは何も語ってくれなかったけど、とりあえず、ナタリーが接近戦に入れない状態にあるらしいことだけは伝わってきた。
「近づくメリットも無くなった以上、距離を取るのは懸命な判断です……けれど、愚かですね。中、遠距離は、私の得意な間合いなのに」
二人の間に距離が生まれると、今度はミスイの一方的な攻撃が開始された。
黒いロッドを静かに傾けて、遠距離のナタリーへ、水流魔術や氷結魔術を、ほとんど休みなく放っている。
宙に放り投げられた水弾や、尖った氷の礫達が、動きの悪いナタリーを容赦なく襲う。
小さなものはナタリーの鎧によってある程度まで防げるものの、巨大な水や氷に対しては、魔術やパイクで防ぐ他に手段が無いようだ。
鉄板で水から身を守ったり、中サイズの氷はパイクで迎撃したりと、その対処能力は目を見張るほど高度なものなんだけど、防戦一方であることには変わりない。
運の悪い一撃がすり抜けるのも、時間の問題だったのだ。
「がッ……ってえ……な、このっ、クソ女ッ!」
ついに、飛来する巨大な氷の塊はナタリーのヘルムに直撃し、彼女の顔が外気に晒される。
臥来系の混じり無い白髪の一部は、赤く染まっていた。
「あら……その様子だと、そろそろ降参を」
「“スティ・ヘル・レット”」
ミスイが何か喋っていたが、その隙にと、ナタリーが背中の棘を補充したらしい。
一瞬だけ余裕の笑みを浮かべていたミスイは、言葉を交わすつもりのないナタリーの態度に、すぐに冷めたような顔に戻った。
「……はあ、やるんですね。どうしても」
ナタリーは無言だった。
無言でパイクの車輪をずらし、ミスイへと矛先を整える。
「まあ、良いですけどね。私もその方が――」
「ありがとな、余裕ぶっこいてくれてよ」
「――は?」
「ま、そういうこった」
ナタリーの姿勢が低く落とされる。
きっと観覧席の皆は、既に二人の決闘の行く末がおぼろげに見えていた。
だから彼らは、ナタリーがいくら再び矛を構えようとも歓声を上げなかった。
何度でも立ち向かう姿には、むしろ呆れていたのかもしれない。
退屈さが射し始めた闘いに目をそむけた奴らが、何人かいたことだろう。
けど、その瞬間を私はしっかりと見ていた。
余裕ぶっこいて目を離していた奴は、ざまあみろだ。
「“スティグマ・ステルス・スティ・レット”」
ナタリーの背の棘のうち、四本が光を帯びて、その凝縮された力を解き放つ。
一本の棘ですら分厚い氷の壁を破砕する威力を秘めているのに、それを一度に四本だ。
そのエネルギーは、パイクの車輪を馬車以上の速度と馬力で回し、ナタリーの身体を前へと“吹っ飛ばす”。
「な――」
ナタリーは、ツララや氷片があちこちに散らばる床の中で、斜めに傾いた分厚い氷壁の存在を知っていた。“キュア・ラヒル・ケイジ”の防御が産んだ、巨大な一枚氷である。
それは丁度、ナタリーの側からは急な坂となっており、勢いさえあれば、駆け上るのには都合の良い傾斜だったのである。
ナタリーは坂を駆け上がり、そして、高く飛び上がった。
パイクと共に高く跳び上がったナタリー。
付け根に備わった車輪は轟音を立てて回転し、着地点のミスイを威嚇しているかのようだ。
宙を舞うナタリーに、観覧席は大きくどよめいた。
けど、きっとそれが長く続くことはないだろう。
ほんの僅かな滞空時間の後に、二人の勝負は決するであろうから。
宙に浮かび上がったナタリーを、ミスイは驚きの表情で見上げている。
これで呆けていたなら、決着の色ははっきりしていただろう。しかし、戦闘に臨む心構えを放棄しきるほど、ミスイは油断しきっていなかったらしい。
「小癪」
それでも、ナタリーは上。
水魔術は、生成物を行使するものでありながら、投擲距離に難がある。何より真上への攻撃が難しい属性術なのだ。
水を相手の頭上から落とすだけならば、その重さによる強い衝撃も与えられるし、それだけで中級保護に決着を付ける程度の威力はある。
けれど、上から落ちてくる相手に対して下からぶつけても、それはよほどの威力でない限りは、丁度良い水のクッションにしかならないのだ。
しかも、その間に上からのナタリーが、何もしないとは限らない。
有効打を狙うばかりに、それまでの防御を疎かにしては本末転倒だ。
つまり、水魔術使いは上を取られてしまうと、攻撃に移れず、後手に回るしかないと言える。
簡単には対処できない懐まで、入られてしまった。
与えられた時間の短さと窮地に、ミスイは“不覚だ”とでも思っているのか、唇を強く噛んだ。
「決めンぜ」
遥か上を取ったナタリーは下のミスイに対し、猛廻天するパイクの矛先ではなく、車輪を向けた。
回転する車輪。狙いを付けるような鋭い目。
ミスイは本能的に悪寒を感じ取った。
「まずい……!」
「“スティグマ・スティ・レット”!」
詠唱の終わりに、ナタリーの口角が釣り上がる。
車輪が輝き、それが推進力そのものへと変換され切ってしまった後では、ミスイの無詠唱による防御も無意味だったのだろう。
「いっ……!」
車輪がエネルギーとなり、周りに備わった二十四本のスパイクが、同時に撃ち出された。
無数に射出された小さなトゲは広範囲に飛び散って、壇上にいくつかの細い砂煙を上げる。
ミスイに狙いを澄ました何本かは、咄嗟に振るわれた水の鞭によって退けられた。が、運悪く迎撃し損ねた一本はすり抜けて、ミスイの肩を刺したようだ。
痛みのためか、ミスイは黒いロッドを手放して、石壇の上に落としてしまった。魔道士としては致命的なミスである。
「野蛮人ッ……!」
「ヒャハッ!」
記念すべき、この闘いにおいて初めての、ナタリーからの一矢だ。
ナタリーは嗤い、ミスイは睨む。
巨大なパイクの矛先が、今度こそミスイに向けられる。
かなりの高さからの、斜めからの落下。車輪によって勢いのついたナタリーの身体は、落下すればタダでは済まないだろう。
それこそ、以前私が彼女を高所から落としたように、その衝撃だけで試合の決着を付けるに至るかもしれない。
けど、ナタリーはパイクを構えている。
そのまま、いくつもりなのだ。自分の脚とか、着地とか、そんなことは一切、考えていない。
きっと、ナタリーはこう考えている。
“自分より先に、相手を倒せればそれでいい”、と。
“勝てばいいのだ”、と。
貪欲に勝ちに拘るナタリーらしい戦法だ。
乱暴で、横暴で、だけど、自分の身体を張って、無理矢理にでも貫こうとする。
やろうと思えばできるはずの身体強化を抑え、高所からその力のままに落下することが、どれほど恐ろしいか。
だが、ナタリーにはそれができる。彼女なら、やってしまえるのだ。
たとえ、そのパイクを貫いた勝利の先に、壮絶な痛みが待ち構えようとも。
「――貴女なんて、見たくもない」
肩を押さえるミスイにパイクが迫る一瞬、二人の間に青白い魔光が瞬いた。
次の瞬間、勝負を決するパイクの矛先が勢い良く“着弾”し――。
ミスイの頬を掠め、後ろの石壇を深々と貫いた。
「え……」
勝利を称える歓声がすぐに力を失い、闘技演習場に沈黙が訪れる。
黙りこむ静けさと、疑問を隣の人間に訊ねるぼそぼそといった声だけが、つい先程まで騒がしかった会場を支配する。
壇上は、静かだった。
いや、静かすぎた。
だって、そこにナタリーがいないから。
そこに立っていたのは、ミスイ、ただ一人だったから。
「勝者、“冷徹のミスイ”!」
審判役の導師の声が、高らかに響き渡る。
同時に、興奮にお預けを食らっていた観客たちが、雄叫びのような祝福を轟かせる。
ただ、何の理解も追いついていない私にとって、その決着や声援はあまりにも虚しく、現実感がない。
何故、どうしてと二つ隣のソーニャを見れば、私と同じような、何があったのだろうという、腑に落ちない表情を浮かべていた。
次に私が辺りを見回せば、確かに壮絶な闘いの決着に観客は興奮しているのだが、それはただ、ナタリーという名の暴君が敗北したという結果に反応しているようで、敗北の理由までには、理解が追い付いていないような雰囲気が見て取れる。
上がる声は、“ざまあみろ”。“これが水だ”。“水の国だ”。
派閥と、私怨と、よくわからない、たぶん、湿っぽい感情ばかりの、なまっちょろい心の遠吠えばかり。
「……そうだ、ナタリーは!?」
こうしている場合じゃない。
何が起きたのかはわからないけど、壇上にはナタリーがおらず、ミスイがいる。
導師さんはこの勝負の決着を、ミスイの勝利と判断した。
つまり、ナタリーが負けた。じゃあナタリーは一体、どうなったんだ。
「え、ええっと、負けたんだから、救護室に転送されているはずよ!」
「行かなきゃ!」
「そ、そうね……!」
「何故わざわざ君たちが行くんだ」
「うっせえよ!」
「ぐっ」
私は今ですらすまし顔のクラインの胸ぐらを掴み、無理矢理に立たせた。
引き寄せて、何もわかっていない血の気の薄そうな本の虫の顔を、思い切り睨みつける。
「何を、する」
「いいから、来いよ! アンタも!」
「意味が……」
「意味なんて訊くんじゃねえよ! 天才だろうが!」
「ロッカ、とにかく今は、急いで救護室に!」
クラインの、人の感情をわかっていないような顔が、今この時ばかりは、許せなかった。
短絡的だ。理論も糞もない。わかってる。けど、私は怒りをぶちまけるしかなかったのだ。
何故、どうして、ナタリーが負けたのか。ナタリーはどうなったのか。一瞬後で勝つはずだった彼女が、どうして負けたのか。その理由が、何も理解できなかったから。
そのモヤモヤと納得の行かなさを、咄嗟に彼にぶつけてしまったのかもしれない。
「……急ごう!」
私はオイルジャケットの裾を翻して、脚に魔力を込めて、救護室を目指した。
負けたとしたら、彼女はそこにいるはずなのだ。




