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打ち砕くロッカ   作者: ジェームズ・リッチマン
第八章 聳える氷壁

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櫃010 書かれる罵倒

 ついにボウマがやりやがった。

 いや、ボウマだけが悪いわけじゃない。ボウマをからかった私も悪い。

 お互いに非があったからこそ、今回の事故が起こったのだ。


 ボウマが私の下げ髪をパシパシとはたき、私はお返しにボウマの前髪を捲り上げようと手を伸ばした。

 それを防がれ、くぐり抜け、守り、払い、攻め、そうこうしているうちにどんどんエスカレートして、串焼きの皿が宙を舞い、私の頭にひっくり返ったのである。

 これは、不幸な事故。そうとしか言いようが無かったのだ。

 皿の上にたっぷり溜まった塩ダレが私の頭に流れた瞬間、思わずボウマの脳天に手刀を叩き込んでしまったが、それも事故だ、仕方ない。私を責めちゃいけない。


「うーん」


 そんなことがあってから、次の日の朝。

 昨日、共同浴場で念入りに洗ったはずの髪は、まだどことなく美味しそうな匂いがする。

 歩けばほのかに漂う、高級串焼きのタレの香り。

 嫌だそんな女。


「畜生め……」


 まぁ、肉食ってるのはいつもの事だから、もしかすると普段と変わらないのかもしれないけど……。

 今日はちょっと、オイルジャケットに沢山石鹸を摺り込んでから学園に向かうとしよう。


 メルークの石鹸の香りにも慣れてきちゃったなぁ……。

 もちろん、メルゲコの石鹸を諦めたわけではないけれど。




 いつもと違うブーツに、いつもと違う石鹸の香り。あと、髪。

 今日の私は、上から下まで違うもの揃いだ。

 物が無かったり、変な物を被ったり、とにかく、慣れ親しんだ日常らしい状態ではない。


 けど、こうして降りてゆく寮の階段や、踊り場から見下ろせる市場の一角の騒がしさなどは、何も変わらない。

 古代都市ミネオマルタは、積み重なった私の些細な不幸を乗せながら、今日もゆったりと活動を続けている。


 薄い霧にぼかされた、灰色の遠景。

 今にも泣き出しそうな、広大な曇り空。


 今日もまたここで、私の日常が始まるのだ。




 市場を通り、正門をくぐる。

 庭園の石畳を歩き、石橋を渡り、第五棟へ。


 長ったらしい石階段を登り、窓から朝陽を浴びながら、私は鼻息混じりの上機嫌で、特異科の講義室に辿り着いた。


「おはよ……」


 戸を開き、いつもの講義室に一歩踏み入れて、そして私は固まった。


『……うむ、おはよう、ロッカ』

「あ、ロッカ……」

「……え?」


 ライカンとボウマが、講義室の黒板に向かって立ち竦んでいる。

 黒板には、でかでかと“共犯者”という文字が、鋭いタッチで書かれていた。


「なんだ、これ」


 講義室の雰囲気が、いつもと違う。静かで、どこかピリピリとしている。

 いつも机に突っ伏して眠っているはずの学徒たちも顔を上げて、困惑気味な視線を黒板や私達に注いでいる。


 共犯者。

 その尖った単語が悪意ある暴言であることは、すぐにわかった。

 そして、それがソーニャ個人に向けたものであるということも。


「……」


 朝来たら、黒板に書いてあった。ここにいる誰もが皆、そんな顔をしていた。

 けど、私はここで、叫ばずにはいられない。


「誰だ!」


 右手を最大まで強化して、強く握りしめる。

 私の拳は硬い金属音を打ち鳴らし、着席する学徒らの肩を一瞬で脅かした。


 私の剣幕に、誰もが驚いている。けど、自らにむけたものだとして、心の底から恐れている人はいないようだ。

 この中には、犯人が居ないのだろう。

 それでも私の怒りは、どうにもここでじっとしていられなかった。


「誰が、これを書いたんだよッ!」


 特異科が特異科を貶めるなんて、そんなことはしない。

 このクラスには怒らせると怖い人間がいる。それを間近で見ていて、ちょっかいを出そうなんて思う輩はいないはずだ。


 “共犯者”。

 確実にソーニャ個人へと宛てた、凶悪極まりない暴言。中傷。

 特異科は、ソーニャと私が仲が良い事を知っている。私の短気も知っている。その上でこれを書いたってンなら、そりゃあ褒められた勇気だ。

 けどここにそんな勇者はいない。


 じゃあ誰だ。こんな胸糞悪いもんを書きなぐった馬鹿野郎は、どこにいやがるんだ。


『ロッカ、落ち着け』

「ああ!?」


 私は何も思っていないかのように静かなライカンを、思い切り睨みつけた。

 しかしライカンは全く動じることなく、腕を組んだまま俯き、眼光を弱める。


『気を噴き出すな。そうやって感情のままに魔力を使うのは危険だぞ』

「……」

『深呼吸だ』

「……すー」


 視界が怒りのあまり真っ赤に染まりかけていたが、なんとかライカンの言葉を聞き入れて、意味を考えて、実行に移す。

 息を吸い、息を吐く。

 燃えかかった熱い吐息を体の外に。朝の冷たい空気を肺の中に。


「……ふう」

『落ち着いたか?』

「うん」

『よし』


 先ほどまでのままだったら、ムシャクシャしたまま廊下に飛び出して、“誰がやった”などと喚きながら学園内を練り歩いていたかもしれない。

 塩ダレの香りを漂わせながら恥をかかずに済んだわけだ。


「あたしも、最初見た時はロッカみたいになりそうだったじぇ。これ、許せねーよなぁ」

『ボウマ、お前はしっかり怒りを爆発させてただろう』

「てへ」


 どうやら私が来る前に、既にボウマが同じような反応をしたらしい。


「……じゃあ、みんなが来る前から、これは黒板に?」

『うむ。ひと通りここの皆にも聞いたが、やはり最初から書いてあったそうだ』

「……」


 じゃあ、犯人は他の学科のやつら、ってことか。

 まぁ、自然とそうなるだろうな。こんな陰湿なものを書くのは、他の学科の根性が捻くれた優等生の仕業に違いない。


 ナタリーの予言が、嫌な形で当たってしまった。

 ソーニャへの陰口は、より直接的な、ソーニャへの攻撃として、現実のものとなったのだ。


 講義室にはまだ、ソーニャの姿はない。


「……って、おいおい……」


 よく見たらいつもの最後尾の席では、クラインが本を読んでいた。

 こんな時にまであいつは平常運行かよ。


「まぁ、いいけどさ……」


 いや、クラインはこの際どうだっていい。

 とにかく、許しちゃおけねえ事が起こったってのが、揺るぎない事実なのだ。




 その後すぐに、何も知らない風なあくびをしながら、ソーニャが講義室に入ってきた。


「おはよー……ん」


 あ、と思った時にはもう遅い。

 デカデカと書かれた文字をどうこうする前に、ソーニャの目線はしっかりと黒板に向けられてしまった。


 けど、彼女の反応は薄い。

 ソーニャは無感情にじっと黒板を見た後、特に何を言うわけでもなく、自分の席へと直行して、眠そうな顔でぼーっと座ったのだ。


「あの、ソーニャ……」

「何?」

「え、いや、これ……」

「誰かの悪戯でしょ? 別に、気にするほどのことでもないわ」


 ソーニャに嘘をついている様子などは微塵もない。

 私の憤りが全て空回りであったかのような余裕っぷりだ。


「それより、早く着席しておきなさいよ。黒板のソレをどうこうするのは、マコ先生に見てもらってからの方が早いんだから」

「そ、そうだな……うん」


 書かれたであろうソーニャ本人が一番冷静とは……。

 こりゃ、本当にさっき講義室を飛び出さなくて正解だったな。これで私が沙汰でも起こしてたら、恥ずかしいどころか、ソーニャの迷惑になっていたかもしれない。


 中傷的な文字をそのまま残しておくのはどうかとも思ったが、これも大事な証拠である。

 私達はマコ導師がやってくるまで、その場で静かに待機することにした。




「だ、だれがこんなことをー!」


 怒りに声を張り上げても普段通りの声な辺り、マコ導師はマコ導師だった。


『せ、先生、落ち着いてください』

「落ち着いてられませんよ!」


 私より怒ってーら。

 しかし悲しいかな、威圧感は皆無である。男なのに。導師なのに。


「こ、これは許せません! ミネオマルタの学園で、とてもあってはならないことです!」


 マコ導師はぷりぷりと怒ったまま、教卓の引き出しから一枚の札を取り出し、それに何かを書き殴ってゆく。

 サラッとそれを済ませると、今度は札を講義室の角の柱に据えられた金具の隙間に差し込んで、


「“キュート(放水)!”」


 小さな金属の口に、突然術を注ぎ込んだ。


「うおお……!」


 講義室の壁から、勢い良く水が流れる音が木霊する。

 壁や、柱の中を無数に通っているという学園の水路が、大量の水によって唸り声を上げているのだ。

 ある程度その音が静かになると、マコ導師は怒りをそこに流してしまったかのような笑顔で、こう言った。


「これでもう大丈夫です! さあ、講義を始めましょう!」


 一体何が大丈夫だというのか。




「ああ、それはきっと、第一棟に緊急通知書を送ったんだと思うよ」

「緊急通知書?」


 一限目が終わると、途中から講義室にやってきたヒューゴが私の疑問に答えてくれた。


「講義室の隅のあの配管は、豊富な水流で、直接中央棟と繋がっているんだ。札も数分後には、中央棟一階のポストに届いているはずだよ」

「へー、すごいな……」


 水を各階層に分配するシステム自体で既にすごいのに、それ以上の機能まで持っているとは。

 学園の設備の充実っぷりは、まだまだ私の知らない場所にも、沢山ありそうである。


『心優しいマコ先生のことだ。ソーニャの件の報告を急ぎつつも、俺達への講義を休むわけにはいくまいと、こうした手段を取ったのだろう』

「別にあたしら講義しなくてもいいのになぁー」

「そりゃボウマ、お前は寝てるからな」


 自分の学徒への中傷に怒り心頭になりながらも、ひどく短絡的な手段を選ばない辺りが、さすが導師といったところか。


 マコ導師は講義室に入るなり、黒板をひと目見ただけで激昂した。

 それがソーニャへの中傷だとわかっていたのだ。

 “犯罪者”とソーニャ、これは、事件について少しなりとも噂や捜査状況を耳に入れていなければ、結びつきようのない二つである。

 マコ導師は普段からぽわわんとしてはいるけど、しっかり見るべきところは、隙なく見ていてくれているのだろう。そう思うと、今更マコ導師の存在が心強く感じられた。


「ソーニャ、大丈夫だからね」

「別に最初から何も心配してないけど……まぁ、ありがと」


 マコ導師が言っていた通り、ここは水の国の理学機関の最高峰、ミネオマルタ国立理学学園だ。

 そんな人類の叡智が集うような学園で、低レベルな人の諍いに悩まされるなんて、あってはならないことである。

 最近のソーニャへの陰口を含め、事態は早急に、収束していって欲しいものである。




 心を入れ替えて二限目の講義に取り組んだつもりだったが、難しいものは難しい。

 ソーニャへの心配は大分無くなったつもりでいたけど、これはそういう問題ではなく、私の頭の出来の悪さによるものだ。

 私は風紀の悪さを嘆くより、自分の成績の悪さを嘆いたほうが良さそうである。

 わりと深刻な反省を抱きつつ、二時限目、今日最後の講義は終わったのだった。


「んー……」


 昨日はソーニャと一緒に居られなかったので、今日の私はなんとなく、そのまますぐに帰る気にはなれなかった。

 とりあえず二時限を引っ張ったまま、板書を見て悩み、睡眠から目覚めたソーニャに声を掛けられたら、一緒に帰るつもりである。

 マコ導師が何らかの対策をしてくれているとはいえ、今日のようなことがあっては、ソーニャを一人にはしておけない。

 学園近くでは常にソーニャと共に行動し、近づく不届き者は目線だけで射抜き、爆殺する覚悟だ。


 ……しかしこの時間つぶしの数学が、難しいこと。

 平時ならとっくに匙をぶんなげているくらい、私の頭はこんがらがっていた。


「なぁクライン、ここって掛ける方を先にやるんだっけー?」


 私は思わず、右隣の男に救いの手を求めた。


「そのくらいの簡単な問題、自分で答えを出せばいいだろう」

「え」


 が、その手は無慈悲に振り払われた。


「全く、これだから……」


 そして、クラインは大量の本を抱えて去っていった。


「……なんだよ、やけに冷たいな」


 クラインにはいつもあんな風な対応をされているはずなのに、何故だか今日の彼の態度には、日頃のものとは違うそっけなさを感じた。


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