櫃009 恵まれる果実
ロッカが昼食のために食堂へと向かった後、ソーニャは数十分もの間、ずっと講義室の窓の外を眺め続けていた。
その退屈な時間は、彼女の特別な趣味や癖というわけではない。
一食分の時間さえ潰せればいいという考えの下、ソーニャは緩やかな昼をやり過ごしているだけなのだ。
ミネオマルタの曇り空は相変わらず健在で、王室のカーペットのように隙間なく敷き詰められている。
今日はもう、空に晴れ間が覗くことはないだろう。
「……さすがに暇ね」
青空にちぎれ雲の一つでも浮かんでいれば、気も紛れたかもしれない。
果てしなく平坦な空は、ソーニャの痺れを切らせるのに十分な退屈さがあった。
彼女は、ロッカが串焼きの二本目に手を出そうかという時に、ようやく講義室を後にしたのである。
ソーニャ=エスペタルは、見た目麗しい女子学徒だ。
端正な顔立ちと豊かな体型。それを飾る都会的なお洒落な服。
ローブやケープといった野暮ったい装いの多い学園内では、彼女の垢抜けた姿と美しい容姿はとても目立つ。
学科の知れない美しい女子学徒が学園にいるというのは前々からの評判であり、最近になるまでは、ソーニャの名前すら知らない学徒も多かった。
しかし、地下水道の事件をきっかけに、ソーニャの容姿と名前は、多くの学徒たちの間で結びつけられることになる。
不穏な疑惑を板挟みにして。
「ああ、あれが……」
廊下を歩くソーニャの耳に、誰かの声が聞こえてきた。
わざと小さく抑えた声は、それだけで自分への言葉であることを教えてくれる分、面と向かって言われる以上に直接的だ。
それでも、ソーニャは努めて聞こえない振りに徹する。
視線を泳がせることも、顔を沈めることもしない。彼女は堂々と、廊下を歩いてゆく。
視線を、声をかき分けながら、しっかり足を踏みしめて。
「発表会も近づいているのに、余計な事を……」
「少し綺麗だからって……」
「最近あの破壊神と仲の良い……」
「危険な組織と絡んでいるんじゃ……」
彼女の歩調は緩まない。
誰に罵られようとも、謗られようとも。
そのようなことで挫ける心は、三年前に捨てたのだから。
「犯罪者……」
「評判を落とすな……」
腰まで水に浸かり、汚泥まみれになりながら妹を捜し続けた三年前の、通りすがりに“諦めろ”と言いたげな人々の冷め切った目に比べれば、このような陰口。
己だけが悪く言われるだけの陰口などは、ソーニャの心にチクリとも響かないのだ。
「あの田舎者と一緒に故郷に帰ればいいのに……」
「……!」
しかし自分以外の、特に親しい友人が標的にされることだけは我慢ならなかったのか、ソーニャの確かな足取りは突発的な怒りに歪み、もつれた。
ソーニャが衆目の前で、何もない場所でよろける姿を晒しかけた、その時である。
「おーいぃ、なぁに調子乗っちゃってるのよん、雷専攻の欄外魔道士ちゃんがさぁー」
トーンを一切落とさない目立つ声が、広い廊下の中ではよく響いた。
遠巻きにソーニャを眺めながら陰口を交わしていた学徒のグループに、一人の女子学徒が割って入ったのである。
そして学徒達はその声の主を知っているため、自分は関わるまいと、堅く口を閉ざした。
同情すべきは、直接その女子学徒に睨まれたグループだ。
「な、なによ……」
「いやー、なんかねぇ? “成績優秀なワタクシを厄介事に巻き込むのはやめてくださらないカシラ”、なんて言葉が聞こえたもんだからさぁー、おかしくってねぇー……」
「それが、どうしたって……」
「テメーのどこが優秀なんだって話だよ、わかんねーのかクズ」
「ひっ……」
「弱っちい奴が調子に乗ってる姿ってさあ、見ててイライラすんだよねぇ」
大げさなほど騒がしい白髪の女子学徒を見たソーニャは、周りに気付かれないように小さく笑い、素早くその場を後にした。
「あら」
「ん」
そんな彼女が廊下でクラインと遭遇したのは、騒ぎから数分後の事である。
「なんだ、今日は随分と賑やかだな」
属性科の講義室で、廊下の喧騒を耳にしたイズヴェルが呟いた。
「発表会も近いのです。気が立っているんでしょう」
「そういうものかな」
属性科三年の優等生、ミスイとイズヴェル。
手早く出来合いの昼食を食べ終わった二人は、光属性術の理学式の模写を机に広げ、一緒にそれを眺めていた。
ミスイとイズヴェルは、自らが得意とする魔術属性は既に分かっているし、それが自らの生涯で最も密接に関わってゆくであろう事も、確信している。
それでも二人が新たな属性術に興味を示しているのは、余裕があるからに他ならない。
自身の得意属性をほとんど極めた二人にとって、お互いのスタートラインを同じくする光属性術の勉強は、共に暇を潰すための丁度良い切っ掛けだったのだ。
「私があなたに負けたのは、あの時は……!」
「うっせぇな。負けは負けだろうが雑魚」
外野の声に集中を切らしたイズヴェルが、式の模写を鞄に仕舞う。
今日の光属性術の復習は、これで終了だ。
「ふーん……属性科の発表なんて、結局は、これまでの闘技演習の結果だろう。今更戦績を消せるわけでもないのに、どうして今頃焦るんだろうな」
イズヴェルは呆れながら、つぶやく。
騒がしいのは、実は今しがた騒ぎがあったばかりの廊下だけではない。
今二人がいるこの講義室にも、何人かの学徒が魔導書を読みながら、互いに意見を交換していた。
「無力だからこそ、焦っておきたいんですよ」
「無力だから?」
イズヴェルは目を瞬いて、ミスイは目を細める。
「答えが既に出ていても、それを認められないから……だからああやって、苦しげに足掻いているんです。答えが変わらないと理解していても、がむしゃらに足掻くうちには、それを忘れられるのでしょう」
「ふーむ……」
廊下の外で、言い負かされた雷専攻の女子学徒が、涙を流しながら早足に歩き去るのが見えた。
哀れな敗者。そんな言葉が、眺めるミスイの頭に浮かぶ。
「自分が弱いとわかっているなら、大人しく認めるべきだよな」
「ええ、その通りですよ、イズヴェル。積み重ねを怠ってきた人間に、好機が訪れるわけはありません」
この属性科の講義室の中でさえも、才能の差は顕著に見られる。
同じAクラスだからといって、力量まで完全に均一化されているとは限らない。
ミスイは、努力を続けた者には力が宿る事を知っている。
そして、才能の無い人間は、努力をしたところで結局、報われないという事も。
「あ……」
窓の外に、木箱を抱えて運ぶクラインの姿が横切った。
「ミスイ? どうしたんだい」
「すみません、少し、用事がありまして」
ミスイは首を傾げるイズヴェルに手を振り、急いで講義室を後にした。
「ねえ、クライン」
ソーニャは、前から歩いてくる猫背の男に声をかけた。
男、クラインは抱えた木箱の脇から顔を覗かせてソーニャの姿を認めると、“ああ”と呟き、目を細める。
「オレはクラインだが、それがどうした」
「少し、突っかかるような言い方ね」
「君から話しかけられる理由がない」
「まぁ、いいけどさ」
クラインは足止めを食らった事に対して、一秒ごとに小さな苛立ちを募らせているようだった。
両手に持った木箱の重さはさほどでは無いにせよ、持ったまま無意味に棒立ちするのは、いい気分では無いのだろう。
クラインの未知数な短気に触れてしまう前に、ソーニャは用件を尋ねることにした。
「あなたのその様子だと、昼食会はもう終わったのかしら」
「ついさっきな」
「じゃあ、ロッカはどこに行ったかわかる? 探してるんだけど……」
「あの馬鹿なら、髪についた塩ダレを落とすために共同浴場に行ったところだが」
「……え?」
ソーニャには、クラインの言ったことの意味がよくわからなかった。
突拍子もない単語の組み合わせが飛び出してきたので、頭が対応しきれなかったのである。
「ボウマが悪ふざけをしているうちに、焼串の皿をひっくり返してな。それが見事に、ウィルコークス君の頭頂部に落ちてしまったというわけだ」
「えええ……何それ、どんなひっくり返し方よそれ……」
皿がひっくり返って頭に落ちる。
奇想天外な現象が起こったのであろうことは想像できるが、あまりにも馬鹿馬鹿しいイメージしか湧いてこないので、細部まで考えるのはやめた。
数年間同じクラスでボウマと一緒に過ごしてきたが、悪戯とは呼べないような度を越した行いを、ソーニャは何度も目にしてきた。
今でこそ落ち着いたボウマであるが、入学した当初などは退学寸前までの事をしでかしたりと、特に酷かったものである。
ソーニャはどうせそれに類するような事だろうと、自己完結した。
「うーん、浴場行っちゃったかー……」
そして、困った。
今までロッカが戻ってくるかもと期待して待っていただけに、それが無駄骨に終わってしまったのだ。
さすがのソーニャも、この脱力感にはガクリと肩を落としたくなったようである。
とはいえソーニャは、ロッカと何か約束を交わしたわけでもない。
一人きりの待ちぼうけも、仕方のないことではあった。
「君は、何故ウィルコークス君に固執する」
「え?」
クラインの方から人間らしい会話を提示されたことに、ソーニャは驚いた。
「ウィルコークス君が編入してきたばかりの頃から、君は人が変わったように声をかけていたな」
「……よく見てるわね」
「席が近い」
それもそうだ。ソーニャは笑った。
「……まぁ、ちょっと、ね。私の親しかった子に、よく似ていたから……」
容姿や背格好は、まるで違う。
けれど高く括った長い髪と、放っておけない危なっかしさは、彼女にそっくりだ。
それがたとえ、ソーニャにしか理解できない部分なのだとしても。
「私からしてみたら……クライン、あなたも結構、ロッカに固執しているように見えるけどね」
「……」
クラインは難しそうな表情のまま、時間が止まったように口を閉ざした。
そのまま“溜め”を作っているのか、間を置いているのか、とソーニャが考える頃には、それらに適した時間を越えて、不可思議な沈黙は続いてゆく。
「……クライン?」
「なんだって?」
訊きたいのはソーニャの方であった。
「あなたがロッカに固執しているって話よ」
「オレが? ウィルコークス君に?」
「ええ」
「何故?」
クラインは心底意味が分からないといった具合で、眉を険しく傾けて聞き返す。
「いや、してるじゃないの。魔術を教えてあげたり、色々と」
「どうしてオレがウィルコークス君に固執しなければならない」
「だから……」
「話はもういいだろう。オレが先を急いでいるんだ」
「あ、ちょっと」
クラインは会話を強引に切り上げ、丸い猫背からはとても想像できない早歩きで廊下の先に消えていった。
「なんなのよ、あいつ……やっぱり訳のわからない奴だわ」
多少興味深い反応はあったけれど、相手がクラインである。
ソーニャはこれにもまた、深く考えることはしなかった。
考えても分からないような思考回路を持った相手など、この世にはいくらでもいるのだから。
「……んっ」
人の消えた廊下でソーニャは強い肌寒さを感じた。
身を震わせ、身体を縮める。
風は吹いていないものの、まるで冬がやってきたかのような空気が、足元から一気に胸元までせり上がってきたのである。
「ん……?」
辺りを見回しても誰もいないし、窓も開いていない。
しかし、身体はしっかりと、強い悪寒に震えている。
奇妙な体験に、ソーニャは重ねて身を震わせた。
「か、帰ろっと……」
どうせもう学園にロッカは残っていないのだ。
既に長居する理由もなくなったソーニャは、謎の寒気から逃げるようにして、その場を後にした。
「ソーニャ=エスペタル……随分、仲良さそうに……」
結局、廊下の曲がり角で壁に背を預けたミスイが唇を噛み締めていたことを、ソーニャもクラインも気付くことはなかった。
おそらく、それが近々、大きな厄介事を招くであろうことも。




