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打ち砕くロッカ   作者: ジェームズ・リッチマン
第七章 這い寄る幻影

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箪008 訝しむ赤色

 近くに水車の音のない、静かな区画。

 周囲に目立ったものがあるわけでもないここの壁に、深い傷跡が残されている。

 真っ直ぐ真横に刻まれた、爪のような引っかき傷だ。

 総じて見れば頑丈な造りの地下水道だが、こうも古くなれば、水分による劣化も壁の表面には出てくるのだろう。


「けど、いくらなんでも深すぎるよな」


 傷跡にカンテラを近づけて、痕跡を注意深く観察する。


「何であれ、よほど強い力が加わったと見るべきだろうな」


 私のすぐ真横には、クラインの顔が並んでいる。

 彼の洞察力や判断力は優れている。その力が、今回のこの傷の鑑定においても真価を発揮するだろう。それは認めてやる。

 けど、ここは私が活躍できる最後の砦なのだ。

 クラインの知恵があれば私の出る幕はないとわかっている分、邪魔はしないでもらいたい。


「ヒューゴさん、クラインさんとロッカさんって仲が良いんですか?」

「逆転の発想だね」


 出る幕のない皆の雑談を差し置いて、私達の考察は続けられる。


 とにかく、これを終わらせないことにはみんな帰れないんだ。

 仕事なんだから、ちゃんとやらないとね。


「鋭角の傷ではないが、深い」

「魔獣とか魔族の爪、とかは?」

「壁を傷つけるにしても、このように平たく削り取れるものはそうそう無いぞ。大型の魔獣や魔族ならば力任せにつけることも可能だが、この一帯ではそんな個体もいない」

「だよね」


 地下四階の水路で出会った野生生物といえば、魔族の泳竜デオルム、魔獣の幽魚クラヴァ、魔族の顕現アマミス、そしてナイトジェントル。

 いずれも水棲が多く、柔らかな身体では壁に傷をつけることすら難しいような生き物ばかりである。


 ならば、他の要因は何だろうか。

 私は傷口にカンテラを密着させて、溝に指を這わせてみた。


「んー……」

「何かわかったか」

「急かすなよ、んなすぐにわかるか」


 傷跡の長さは、大きな煉瓦二つ分にまで渡り、だいたい三十センチ前後。幅は最も広い部分で四センチといったところか。

 傷は壁の反り返った曲面、だいたい私の胸の高さの所にあり、鈍角だか直角状に、深く刻まれている。

 見た目と指で触れた程度でわかるのは、そのくらいが限度だ。

 正直、三本の傷跡が刻まれていたり、近くに生物の痕跡が残っていれば推測するのも難しくはないんだけど、見回してみても、目立った跡は何も無い。

 あるとすれば、傷の真下に落ちていた砂に近い石の破片くらいのものだろうか。


「不自然なほど綺麗に入った傷、ってだけだよなぁ」


 つまり、わからん、ということであった。

 名指しで雇われておきながら、ふがいないことである。


「直角の傷……これを刻める魔族は全くいないわけではないが……」


 クラインの方も、傷の形を見て悩んでいる様子だった。

 時折指を真横に薙いでみたり、腕をゆっくりと振っている様子が、なんだか子供っぽくて面白い。


「ん?」


 クラインの幼気ある奇行にちょっとだけ癒されるそんな中、いざ私が自分の指を見てみると、どうもおかしい事に気がついた。

 つい今さっき、床に散らばる石の破片を触ったからではない。

 指先に、砂粒よりももっと濃い色の汚れがついているのだ。


「なんだこれ……」

「どうした」


 カンテラの灯りで指を照らすと、そこには薄くこびりついた、赤黒いものが。


「ひっ」

「おい」


 見た目もさることながら、同時に鼻に飛び込んできた鉄臭さが、ぼけた想像に更なる補色を与えてくれる。

 血だ。確信めいた恐怖に、つい変な声が漏れてしまった。


「ロッカさん、どうしたんですか?」

『随分慌てているが』

「ち、ちちち、ち!」

「血? 血を見つけたのかい?」

「なんだロッカぁ、生理か?」


 ちげーよ馬鹿、血だよ! ほれみろこれ!

 私の指! べったり!


「血ではない、ただの赤錆だ」

「えっ」


 私が腰を抜かして狼狽える中、クラインは冷静に壁の分析に従事したままであった。

 私が触れた壁の傷を同じようにして指でなぞり、付着したものを煌灯に照らしてじっくりと観察している。 


「……」


 私もクラインと同じようによく確認してみると、なるほど。確かに錆のように見えなくもない。

 つーかこれ、完全に錆だわ。


「ロッカ、驚きすぎだじぇ」

「……」

「というよりロッカ、君って血で驚くような柄だったのかい」

「……」


 あそこで血が出てきたと思ったら、誰だってびっくりするだろうが。

 ……なんて釈明も、半笑いで聞き流されてしまいそうである。


 うわあ、穴掘って埋まりてえ。




「結論として、この傷跡は金属によるものであることが判明した」


 腰を抜かして誤答に震えた私に、話を纏める気力などは残っているはずもなかった。

 今は壁の前に集まった皆が、クラインの総括に聞き入っている最中だ。

 もちろん私も聴衆として、一緒になって聞き呆けている。


「金属ということは、鉄の顕現か何かですか?」


 スズメが控えめに手を上げて質問する。

 鉄の顕現。鉄の国ではよく見かける、金属で作られ、金属から生まれた魔族の総称だ。

 ひざ下以下のガラクタ人形、機霊デブリにはじまり、巨大なものでは全長六メートル以上はあろう鉄塊の顕現、ギガデブリなども存在する。

 確かに、大きめの個体であれば、先ほどのような鋭利な傷もつけられなくはない。


「野生生物の可能性としてはあり得ると言いたいところだが、ここは闇環境と水環境で満たされているからな。金属質の顕現が付け入る隙は、ほとんど無いだろう」

「です、よねぇ」


 無そのものから、あるいは無と魔力から生まれると言い伝えられる魔族、顕現。

 不可解な現象は彼ら顕現にこじつけられる事が多いが、とはいえ周囲の環境に依存する彼らによる線は、今回のところは薄いようである。


『水路の魔獣や魔族という可能性はないのか?』

「赤錆を付着させる生物的要因は、水路には無いだろう。せいぜい奴らが持っているのは爪や歯だ。傷さえも、ここの連中には作ることは難しい」


 クラインの答えに、ヒューゴとライカンが唸る。

 秀才らしきスズメも細い腕を組んで、むむむと難しそうに考えこんでいる。

 しばらくの間、地下水道の静かな水音だけが支配する沈黙を置いてから、クラインは右手の指輪で壁をカツカツと叩き、私達の注目を誘った。


「オレは、長年ここの生態系が一定して保たれている状況を考えると、最近になって発覚したこの傷跡が自然の産物であるとは思えない」


 クラインの唱える考えに私達全員が、いや、そっぽを向いているボウマ以外の全員が頷いた。

 傷の原因はわからない。

 だが状況から推理してみると、絶対に自然についたものとは考えられないのである。

 答えは出ないが、明らかに怪しい。


「なーなー」


 怪しいのは間違いないので、ここでむざむざと帰るわけにもいかない。

 だから、雲を掴むようなことであっても、悩まざるを得ない。

 悩み続けるしかないのだ。


「なーぁーってばぁ」

「だあ、なんだよボウマ」


 話を聞いてない割にさっきからうるさいぞ。これでも私は、足りない頭でも全力で考えている最中なんだ。

 それと、人を呼ぶ時は髪を引っ張るんじゃねえ。前髪捲ってピンで留めちまうぞ。


「あたしのずっと右の向こうにさ、なんかいない?」

「は? ボウマの右って……」

「向くな、目線だけ、声落とせ」

「……」


 どこか潜んだ声のボウマの指示に、私は黙って従った。

 ボウマの右。そのずっと向こうに、何かいる。

 何かとは一体、何のことだ。


 私は目線だけを真横に向けて、水路の奥をじっと眺めた。


「……ぁ」


 延々と続く湿っぽい暗闇の向こう側。

 私はその暗さだけが支配するはずの奥に、ほんの僅かな赤い光を見つけてしまった。


 灯りだ。

 向こう側に、灯りがある。


「……何かいる」


 私はかすれたような声でそう漏らすと、緊張感を感じ取った皆が、私と同じ方向へ一斉に振り向いた。


「……!」


 どこか遠くで足音が聞こえたのは、ほぼ同時であった。


 石の上を走る足音が、小さく反響する。

 音と共にわずかに見えていた赤い光は消え、地下水道の角の向こうへ消え去った。


 どこからが落ちた石が響いたとか、蛍の明かりが横切っただとか、その程度の気のせいでは済ませられない異常なものを、私たちは垣間見た。


「人だな」


 クラインが遠くを眺めて呟いたのを、私たちは誰も否定しなかった。


「ここって、普通の人が立ち寄れる場所じゃないのに……」

「普通じゃない人間なら?」


 ヒューゴの問いに、誰もが口を噤む。

 少しの不気味な沈黙の後、皆が私の手元の地図を奪うようにして覗きこんだ。


「どっちに向かった!」

「て、てゆーかあれなんぞ! 人かぁ!?」

『地下に逃れた盗賊か、それ以外か……今はなんとも言えんが!』


 私たち以外に人がいる。

 足音に灯りだ、間違いないだろう。しかも、あの人間は私たちに“見られた”と感じて、すぐに逃げた。

 私たちの声は大きい、きっと話の内容も、いくらか聞こえていたはず。

 それなのに逃げたということは、確実にやましい何かがあるということだ。


「逃げて行ったのは……こっちの路地だな。近くには猫の格子戸もないが……」

「どうすんだよ、あいつは何なんだよ!」

「オレが知るか、黙ってろ!」


 未知の恐怖に、考えがまとまらない。

 この闇の中に相容れない何かが潜んでいると思うだけで、体が竦んでしまいそうだ。


「私たちにできることは二つあります」


 しかし私が恐々とする間、スズメの態度は至って平静そのものだった。


「一つは、このままあの人影が逃げて行った方向とは別の格子戸から、地上へと戻るという選択です」


 ああ、是非ともそうしたいな。

 さっさと地上へ戻って、警官でも杖士隊でも呼んで、この騒動を押し付けてしまいたいところだ。


「二つは、私たちが逃げた人影を追って、事情を聴くか、捕えるということです」

「それでいこう」

「おい!」


 クラインの即決に、私は反射の勢いで異議を唱えた。


「僕もロッカと同じで、それはどうかと思うな、クライン。何も僕らが未知の危険を冒してまで、あの気配を追及することはないんじゃないかな」

「だじぇ」


 ヒューゴもボウマも慎重な姿勢だ。

 当然である。わざわざ毛皮欲しさに獅子河馬に挑むバカはいない。

 適材適所、私たちが不明瞭なものに手を出すよりも、その道に長い人に託すべきだろう。


「揃いも揃って馬鹿だな、君たちは」


 しかしクラインは、私たちをまとめてバッサリと切り捨てた。

 こいつ、本当に誰にでもバカバカ言うんだな。


「本来人がいるべきない場所に、人がいる。この閉鎖されているはずの地下空間でだぞ」

「……だから、今困って」

「そんなやつがいる中で、オレ達が格子戸から上の階層に戻ったとして、それが安全である確証はあるのか」


 ……いや、無いかもしれないけどさ。


「相手は複数かもしれない。盗賊の組織か、悪党どものアジトのメンバーか。だとしたら、オレたちを死に物狂いで殺しにかかるはずだ」

『つまりクラインはこうしたいわけか。逃げていったあの一人を追って……』

「先に潰す。まぁ、まだ危険な奴かどうかはわからないが……無力化まではしておかねばならんだろう」


 随分と攻撃的な安全確保の仕方だな。

 もし相手が悪人で、しかも地下にねぐらを持っているような組織なのだとしたら、それこそ飛んで火にいるってやつじゃあないのか。


「それにウィルコークス君、これは傷の謎を明瞭に解き明かす絶好の機会なのではないか」

「!」

「原因究明によって追加の報酬が得られることは、あの役人もほのめかして……」

「行こう! あの野郎を取り逃がす前に!」

「……」


 オドオドと足踏みしている場合じゃねえ。

 身の危険やリスクがなんだ。盗賊共のねぐらがなんだ。

 私は一万YEN近い金を人に返さなきゃいけないんだぞ。


 一万なんて大金を稼ぐとなったら、こんな地下水道よりよっぽど危険な坑道で働いたとしても、どれほどの時間がかかるかわからない。

 博打だ。博打を打つつもりでやるしかねえ。


「スズメ、地図は任せた! 私は追いかける!」

「えっ!? み、道は」

「覚えてる!」


 私は皆より先に、暗がりに向かって駆けだした。

 身体強化を最大まで上げて、闇の中に溶けてゆく。


「馬鹿の手綱は握りやすいな」


 クラインの声は聞こえなかった。




 足音だけがけたたましく反響する中で、集中させるのは耳と目だ。

 無駄と解っていてわざわざ“待て”と叫ぶつもりはない。私は蝙蝠とは違って、高い声で相手の位置を探るなんて術を持ってはいないのだから。

 だから、走る。人影が消えて行ったであろう、その方向に。


 地下水道の地図を見て、四階の構造はだいたい把握している。

 中でも赤丸印のついた区画に近いここ一帯は、特に鮮明だ。

 十字路、曲り道、放水口、落水口、通風孔、記号が示す水車の位置、格子戸、階段……広くはあれど構造自体は整然としているし、シンプルだ。

 少なくとも開発が進んだデムハムドの立体的な坑道と比べたら、まったく覚えやすい。


『ロッカ、俺もいくぞ』

「ライカン」


 私の隣、反対側の歩道に、ライカンが追い付いてきた。

 ここまで全力で走ってきたのだ。ついてこれるのは、彼くらいのものだろう。

 しかし、ライカンと一緒なら安心だ。彼の実力のほどは、最近嫌になるほど思い知らされている。


『クライン達には地図を預け、別のところから行くつもりらしい』

「別……」

『挟み撃ちだそうだ。次の鴎の格子戸は間に合わないから切り捨てるとして、その次の場所で追い詰めるらしい』

「……二つ先のところだな、わかった」

『わかるのか?』

「わかるよ」


 小さな響きだったが、逃げた奴の足音は耳に残っている。

 身体強化を用いた力強いものではなく、着地から足を離すまでの時間も短い。距離も大きくない。

 相手の足は遅い。必ず追いつけるだろう。




「来るなー!」


 闇の中から、声が聞こえてきた。

 男の声だ。歳は中年といったところで、全機人ではない。


「わざわざ、居場所を教えて、くれるなんてねっ!」


 “待て”と言っても相手が待たないように、“来るな”と言われたって私たちが追うのをやめるはずがない。


「はあ、はあっ!」


 そうして走るうちに、直線状に相手の姿が見えてきた。

 さすがに灯り無しでは走ることもままならないのだろう。わずかな灯りを腰からさげて、よたよたと必死に走っている。


 逃げることから、やましいことをしている者であることは確定した。

 もはや追うことに躊躇はいらないだろう。


「ウィルコークス君!」

「おうクライン、おせーぞ!」


 後ろの曲がり角からは、遅れてクライン達もやってきた。

 魔術が使える心強い増援も来て、追い込み猟もついに終盤だ。


「はあっ、来るな、来るな……!」

「そんなんで止まるわけねーだろっ!」

「来るならっ……!」


 走る男の姿が、急にこちらに振り向いた。

 相手の腰に下げられた灯りは、男の風貌を明らかなものとする。


「止むをえまいな」


 男はその手にタクトを持ち、深くかぶったフードの下から覗く口は、笑んでいた。


「魔道士……!」

『いかん!』

「“イアノ(火球よ)テルス(放たれよ)”!」


 魔道士がタクトを振り、私は反射的に腕で顔を庇った。

 ライカンは私を庇うように、腕を広げて立ちふさがる。


 イアノ。火の属性術の属性文頭だ。

 私たちは目の前から大きな熱の塊が襲い来ることを疑わなかったが、しかし相手の魔道士が放った方向は、全く別の場所である。


 辺りを赤く染め上げる大きな炎は、何者もいない真上に放たれた。

 炎は誰一人として焼き焦がすことはなかったが、かわりになにか、燃えやすい麻紐か、木片だかを焼いたらしい。


「二人とも、下がれ!」


 私の頭の中の地図に“落水口”の記号が浮かび上がる。

 ライカンと私はクラインの声を合図に同時に飛び退くと、謎の魔道士の目の前に、巨大な岩の塊が埃を立てて落ちてきた。


 五メートル近い幅の通路を丸々ほとんど遮るような、巨大な球体の岩である。

 私はそれを、時間稼ぎの仕掛けか何かだと思っていた。


「ゴゴ」

「え……」


 しかしその球体の岩は、動いていた。


「止むをえまい。この、私の姿が見つかってしまった以上は……殺すしかないだろう」


 巨大な円形の落水口から落ちてきた燃える木材が球体の岩を下から照らす。

 巨大な赤褐色の球体には大きくバツ印が描かれ、球の真上には、小さな半球状の、丸印が描かれた“頭”が乗っている。

 球体の上左右にはモグラのように小さな手が申し訳程度に取り付けられ、下左右にも似たような足が一対、くっついている。


 胴体と、腕と、脚と、頭だ。

 見た目は間抜けだが、この四肢を持つ巨大な物体は、間違いない。


 人造のゴーレムだ。


「守護像サードニクスよ、侵入者を始末しろ」


 後ろから魔道士がタクトを振ると、とても動きそうもない大きな図体のゴーレムが、こちらに向かって動き出した。


「……まずい鼠を見つけてしまったようだな」


 今度のクラインの小さな声は、よく聞こえた。



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