箪005 突き進む水道
うず高く積み上げられた貝煉瓦の塔。
大昔に物見台として使われていた半鐘櫓の内部に、私達は入っている。
「物見台の塔の中には、地下水道への入り口があるんですよ」
「へー」
「他の建物にもあるんですけどね」
塔の内部は螺旋階段とそれを支える梁とで手狭だが、螺旋階段は地下へも続いている。
なるほど、地下水道の闇市へは、物見台から入るのか。
物見台から怪しい影を見つけたら、地下道を通って別の場所に出る事も可能というわけである。そうでなくとも、
現代でも、大雨に降られた時などは、最寄りの物見台から地下を通って移動……という使い方ができそうだ。もちろん、地下水道の経路に熟知している必要はあるだろうけど。
大昔の水の国が魔族と戦争していた頃には、この物見台と地下水道も、重要な防衛機構の一つだったのかもしれないな。
「ちょっと暗いですから、足元に気をつけてくださいね」
スズメを先導として、私達も一列に並んで、すり減った石階段を降りてゆく。
螺旋階段の中央にはまっすぐに一本のロープが垂れ下がっており、ロープには等間隔で石灯が括られていた。
薄暗い階段を降りる際は、少しでもそのロープを揺らしてやれば、階段全体がわずかにオレンジの灯りに照らされるという工夫であろう。
そんなものよりしっかり据えられた手すりを作って欲しいと思うのは、私だけだろうか。
『うむむ……』
ライカンは梁にぶつかりそうな頭を気にしながら、慎重に猫背で歩いていた。狼なのに。
地上と地下を隔てるならば、まぁこれくらいの厚みが要るだろうと思える適度な長さの階段を降りると、私達は明るく、騒がしい空間に躍り出た。
「わお」
独特な臭気と光景と騒がしい賑わいは、私の感覚を一瞬のうちに占領した。
「ここが地下水道の闇市場ですよー」
話には聞いていたけど、一度も足を運んでいなかったミネオマルタの闇市。ついにやってきた。
道の幅は地上の通りと同じ程度はあり、広い。
アーチ状に石が組まれた天井は、一番低い端の部分でも、ライカンが頭をぶつける心配がないほどの余裕がある。
地下水道というよりは、地下道という言葉が似合いそうな一本道だ。
道幅を半分に狭める左右の商店が無ければ、馬車の一つも通れてしまいそうである。
「ふぇふぇふぇ、いらっしゃいお若い方々……地下商工会の割引券はいかがですかな」
「割引券?」
階段を降りて早々、一番近い場所に小さな露店を構える老人が、私達にしわがれた声をかけてきた。
「この市場で使える金券ですじゃ。看板にこの券と同じ印がある店で使えるもので……」
「さあさ、ロッカさん、先を急ぎましょう」
「え、う、うん」
老人が言葉を言い切る前に、スズメは強引な催促で話を切り上げ、人で混みあった市場を先に進んでゆく。
クラインもヒューゴも、声をかけた老人など最初から関知していなかったかのような振る舞いで、後ろ姿を追っていた。
「……」
私だけ話相手になって、足並みを乱すわけにもいかない。
聞く耳を持たないと知るや、それきり一切口を開かなくなった老人をちらりと眺めて、私も後に続いていった。
しかし、目の前に棚引く誘い言葉たちはいずれも怪しさに満ちているのに、どれも魅力的なのは、一体どういうわけなんだろう。
いつか金を持ってここに来る時には、気をつけなきゃな。
「ここが、調査する場所に最も近い入り口ですね」
後ろめたい騒がしさに満ち溢れた市場を掻い潜り、少々鼻につく匂いが漂う人気のない路地に進んでゆくと、その行き止まりには、頑丈な鉄格子の扉が埋め込まれてあった。
「これから先は、人の居ない旧地下水道になるわけだね?」
「そうですね。特別な事情が無い限りには、一般人立入禁止の区域ですから」
「うーん、楽しみだな」
ヒューゴがいつもより楽しげに見守る中、大口を開いた猫の口の鍵穴に、スズメが手にした鍵はガッチリと噛み合い、錠が外された。
重厚な音と共に開かれた鉄格子の扉の向こうは暗黒そのもので、下り階段の先はろくに見えていないにも関わらず、冷気と瘴気に満ちているかのような気配を感じてしまう。
「……ミネオマルタの隔絶された旧地下水道には、魔獣が生息しています。深くなればなるほど、人の手が離れているために、強い魔獣もいるらしいです」
開いた扉の前に立ち、スズメは真剣な目で私達に向き直った。
「もし魔獣と出会っても、落ち着いて行動してください。声掛けは大事ですから、常に意識して歩いていてくださいね。手を出すより先に、口ですよ。強力な相手と出会った際には、叫ぶくらいしてもいいかもしれません」
「……この扉を開いたら、もうそこらへんに魔獣はいるものなの?」
「え? いえ、多分あともうひとつ扉を開けた後でしょうか……」
私が挟み込んだ問に、スズメはおどおどと答えた。
「んじゃー先に行こーよ。話は次の扉のとこで聞こーじぇ」
「え、あ、さ、先に行かないでくださいーっ! 危ないかもしれませんよー!」
ボウマは目の前の暗闇に冒険心を抑え切れない様子で、石灯を振り回しながら一足先に階段を下りてしまった。
「用心に越したことはないが、ボウマの言う通りだな。闇市に隣接した地下水道では、危険な魔獣など沸かんだろう」
「う、あう……」
「僕もそう思うよ。さあ、とりあえず先に進もう。ボウマだけ抜け駆けはずるいしね」
「み、皆さん……」
『むしろ、あのボウマを止めるためにも急ぐべきだな』
「そんなぁ……」
ボウマの突入を皮切りに、私達特異科調査隊は先導者を置いてきぼりにしたまま、続々と先へ進んでゆくのであった。
哀れスズメ、半泣きである。
しかし彼女も、任された役目は鍵っ子のようなものだ。ここまでの道案内を終えたら、あとは探索のリーダーに適した者に主導権を渡すべきなのかもしれない。
この子、なんというか、そういう素質が無さそうだし。
「……まぁ、注意事項は歩きながら皆に話せばいいんじゃない?」
「うう、そうですね……わかりましたぁ」
スズメは泣く泣く、入り口の錠前をかけ直すのであった。
ミネオマルタ地下水道、一般人が立ち入りできる闇市を地下一階だとするならば、ここは地下二階である。
薄暗い階段を降りてゆくと、地下一階と同じような構造の、同じく水路の乾いた地下水道に出た。
「堀が深くなってる」
アーチ状の高い天井に、幅の広い空間。
左右にはそれぞれ幅二メートルほどの足場があるが、中央には幅四メートル、深さ五十センチほどの溝がある。
ここはまだ水が通っておらず水路も乾いているが、この堀が水で満たされていたらと思うと、脇を歩くのにも少し慎重になれそうだ。
「おー、水路なのに全然湿ってないじぇ」
「ボウマ、一応こっちの上を歩こうよ。変なものがあるかもしれないしさ」
「ふぁーい」
人の立ち入るはずのない地下二階には、当然だが、強い灯りは常設されていない。ほとんど真っ暗闇だ。
あるといえば、壁際に遠い間隔で吊り下げられた、青白く仄かに光る小さな感応魔灯くらいだろうか。
しかしその輝きも弱々しく、足元を照らすにはほど足りない。せいぜい、進む先にまだ道があり、壁が存在することを教えてくれる道標の代わりでしかないだろう。
安全に暗がりを進むためには、それぞれが持参した灯りが必要だ。
「おー、ロッカとあたしの、おそろいだ」
「ん、本当だ」
私とボウマは同じデザインの石灯を持っていた。
揺らして衝撃を与えてやれば光る石灯は、坑道探索の強い味方である。
「しかしこうして壁を照らしてみると、煉瓦一つを取ってみたって、古代の構造物とは思えないくらい緻密な作りだよなぁ」
『それだけミネオマルタは隆盛を誇っていたのだろう。今の職人の腕が悪いわけじゃあ、ないんだろうがな』
ヒューゴとライカンは、強いオレンジの輝きを放つ灼灯を手に下げている。
強い炎の光は温かみがあるし、石灯よりも遠くまで視認できる。
「あー、クラインさんも煌灯なんですねっ、おそろい……」
「だからどうした」
「う、す、すみません」
クラインとスズメは、軽くて光も強い煌灯だが……持っている灯りが同じだからといって、必ずしも気が合うとは限らないようである。
哀れ、スズメ。けど彼女も彼女で、早めにクラインとは世間話ができない事に気がつくべきだと思う。奴は、そういう男なのだから。
地下二階には魔獣もいないし、目的地でもない。
私達が目指すのは地下四階に存在するであろう壁の傷なので、それまではひたすらに、特にこの平穏な地下二階では、黙々と歩くばかりである。
しかし、暗く生命の息吹を感じられない、迷路のような地下道だ。
仕事とはいえ、そこで人同士の温もりある息遣いを確かめてしまうのは、ある意味当然なのかもしれない。
最初は注意を促していたスズメでさえ、押しつぶされそうになる石造りの闇の中では、何かを話さずにはいられなかったようである。
「私、ここに来るまでは特異魔術を見たことがなかったんですよ」
スズメが地図通りの道を行く。
私達は揺れる両おさげを眺めながら、大小様々な足音で、それを追っていた。
「だからロッカさんの魔術を初めて見た時には、すっごく驚いたんですよ。どうして鉄魔術が、岩みたいになるのかなって」
「うーん、私にとっては、あまり驚くような事でもないんだけどな……」
手から小石を生み出せるようになったのはいつだったか。それすらも忘れてしまったが、物心がつくか、つかないかの頃であるのは間違いない。
ボタのカブダシから使えそうな石を選別している際に、無意識の内に拾ってもいない小石を握りこんでいた時の静かな驚きは、鮮明に記憶に刻まれている。
それからというものは、まぁ、石投げには困らないガキであった、というくらいのもので、それが日々のメシの役に立ったということは一度としてない。
当然、私の岩魔術が、私にとっての特別な存在になり得るはずもなかった。
「スズメがいる理総校には、特異科ってないの?」
「無いですよ。あるのはここ、ミネオマルタの学園だけみたいですから」
世界でも最大規模の理学校、ミネオマルタとミトポワナ。
そんな理学機関でも、特異科が存在するのはここ、ミネオマルタの学園だけらしい。
まぁ考えてみれば、日に二百分だけの初等理学にも近い簡単な講義をするようなお気楽学科だ。そうそう他の理学校にもあるわけがない。
そんな特異科学徒は学園によって衣食住を保証され、学園から離れないように手厚く保護までされている。小さな理学校では、そんな真似もできないだろう。
「どうして特異科なんてあるんだろうな」
私は何と無しに疑問を呟いた。
「あー、それあたしもよく思うじぇ。住み心地の良い寮にやーらかいベッドまであって、なのにだるい仕事を任せられてるわけじゃないもんな」
「施されてる私としたら、楽は楽なんだけどね。けど、私達の存在が学園の役に立っているようには思えないし……」
以前、理式科の導師さんから楯衝紋を取られたことがある。
特異科らしい作業といえばそれくらいで、他には何もない。
楯衝紋が理学の何に役立つかなんて私にはわからないけど、さすがにそれだけの協力で、人一人の生活費用が賄えるほどの研究成果を生むとは、私には思えなかった。
「……それは、」
「お前たち、何故特異科が生まれたのかも知らないのか」
スズメの言葉を遮るように、やたらと存在感を放つクラインの言葉がため息混じりに飛び出した。
「知らねーよ、馬鹿で悪かったな」
「まーたクラインが始まったかぁ」
「馬鹿な君たちのためにひとつ勉強になる話を聞かせてやろう」
馬鹿な奴は嫌いなくせに、物を教えるのは好きなんだよな、こいつ。
クラインの姿を見て、ヒューゴも同じことを考えていたのか、そんな微笑ましそうな顔をしていた。
「そもそも特異理質というものは、理学においては究める対象になっていない」
「え」
「何故、ごく一部の人間の楯衝紋には、理学式を変容させるほどの狂いが生まれてしまうのか……語る切り口を挙げれば研究のしようはあるだろうが、実際のところ、誰もそんな事に興味はない」
随分とバッサリだな。
まぁ、特異性は先天的な特徴だから、研究したって何の役にも立ちはしないのはわかるけどさ。
「特異理質に興味はない……その楯衝紋も、研究する価値もない……だが、唯一特異理質にも、理学界からの脚光を受けた時期はあったのだ」
「脚光?」
「光属性術の研究だ」
「あー……?」
光属性術。人が最後に発見した、ごく最近に確立した魔術属性。
今現在、この世界で光属性術を扱えるのはリゲル=ゾディアトスのみ。
……私の出来の悪い頭の中では、その光魔術と特異理質の二つは、全く結びつかないんだけど。
「ええっとですね。理学的特異性の中には、ある属性術を発動させようとすると、光魔術の様相を呈するものがあるんですよ」
私が額に熱を作っていると、見かねたらしいスズメが優しく解説を入れてくれた。
「え、そうなの?」
「はい。千年以上前から、珍しくはあるんですけど、光魔術自体はあったんです。属性術としての光魔術は、理学式を含めてまったく体系化されていなかったんですが、人が個人で生み出す独性術や勝手に変異してしまう特異魔術の中には、光魔術を再現できたものがあって……」
「そこを参考にして、光魔術を属性術にするための研究が進められたのだ」
えっと、今の話を聞く限り……。
「じゃあ、特異科って光属性術の研究のために作られたの?」
「そうだ。楯衝紋や魔術の振る舞いを記録して、膨大な資料を参考に、光属性術の理学式を作り上げる。それが、ミネオマルタ国立理学学園特有の目論見だったのだ」
「へぇー」
『なるほど、そいつは俺も初耳だ』
って、ライカンも知らなかったのかい。
「あれ? でももう光属性術って……」
「は、はい。実際に完成させたのは、水国立理学総合学校……ミトポワナの理総校でした」
「駄目駄目じゃねーか」
「うう、なんだかすみません……」
いや、スズメが謝ることじゃないけどさ。
しかし特異科という大盤振る舞いな学科をわざわざ作ったのに、理学機関としての最大の名誉を得られなかったというのは大きな損失だろうな。
ある程度でも、特異というものが研究の足しになっていれば良いんだけど。
「じゃあ、もう特異科って……」
「もう存在意義はない。今は辛うじて、特異理質を持つ楯衝紋を保管するだけの学科になってしまった」
うわ、まさかそこまで落ちぶれた学科だとは。
お荷物学科、穀潰し。ナタリーが以前私達に対して放ったそんな罵倒も、的を射ていたということか。
……封じ込めていた劣等感が、また沸々と心の底から登ってきそうだ。いかんいかん。
「で、でも、特異魔術って、なんだかすごくないですか!? 私は、すごいと思いますよ!」
話が私達の存在理由の否定に入りかけたところで、スズメから必死のフォローが入り込む。
「すごいって……」
「確かに、特異魔術は普通の属性術を扱いにくいのかもしれませんが……でも、それって個性が強いってことだと思うんです」
個性か。励みになる言葉だ。
「スズメさんに同意だね。確かに、魔導書に載っている属性術のほとんどは上手く使えないかもしれないけど……それでも工夫一つでいくらでも化ける才能だと、僕も思うな」
ヒューゴは力強く同調した。
ライカンも“うむ”と深く頷いている。
特異性を持って生まれてしまえば、その人はもう絶対に、一般の魔道士の枠には入れない。
けどだからといって、魔道士になれないわけではない。ここに来てからは、私もそう思い始めている。
鉄が岩になる。確かに劣化と言って差し支えないかもしれない。
だが見方を変えれば、それは長所にも成り得るのだ。
「ふん、馬鹿馬鹿しい。何が個性だ」
しかしクラインは、頑なにそれを認めようとはしない。
「まだ鍵は開けませんからね! 今度こそ、ちゃんと話を聞いてくださいよ!」
鍵のついた格子扉の前で、スズメは何故か勝ち誇ったような顔で胸を張っている。
慎ましい胸は痛く無さそうで羨ましいと思った。
「魔獣に気をつけましょう、って事だよね」
「そうです……って簡潔にまとめないでください!」
鍵はスズメが持っている。
そういうことで、じゃあ行こうとはならなかった。
ここから先は、地下三階。
水路にも水が張られ、そこには魔獣も生息しているという、話を聞く限りには一般的な洞窟と何ら変わりない場所のようだ。
しかし一般的な調査員の手が入るような区画、それほど厳しいことになるとも思えない。
目的地は地下四階なので、出会ったところで危険もなければ、丁寧に相手にする必要もないだろう。
魔獣だって、遭遇したら頭ごなしに襲ってくるやつらばかりでもないのだから。
「ごほんっ、それじゃあ、開けますけど……くれぐれも今言ったことを守るようにしてくださいね!」
あ、ごめんスズメ、聞いてなかった。
猫の錠が外されて、重い音を立てて扉が開かれた。
相変わらず、向こう側は深い暗闇。その先には魔獣が潜んでいるかもしれないと聞かされていれば、自然と緊張の汗も滲んでくる。
「あ、水の音だ」
ヒューゴがぼんやりと呟くと、皆がはたと口を噤んだ。
足音も消され、真の静寂が訪れる。
彼の言った通り、水の流れるわずかな音がここまで聞こえてきた。
「ほんとだー、学園の中みたいだじぇ」
『ふむふむ、地下水道らしくなってきたじゃないか』
暗闇は怖い。けど、瀞の音は何故か、私達にそれ以上の好奇心を与えてくれる。
水と闇はなかなかに恐ろしげな組み合わせなはずなのに、不思議だ。
「おー」
水音に誘われるまま階段を降りて、地下三階へと到着した。
石灯のオレンジ色の光は、ゆるやかな暗い水面を照らしている。
言葉にすれば当然のことなんだけど、水路が水で満たされているのだ。
「おおーっ、水だ、水だじぇ!」
「見ればわかるだろ」
「へえ、結構綺麗みたい」
石灯を振って水面に近づけると、多少暗さで目立たないものの、水中の壁際に貼り付く植物のようなものが見て取れた。
つまり、濁っていないということだ、もう使われなくなった水路とはいえ、下水道として使われているわけでもないようだ。
まあ、わざわざ臭い場所を歩きたくもない。ここを調査する身としては、ありがたいことである。
「あ、ちっちゃい魚が泳いでますよ! あそこ!」
「わー、ほんとだぁ! 群れだ!」
「おい、案内役。仕事に戻れ」
「はっ!?」
この子、本当にリゲル導師の護衛として役に立ってるのかな。
魔獣がいるとは聞いていたが、地下水道は静かなものだ。
わずかに照らされた水面には魚が泳ぎ、小さな虫が旋回するばかり。
古臭い空間の割に、空気も悪くない。
足元まで濡れてはいないので、快適そのものな道中であった。
「ひまだなー」
「そうだね、特に……何か潜んでいそうな気配もなさそうだ」
地下三階に降り立ってから数分経つが、それらしい姿は見えてこない。
時々落ちる水滴の音や、水面に顔を出す魚の音以外には、緊張を走らせる要因もなかった。
私達の緊張は、最大まで緩んでいたと言っても良いだろう。
かくいう私自身も、袖の匂いが気になって、鼻に手首を当てていたのだから。
「あ、止まってください」
そんな中で、先導のスズメが突然に指示を出した。
急な停止の指示にすぐ対応できたのは、ライカンとクラインのみ。
「ったぁ!?」
私は勢い余ってライカンの背中に突っ込んで、金属製の右腕はそのまま私の鼻の頭にぶつかった。
鈍い痛みが涙を誘う。
「な、なんだよスズメ……」
「上です。アーチ状の天井に」
「天井……?」
涙の浮かぶ目を擦り、スズメの煌灯に照らされた天井を見上げた。
「あ……」
そこに見えたのは、黒い影。
天上にぶら下がる、袋のようなシルエット。
『ほう、こんな場所に』
「あれは……ナイトジェントルだな」
ナイトジェントル。
全長一メートルほどの、蝙蝠型の魔族だ。
翼には美しい外套のような装飾が施され、美しく鮮やかな手際で獲物を襲うことから、冠称として“闇貴族”とも呼ばれている。
夜にしか現れず、活動しない顕現の魔族。夜魔だ。
「これ以上近づくと、対処が難しかったかもしれません。暗いとなかなか気付かないものですね」
スズメがロッドを掲げ、翼の形の金属飾りに嵌めこまれた先石を天井に吊り下がった蝙蝠に向けた。
「“イアズ・テルス”」
「うおっ」
杖は真っ赤な輝きを射出して、その一瞬は地下水道内が明るく、浮き彫りとなった。
「ギャッ」
目を眩ませる輝きが目標に衝突すると、蝙蝠は鳥の悲鳴のような甲高い声をあげ、水路にボチャンと落ちていった。
火が消えるジュッという音が、ただただ残酷である。
「……スズメ、よく気付いたね」
私はなんだかんだでぼんやりと歩いていたのに、彼女は天井に貼り付く影をすぐに察知した。
遊び気分で来ているのではない。彼女にはちゃんと危機感があるのだ。
護衛に向いていないかもしれないと思ったのは、私の間違いだったということである。
「みんな、あんなふうに目立っていればいいんですけどね……隠れている魔獣や魔族となると、さすがに出てくるまでわからないですよ」
あれくらいは、注意を払っていれば誰でも気付けたってことか。
注意散漫。反省である。
「皆さん、無闇に藪を突く必要はありません。進路にいないものは放置しても大丈夫です。けど、近くにいるなら……今のように、私が躊躇なく倒していきますからね」
「なら、気付いた時点でオレたちも参戦して構わないんだな」
クラインは眼鏡の山をおさえ、訊ねた。
「え? はい、まぁ大丈夫ですが……」
「ほほー、そっかー」
ボウマの楽しそうな返事。嫌な予感しかしない。
それからしばらく歩くていくと、クラインは眼鏡で補正されたその眼力を、遺憾無く発揮し始めた。
「クラヴァの成魚だな」
「あっ」
スズメが通りすぎた水路の中に、大きな六十センチほどの白い影が浮かび上がっている。
一見して普通の魚のようであるが、ゆらゆらと幽霊のように揺れる長い尾びれは、その姿を認めた私達に不気味な印象を植え付けた。
「き、気付かなかったです……迂闊でした」
「それも魔獣なの?」
「幽魚クラヴァの成魚。目こそ見えていないが、そのため音に反応して、何にでも食らいつく性質を持っている。足音に反応して、跳びかかってこないとも限らん」
「ああ、学園の小川にいるやつか」
「えっ、学園にいるんですか!?」
私は以前クラインが釣りをしていた小川のことを思い出した。
クラインが釣っていたのは十センチ前後の幼魚だったけど、こいつはその成長した姿ということらしい。
「ボウマ、水の中に手を入れて、そいつを殺せ」
「へっ」
「はいよー」
クラインの指示に、ボウマは珍しくノリノリで従う。
水路の中にボウマの小さな手が浸かると、幽魚がそれに反応したらしく、白い魚体がぴくりと動いた。
「あぶな――」
「“バーン”!」
ボウマの詠唱とも言えない言葉を引き金に、スズメの杞憂すら吹き飛ばす壮絶な音が水中に轟いた。
「うきゃっ!?」
水路の中が無数の白い泡で満たされた。
その泡に浮かされてか、白い魚も腹を見せるように、水面に浮かび上がってくる。
鱗のない白い表面はズタボロで、ところどころ骨が見え、内臓も飛び出しているようだった。
「う、うわー」
「ボウマの特異性は、“火の属性術が爆発に変わる”っていうものなんだ。びっくりさせたかな」
「び、びっくりしました! すごいですね!」
そりゃあんなものを突然披露されれば、誰だって驚くだろう。
というか術が激しすぎて、さっきのは知ってる私でもびっくりした。
「にひぇひぇ……」
ボウマ、いつになく得意げである。
魔獣の姿もちらほらと見え始めたが、水路の中に潜む奴が相手の対処は全く問題無さそうだ。




