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打ち砕くロッカ   作者: ジェームズ・リッチマン
第六章 轟く雷鳴

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嚢023 噛み砕く執念

 耳を麻痺させる歓声の嵐の中、私は心の中ではそれに負けないほどの声量で、ライカンの名を叫んでいた。

 声で届かなくても、せめて魂で彼に力を与えてやれればと、ただ強く祈るのだ。

 しかし直径四メートルの氷の球体は、ライカン目掛けて無情な速度で落下する。


『“イグネンプト(稲光れ)ライカン(我が拳)”……!』


 両足と右腕を氷の縄によって地面に繋がれたライカンは、左腕を残すのみ。

 その最後に残った腕に全ての魔力を集中させて、彼は抗った。


『はァ!』


 腕を振るう度、黄金色に輝く鉄製タクトはそれに連動する。

 動きの基点である腕とは常に一定の距離を保ちながら、タクトは空中を蜂のような速さで暴れ回った。

 霧の中での攻防は、きっとこの術を使っていたのだろう。

 床から伸びた氷の呪縛の一本一本を、乱暴な動きで打ち砕き、徐々に四肢の自由を取り戻してゆく。


 だが、真上から迫る氷の球体は、全ての拘束の解放を許すほど心が広くはなかった。


「間に合わないようにしてますから」


 マコ導師が笑う。

 ライカンの両足は晴れて自由となった。だが、どうしても最後の一本が、右腕の拘束が、あと一歩のところで解けない。


 これで終わるか。観客が身を乗り出して最後の瞬間を睨み、決着の想像図を幻視する中で、壇上のライカンだけは、大多数の者が抱くその妄想に付き従わなかった。


『ウオオオッ!』


 球体が彼の頭にぶつかる寸前で、ライカンの右腕を固める最後の拘束が砕け散った。

 使ったのは、宙を自在に暴れ回るタクトではない。

 ライカンの自由になった脚から放たれるただの蹴りが、樹木のように太い氷の枷を破壊してみせたのだ。


「うそっ」

『どわあっ!?』


 それだけでも神業に近いのだが、真上の氷に両手を当て、上体を仰け反らせるようにして滑り出る動きもまた、人間のものではない。


 氷の玉は鈍い音を立てながら、壇上の石に亀裂を走らせる。

 ライカンはそのすぐ隣で、なんとか両足を地につけていた。

 まだ敗北していない。彼は見事に氷の呪縛から脱出し、生還してみせたのだ。


「抜けたー!」

「なんだ今の動きは!」


 似たような内容の無数の叫び声は、喝采と共にライカンへと送られる。

 しかしライカンに、その温かな声に手を振り返す余裕はない。

 感動的な一瞬の奇跡にさえも、弱者は安堵の息をつくことは許されないのだ。


「あは、すごいなぁ! でも負けませんよ! “テルス(風に)キュアー(凍てつけ)”!」


 マコ導師が再び冷風を放って、霧を伸ばして氷のツタを作り出す。

 それは咄嗟に回避するライカンの残像を貫きながら、床の上に落ちた金属のタクトを巻き込んだ。


『むっ!』

「さらに二本、ですね」


 ライカンが拘束を解くために使っていたタクトだろう。

 攻撃が迫っていたこともあって、使ったは良いものの、回収する暇がなかったのだ。

 これで、ライカンの手持ちの金属タクトは残りわずか三本。いよいよ、彼の攻撃手段にも後がなくなってきた。


『だがもはや、この距離であれば!』

「接近戦? まあ、ここまでくればそれも悪くないかもしれません」


 決死の突貫。幸い、マコ導師との距離はそう遠くはない。

 走って近付き、先ほどのような蹴りをお見舞いすれば、それだけで試合を決するに至るだろう。

 むしろ相手は魔術の達人なのだから、距離を置いて魔術で対抗しようなどという方が無謀なのだ。

 術の肝である杖とタクトを大きく失った今、彼が勝利を掴むには、もはやその戦法に身を投じる他にないように思えた。


『覚悟ッ! “イグネンプト(稲光れ)ライカン(我が拳)”!』


 ライカンが手元に三本のタクトを浮き上がらせて、マコ導師へと走って迫る。

 タクトは相手の魔術に対する保険で、きっと攻撃のためのものではないのだろう。全てはライカンによる直接攻撃のため、活路を開くための道具に過ぎないのだ。


「“テルス(風に)キュアー(凍てつけ)”」


 マコ導師もそれをわかっているのか、風に霧を乗せて、氷の障壁を幾重にも展開してゆく。

 複雑に動く冷風はマコ導師までの直線距離を遮るツタとなって実体を作り、ライカンの前に立ち塞がる。


『ウオオオッ!』


 じっと待てば、氷のツタはそのままマコ導師を飲み込み、姿をその奥へと隠してしまうだろう。

 だからライカンは立ち止まらずに、その身を凍てつく獣道へと投げ出した。


 ライカンの腕の一掻きが、脚の一蹴りが、濃霧から伸びる氷のツタをへし折ってゆく。

 同時に動く三本のタクトは一足先で振るわれて、ライカンのための活路を拓いてゆく。

 無数に、無尽蔵に、それこそ風そのもののように素早く動き、育ち、伸びる氷のツタ。

 ライカンはそれらを折って、折って、折り続けた。

 折っては進み、進んでは折る。ガラスを砕くような、石が割れるような音は、一瞬足りとも止むことはない。

 前に立ちふさがるものに、身体に絡みつくものに、その全ての障害に、ライカンはその全てに、全力で立ち向かっていた。


 きっとマコ導師であれば、もっと強力な魔術を使うことで彼を倒すこともできるだろう。

 ライカンがマコ導師の前まで辿りついたところで、最後には導師も本気を出して、そこで決着が付くのだろう。

 それでも会場は、何の工夫も戦略もないライカンの、ただ愚直な姿に押し黙るしかなかった。


 私の隣で、クラインはぽつりとつぶやく。


「道の左右に拘束が残っている今なら、マコ先生が正面から雷の魔術を放てば終わるだろうな」

「……そういうこと、言うなよ」

「事実だ」


 ところがクラインの現実的な考えに反して、マコ導師がライカンに対して致命的な術を放つ気配はない。

 ただ濃霧の中から冷風によって氷のツタを伸ばし、ライカンの進む道に氷の障害を生み出すばかりである。

 マコ導師は真っ直ぐ不器用にやってくるライカンにタクトを向けながら、その姿をじっと観察しているようだった。


『うっ、ぐぉ!?』


 やがてライカンの進撃にも陰りが出る。

 一本一本は細いとはいえ、無数に湧き出す氷のツタを全て壊すことなど、不可能だったのだろう。

 折り切れなかったツタが一本、また一本とズボンに纏わりつき、やがてピクリとも動かせないほどの数が氷そのものとなって、彼の前進の手段を奪ってしまった。


『む、ぐぅ』


 そこからはなし崩しに、ライカンのもう一本の脚が、その縛りを解き放たんと振り上げられた腕が、伸びる氷によって動きを縛られてしまう。

 唯一の望みであった磁力によって飛び回るタクトも、太い氷の枝によって厳重に封印され、ライカンの真上、かなり高い場所にまで追いやられた。


 マコ導師までは、残り五メートルほど。

 それは、あと一歩と呼ぶには少々遠すぎる距離だった。


「終わりですね」

『……やはり、無理か』

「そう落ち込まないでください。ポールウッド君は頑張りましたよ」


 両手を縛り上げられたライカンは、がくりと狼の頭を項垂れた。


『このような形で……終わろうとは』

「ふふ、ボクが相手ですからね。仕方ありませんよ」

『そう、だったのでしょうな』


 勝負の行く末は明白なものとなった。

 あとはマコ導師によるトドメの一撃か、ライカンの敗北宣言によって闘技演習は終わるだろう。

 しかし二人は壇上で、何か話しているようだった。


「ボクは……あ、えっと、私は、ポールウッド君の担任ですから。先生として、これ以上闘技演習で無茶をしてほしくはなかったのです」

『……』

「どうして強くなりたいのか、私にはわかりませんけど……それは無茶をしない、健全な身体があってこそのものではないでしょうか」

『……』

「も、もちろんこれは私の意見ですから、そう私が思っているというだけで……」

『……マコ先生』

「は、はい」


 ライカンが両目に強い黄色の輝きを浮かべて、マコ導師に顔を向けた。


『俺はこの学園にやってくるまでの人生、ずっとずっと、長い間無茶をし続けてきましてな』

「……はい」

『気術の道を進み、闘士として闘い、時には家を飛び出して流浪の修行に出たことも……生身は数え切れないほどの傷を負ったし、全機人にならざるを得ないほどの下手を踏んだことも、ありました』

「はい」

『何故ならば、そこには俺の理想があったからです。武人としての、誇り高き理想……俺はそれを望み続け、それに餓え続けた』


 狼の口が開き、鋭い牙が露出する。


「で、ですが、ポールウッド君はここでは理学の勉強に真面目に取り組んで……」

『はい、ここに来てからは変わりました。……とても魅力的だと、感じましたから。それこそ、武を志す長年の気持ちに、迷いが出る程に』

「ポールウッド君」

『なればこそ!』


 ライカンの顎が大きく開き、目は燦然と輝いた。


『なおのこと、諦めきれるものではない!』

「!」


 ライカンの大口が首のすぐ真横の氷の枝に喰らいつき、それをへし折った。

 枝はライカンの顎の間で滑るように落ちてゆき、やがてその氷の枝に封じられた金属のタクトの姿が見えてくると、彼は再び枝を噛み砕く。


「ポールウッド君!? こ、これはっ――」

『強いのは俺だ! 先生!』


 氷の塊は強く咀嚼され、破片は散り散りになって床へ落ちる。

 中に残った金属のタクトはライカンによって器用に咥えられ、その先端はマコ導師に向けられた。


『“イグネンプト(稲光れ)アスモフィウス(我が鋭き牙)”!』


 金属の弾丸を噛みしめる狼の牙。

 全機人の電子音声による発声に、顎は必要ない。

 呪文は紡がれ、ライカンの口の中でタクトは輝いた。


 “イグネンプト(稲光れ)アスモフィウス(我が鋭き牙)”。

 それは反発の磁力によって鉄を打ち出す、彼の特異性が生んだ特殊な魔術。


「――……」


 しかし磁力を帯びかけたそのタクトが、彼の顎から放たれることはなかった。

 無詠唱、それも一瞬で構築されたマコ導師の魔術が、ライカンの頭上、それもほとんどゼロ距離で、巨大な正四面体の三角錐となって現われたからだ。


 美しい三角錐の氷塊はライカンを即座に押し潰し、彼を壇上から消し去った。




「……ポールウッド君、ごめんなさい」

「勝者、“白偸霧のマコ”!」


 ライカンは、負けた。

 闘技演習は概ね誰もが抱いた予想の通り、マコ導師の勝利に終わったのだ。


 聞いたこともない規模の大喝采によって会場は最高潮の盛り上がりを見せ、そして、私達は浮き上がった腰を、静かに安蘭樹の座席へと戻す。


「……ライカン、負けたわね」


 ソーニャは淋しげに言った。


「……うん」


 私は目元に浮か浮かびそうな涙を堪えながら、それに答えた。




 私達の席のすぐ近くを、以前ライカンと戦ったデリヌスと、数人の男女が通って行った。


「やはり、ポールウッドさんでも導師相手には勝てなかったか……」

「だから言ったじゃんかデリヌス。たかが鉄の投擲の真似事ができるくらいで、足元に及ぶはずもねーって」

「しかしなジキル、あの人の武術が闘技場で残した輝かしい戦績は、かの罪深き拳闘士にも並ぶと騎士団でもだな……」

「あーはいはい、またそれか。お前も好きだねぇー」


 ライカンの連覇記録は、十連勝で止まった。

 ここ数日、闘技演習場を荒らしに荒らしたライカンであるが、いざ終わってみれば、彼に向けられる目線は決して悪いものではない。

 最初のうちこそ、挑む者達は特異科生に対する逆恨みや怒りなどを抱いて襲いかかってきたものだが、今ではすっかり、彼の実力は認められているようだ。

 帰り際の学徒達の話し声から聞こえてくる評価は、概ね好意的である。


 やがて壇上から敗者も勝者も消え去り烈戦の熱も冷めてくると、闘技演習場はそれまでの騒ぎが嘘のように静まり返っていた。

 貴重な残りの昼休みを有効に使おうと、学徒も導師も足早に外へ出てゆく。

 廊下までは激闘の余韻が話の尾を引くだろうが、それも午後の講義が始まれば、薄れてしまうものなのだろう。


 ライカンが強い想いで臨んだ闘技演習も、彼らにとってはちょっと退屈しない見せ物でしかない。

 そう思うと、私はとてもやるせない気分になった。


「うう、ライカンが負けちゃったじぇ……」

「今回ばかりは、さすがのライカンも相手が悪かったんだよ。仕方ないさ」


 しょぼくれるボウマの頭に手を置いて、ヒューゴが慰める。

 が、手を置いた所で上向きに跳ねている髪の触り心地が面白いのか、ヒューゴは頭を撫でることなく、その跳ねた髪をいじって遊んでいた。

 お前、慰めるなら慰めるでちゃんとやれよ。


「“白偸霧のマコ”。霧を生み出し、霧で襲いかかる。マコ先生は元々、撹乱と奇襲に優れた魔術を得意とする杖士隊の魔道士だった」


 クラインは眼鏡のレンズを指でへし折りながら、淡々とした口調で続ける。


「学園の導師人数が激減した影響で、ここへ送られたのだろう。しかし本来は、まだまだ現役の杖士隊として杖を振るえていたはずなのだ」

「……ライカンも軍人には勝てないか」

「場所が悪かったな。気術さえ使えれば、勝機はあったのだろうが」


 勝っていただろう、とはクラインも言わなかった。

 気術有りで戦ったところで、ライカンが勝てるとは限らないというのが、彼の予想なのだろうか。

 ってことは、マコ導師って本当に強いんだな。

 今日の闘技演習でも、全力を出し切ってはいないのだろう。




『おお、みんなここで待っていてくれたのか』

「ライカーン」

『おー、ボウマ』


 人もほとんど掃けてから、ライカンは観覧席の出口側からやってきた。

 彼の姿を見つけると、ボウマは子犬のように走り寄り、そのままひょいと持ち上げられた。


「ライカン、頑張ったなぁ。最後まで見てたじぇ」

『おう、ありがとうなボウマ。みんなも、応援してくれたのか』

「もちろん」

「ま、一度見た以上は、最後まで責任持って見届けないとね」


 人付き合いの良いソーニャだ。彼女ならたとえ本当にライカンが百連戦しようとしても、じっと観戦に付き合ってくれそうではある。

 まぁ、特異科生には午後の講義がないから、こうして昼食の心配もなしに気兼ねなく見られるっていうのもあるんだけどね。

 しかしそう考えると、今日一緒に観戦していたルウナはこの次の時間、大丈夫なのだろうか。


「あなたがポールウッドさんね」

『うむ? お、確かお前は……』


 ルウナは肩の上にボウマを乗せたライカンに近づき、胸に手を当て挨拶した。


「はじめまして、ライカン=ポールウッドさん。私はウィルコークスさんの友人で、属性科のルウナ=サナドルと申します」

『おお、知っているよ。ロッカと二度戦った魔道士だろう? その時は観戦していたからな。なるほど、一緒に見ていてくれたか。ありがとうな』

「いえいえ」


 負けたというのに、ほとんど平時のような受け答えで、ライカンはルウナとほのぼのとしたやり取りを交わしていた。

 ライカンの外装には、特に目立った傷はない。服は全身が僅かに濡れているようだが、ほとんど乾きかけているようだ。最後に強烈な一撃を受けたであろう頭部にもそれらしい外傷は見られないので、無理をしているわけでもないのだろう。

 中級保護は偉大である。


「おい、サナドル。オレの目の前で家柄に媚を売るのはやめろ」


 クラインは眉間に皺を寄せて、あからさまに不機嫌に言った。

 何が彼の機嫌をそこまで損ねたのかは不明だが、その意味をいくらかをわかっているような顔で、ルウナは首を傾げる。


「……クライン。別に私は、そのようなつもりはなかったのだけど」

「さっさと講義室へ帰れ。お前がいると邪魔だ」

「おい、クライン」


 何があったのか知らないけど、それはさすがに言い過ぎなんじゃないか。


「酷い言われよう。けど、その通りね。講義も始まるし、そうさせてもらおうかしら」

「ふん」


 クラインが嫌悪感を剥き出しにしているのに対して、ルウナはそれをあしらうような表情だ。

 何があったのか、何が悪いかは私にはわからないけど、どちらが大人に見えるかでいえば、ルウナの圧勝だろう。


 彼女はそのまま私とライカンに朗らかな笑顔で別れの挨拶を告げると、背中で束ねた藍色の髪を揺らしながら帰っていった。


「ふん、清々する」

「クライン、僕から見てもさっきのは少しひどいと思うぞ」

『そうだな。事情を知らぬ故、口出しはしなかったが……俺も今のはどうかと思ったぞ、クライン。あんなに礼儀正しい子のどこが気に入らないと言うんだ』


 ヒューゴとライカンにたしなめられて、クラインはわざとらしく鼻息を鳴らした。


「なんでもない」


 なんでもなくはなさそうだけどな。




 ライカン本人が敗北を気にする素振りを見せていなかったので、ソーニャと私も過度に慰めるようなことはしなかった。

 残念だったな。よくやったよ。相手が悪かったな。

 そういう月並みな、だけど妥当な励ましを彼に送りながら、学園の中を歩いてゆく。


 やがてクラインが“調合せねば”と離れ、ヒューゴが“手伝いを任されていたんだった”と別れを告げ、最後にはボウマも“安心したら腹が減った”とどこかへ消えてしまい、学園の第五棟の玄関に着く頃には、騒がしかった一団も私とソーニャとライカンだけになっていた。


 彼の事情を知る者だけの三人組。

 知っているだけに、今日の闘技演習の敗北について考えこんでしまい、口数は減る。

 やがて骨噛みの沈黙を破るように、ライカンが小さな声を洩らした。


『……最後の、突撃でな。マコ先生といくらか言葉を交わしたのだ』


 それは闘技演習が終わってから今までで、最も低い調子の声だった。


『事前に、俺がこの闘技演習で負けた場合は、一週間の私闘禁止を言い渡されていたのだが……それについて、慰められるような言葉をかけられてしまったよ』

「……ライカン」

『マコ先生らしい、純粋な優しさに満ちた言葉でな。それは、闘技演習で無茶をする俺への気遣いに他ならないのだが……』


 棟の外にライカンが踏み出した。

 ぽつりぽつりと一滴ずつ降るようなにわか雨の中、彼は腕を組み、曇天を仰ぐ。


『しかし同時に、ただの非力な学徒に対する言葉でもあったのだ』

「……」


 疎らに舞い降りる雨粒に顔を晒す彼のその姿は、流せぬ涙を雨に紛れさせているように見えた。


 失恋。

 力と力でぶつかり合ったからこそ見えたマコ導師の心に、ライカンは自らの恋の敗北を実感したのだろう。

 相手が自分に抱く想い。自分が相手に示したい力。その両方に打ち拉がれて、彼は今、泣いているのだ。


 私はソーニャと顔を見合わせた。

 ソーニャもやはり、どこか淋しげな顔だった。


 最初こそ“なんだその恋心は”とか、“絶対に無理だ”とか思っていたライカンの恋路であったが、いざこうしてその終端へやって来てみれば、実に悲しいものである。

 だって、そうだろう。

 彼はただ、たった一人の憧れの人に振り向いてほしいがために、今まで戦ってきたのだ。

 それがまさか、このような形で終わってしまうなんて。


「……ライカン、でもさ、」

『だが』


 彼の眩しい眼光が、こちらに向く。


『今日は負けてしまったが、俺は確かな手応えを感じたぞ』

「え?」

『確かにマコ先生は強い。視界を阻む霧に、一瞬で現れる攻撃。得物を封じる堅実な魔術の行使……どれも気術無しで相手取るには、厳しいものばかりだ。しかし!』


 ぼん。

 ライカンの美しい正拳突きが、風を裂いて雨粒を弾き飛ばす。


『俺は必ず、それを越えてみせる!』


 上段への二段蹴りが、回し蹴りが、かかと落としが、空から落ちる涙を砕く。

 次々に攻撃を繰り出す彼の演舞は、私達の暗い気持ちをも、理由なく吹き飛ばしてゆく。


『今よりもずっとずっと強くなって、いつの日か必ず、マコ先生をも倒してみせよう』

「……ライカン」


 高く蹴りを掲げる彼の勇姿は、やっぱり、私達がよく見るライカンのものであった。

 明るく、真っ直ぐで、力任せ。

 素直過ぎで武道馬鹿なライカンだけど、けど、やっぱり彼にはそれが似合っている。


 この一匹狼にはきっと、慟哭も遠吠えも似合わない。

 孤高に咲く一輪だけの花を目指して一進一退。ライカン=ポールウッドという男には、愚直に努力と研鑽を続ける姿こそが、相応しいのだろう。


「……大丈夫、みたいね」

「ふふ、そうだね」


 今はまだ叶わない恋だろうし、これからも実ることはないかもしれない。

 それでもライカンは未来にある挫折にも、きっと耐え続けるに違いない。

 そんな予感に、私とソーニャは笑いあった。


『しかし……』

「ん?」


 ライカンが腕を組み、思慮深く顔を俯かせる。


『今日のマコ先生、綺麗だったなぁ……』

「……」

『服装のせいもあってか、色っぽいというか……艶やかというか……』

「……」

『あのマコ先生になら、上級保護でズタズタにされるのも悪くないかもしれんな……』

「……」

『いやむしろ、ズタズタにされてみたいというべきか……』

「ソーニャ、お昼どこで食べようか」

「そうね、前にロッカが入りたがってた所に言ってみましょうか」

「お、良いね、行こう行こう」


 私達は恋に悶え続けるライカンを残し、学園を後にした。

 うん。まぁ、私達にやれるのはここまでだ。

 後はライカンがやれると思う所まで、好きにやればいいと思うよ。


 頑張れライカン。

 負けるなライカン。


 あーあ、グログ飲みてえ。


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