函012 放たれる火球
クラインとヒューゴが並んで座り、私とボウマもその隣の席についた。
ベンチは年季の入った赤い安蘭樹で、固いながらも座り心地は悪くない。
「そういえばさぁ。ロッカのジャケットって、オイルが塗り込んであるのかぁ?」
「うん。匂いに癖があるんだけど、ボウマは苦手?」
「んなことないよ。あたしこういう油っぽい匂い、落ち着くから好きー」
くんくんと鼻を動かすボウマが子犬のようで、私の方がより一層癒やされる気持ちになった。
……思いっきり抱きしめたい。
自分に妹がいたなら、ボウマのような元気な子がいいな。ボリュームのあるモサモサした赤髪を眺めてそう思う。
「今日の闘技演習は属性科三年のAクラスか。まあ、そこそこの連中が揃っているようだ」
「Aクラスって?」
私の疑問に、クラインがフィールドを指さす。
「あそこで長杖を傍らに、馬鹿みたいにぼーっと立っている茶ローブの男がいるだろう、奴の二つ名は“流星のアイオ”。長い杖から巨大火球を連続して打ち出す戦いを得意とする、遠距離型の魔道士だ」
「はあ……」
「次に、壁に寄りかかって愚かにもナッツを齧っている……今まさに導師に注意を受けている、いかにも頭の中身が入っていなさそうな、トゲ付きメイスの女。奴の二つ名は“パイク・ナタリー”。鋭利な鉄魔術を得意とする、馬鹿だがそこそこ腕の立つ魔道士だ」
「ふうん……」
「そして端の方に座っている背の小さな白髪の子供、奴は一年繰り上げ試験に合格して特進した、近年稀に見る逸材と今最も調子に乗っている魔道士、通称“激――」
「結局あいつらは何なのさ」
遠回りしすぎている話の腰をへし折って聞く。
それに対して、クラインは淡白に返した。
「天才の中の天才だ。あいつらの中ではな」
天才。好きな人種ではない。
やがてフィールド上が静かになり、何かが始まるらしい雰囲気になったので、私は前に注目した。
「これより、“流星のアイオ”および“弩針のデリヌス”による、中級保護の闘技演習を行う!」
壮年の導師の大きな一声に観覧席の注目が集まる。
フィールド上にいた学徒たちも端へ寄り、中央の広い石壇には二人の若き魔道士と、声を上げた導師のみが立っている。
「では、お互い魔導盤に手を置きなさい」
「はい」
「分かりました」
フィールド中央から二十メートル分離れた床には、左右に二つの黒い石版が埋め込まれている。
「今、二人が床を触ってるけど、あれは?」
「なんだウィルコークス君、何も知らないのか」
「まぁまぁクライン、この学園独自の機能なんだ、彼女も知らなくて当然だろう」
「そうだぞボンクライン、ちゃんと丁寧に説明してやれぇ?」
クラインと会話するたびに神経を逆撫でされる私にとって、ボウマとヒューゴの加勢は有り難かった。是非もっと言ってやってほしい。
しかしそんな二人の言葉も気にせず、クラインはあくまで自分のペースで説明を始める。
「あれは影属性の転移を発動させる石盤だ。石に魔力を送り込んだ者を、特定の条件が整った際に石壇の外側に転移させることができる」
「特定の条件?」
「壇上の魔道士に与えられた特殊な魔力膜が破れた際、戦闘中の魔道士を強制的に転移させる。つまり、大きなダメージを受けそうになった者が、フィールドから退場する仕組みだ」
大怪我をする前に魔道士を退避させるこの機構は、石壇の中に埋設された大規模な魔法陣によって成り立っているのだという。
全力の魔術戦が行われても、壇上の魔道士は重傷を負う前に外へ転移させられるので、最悪の事故だけは防ぐことが出来る。
転移を発動させる基準に初級、中級、上級があり、初級はほんの些細なダメージでも転送が行われ、中級では怪我に繋がりかねない程度の衝撃やエネルギーに反応する。一般的にはこの中級の保護ルールの下で演習が行われる事が多い。
上級はちょっとした衝撃では転移が行われず、場合によっては死ぬ事すらもある、非常に危険な転移裁定基準。こちらはめったに使われることはない。
ただし、中級でも多少のかすり傷を負うことはあるようだ。
機構を維持するために年間に少々の魔石を要するものの、魔道士を目指す学徒にとって戦闘経験は不可欠。
日頃の魔術の成果を試し、友人との力の差を量る。
学園での理論と実践の集大成が、この闘技演習場での模擬戦であり、属性科の学徒達が最も重視する場所なのだ。
「石壇の平面修復も、同じく埋設された魔法陣により自動で行われる」
「へえ、便利なもんだね、魔術って」
「はは、そんなこと言っても、ロッカも魔術を学ぶ一人じゃないか」
「私はいいよ、そういうのは」
「そうかい? 目指してみる価値はあると思うんだけどな」
導師の姿も消え、ついに広い円形の石壇には対戦する魔道士が佇むのみとなった。
静けさの中で向かい合うのは、若き二人。
アイオ=テルニュス。
胡陸系の浅黒い肌と赤い短髪をもつ魔道士。
理性的な瞳は、まっすぐ正面に立つ友人を見据えている。
二メートルを超える長杖の頂には、かがり台を模した大きな魔金があしらわれている。彼が得意とする火の属性術のシンボルなのだろう。
デリヌス=マイングルード。黒いローブを身に纏う、端正な顔つきの魔道士。
アイオの長杖ほどではないが長めのオークステッキを持ち、その先には錨型の魔金が厳かに輝いている。
鉄の魔術を多用する彼に相応しい装いと言えよう。
……と、クラインは頼んでも居ないのに説明してくれた。
いや、ありがたいけどね。
二人の間には十分な距離があったが、魔道士にとって距離は大きな問題ではないらしい。
力量によっては、どれほどの距離を置いたとしても無意味だとも言われているそうだ。
格闘術でも剣術でもない、魔術戦であるが故の遠間からの立ち会い。
お互いの緊張した表情を読む眼差しが、鋭く細められた。
「……闘技演習、開始!」
導師の大きな声によって、戦いの幕が切って落とされた。
先に大きく動いたのは流星のアイオ。
だが杖を振るでも、詠唱をするでもない。
彼は背中を見せて、素早く後ろへと駆け出した。
「あ……クソッ」
逃走する姿に焦ったのは、対するデリヌス。
彼が試合開始と同時に素早く詠唱を始めたのは、戦いのセオリーではあっても得策ではなかった。
相手は“流星のアイオ”。彼は判断を誤ったのだ。
後ろへ走るアイオによって、二人の合間は初期位置よりも更に開いてゆく。
「? なんだあの長い杖の奴、アイオっていうのか。いきなり逃げたぞ」
「逃げ腰じゃあ見てる側としちゃぁつまらんにぇー」
私やボウマからしてみれば、その疑問は当然だ。
「馬鹿共め、見ろ。確かにアイオは背を向けて逃げているように見えるが、あの距離だ。ああまで離れられると、並の魔術では……特に初等術に近い小手先のものでは、なかなか当たらない」
クラインの言う通り、アイオの間合い作りは対戦者のデリヌスにとっては苦手とするものらしい。
彼の表情が、立たされている状況の厳しさを、ありありと表しているように見えた。
まずデリヌスが開始とともに唱えようとしていた魔術は、相手を牽制するための軽い鉄の術、“スティ・フウル”という呪文。
杖を振り、大きな鉄の輪を放る簡単な術のひとつらしい。
生み出される物体は大きく、放った際の飛行も安定するが、遠距離には向かない形状の魔術。
あくまで中距離、近距離で役立つものと言えるだろう。
「デリヌスは詠唱を途中で破棄したな。接近しながらでは集中も途切れる。あそこから放ったとしてもアイオに当たることは無いだろう。ならば次の術にいくはずだが、少々苦しい展開になるか」
魔道士アイオがフィールドの端に到達し、間合いは三十メートルにまで膨らんだ。
ここまでの間合いになると、鉄の術の投擲能力でも命中精度に大きな不安が出てくる。
自分の魔術が有効でない状況は好ましくない。
デリヌスはとにかく、アイオに詰め寄ることを考え、走りだした。
「“イアニオ・ウル・テルス”!」
端を握られた長杖が大きな弧を描き、下から上へと振られる。
先端の鉄飾りが床の石壇を擦り、火花が激しく散る。
すると、かがり台の飾りから赤い輝きが生み出され、光が膨張し、完全に振られると共に大きな炎となって、斜め上方へと勢い良く撃ち出された。
「まずい……!」
一メートルほどの巨大な火球が弧を描いて、走るデリヌスを狙っている。
だが描かれる放物線は鋭く、高さもないために直撃する針路ではない。
いや、だからこそデリヌスは焦り、咄嗟にその身を真横へ転がせた。
煌々と輝く火球はデリヌスよりかなり手前の床に着弾し、炎を振りまいて大きく爆ぜた。
純粋な爆風ではないものの、大きな熱の解放によって、床に伏せたデリヌスの髪が僅かに揺らされる。
魔力の炎はまだ床の上で広がり、燃え上がっていた。
真横へ逃げずそのまま走っていれば、デリヌスは火炎の中に突っ込んでいたことだろう。
彼の頬に、冷や汗が垂れてくる。
「“イアニュオス・ウルズ・テルズ”」
「……!」
だがデリヌスには安堵する暇など与えられていない。勝敗が決するまで、闘技演習は終わらないのだ。
続けざまに、振り子のような動きで大きく振られた杖のかがり台から、新たな火球が宙へ飛翔した。
今度は三つの火球。
両端の二つはデリヌスより手前に着弾するだろうが、うち一つは明らかにデリヌス本人を正確に狙ったものだった。
迫り来る巨大な熱源。
詠唱のための精神集中も、反撃のための足がかりもままならない。
乱れてゆく思考の中、デリヌスはとにかく、必死に逃げるしか無かった。
「……すごい、あんな大きな炎が飛んで……」
私は赤い炎で眩しくなりつつあるフィールド上の光景に目を奪われていた。
闘技演習場だから魔術を使った試合でもやるのだろう。という簡単な気持ちで見ていたが、そんなものではない。
殴り合いの野蛮な喧嘩以上の迫力。
この場では命のやりとりに近い危険な戦闘が、大勢に見守られながら公然と行われていた。
「流星のアイオに対して防戦……いや、逃げか。愚かだな。そのままでいればフィールドはどんどんアイオの火環境に包まれるぞ」
「逃げ場が、なくなるのか」
「そうだ。逃げに逃げて炎が広がり、思うように動け無くなった時が、あいつの負ける時だろう」
アイオは休むこと無く杖を振り続けた。
強い遠心力を利用したカタパルトのような杖の動きは、生み出される火球の魔力核を力強く放り出し、長大な攻撃射程を実現可能としている。
降り注ぐ巨大な火球による連続攻撃。
流星のアイオの得意とする、単純ながらも破り難い戦術であった。
「あ……」
やがて弩針のデリヌスはフィールドの端に追い詰められた。
前・中・後、三つの距離をカバーする炎の三連星が、残酷なほど速い速度で迫り来る。
手で顔をかばう間もなく、火球はデリヌスの体を飲み込んで、床に落ちて爆裂した。
「そこまでッ! 勝者“流星のアイオ”!」
豪快な決着に、闘技演習場は大きく湧いた。
火球に呑まれたデリヌスは、フィールドから忽然と姿を消した。
灰も残らず燃えたわけではない。無事に転移理式が発動し、無事に観覧席側の石版へと転送されたのだ。
「デリヌス=マイングルード、身体に異常はありませんか」
「……ない」
近くにいるのは、緊急救護担当の導師ただ一人のみ。
彼は、先ほどまで声援をあげていた観客や同期らの遠く離れた場所で片膝をつき、呆然とした顔でそこに佇んでいる。
「……負けたか。失態だな……」
僅差でもなんでもない、疑いようのない完全敗北である。
デリヌスは石版の上でしばらく項垂れていた。
それに対して、フィールドに残ったアイオへは惜しみない喝采が送られている。
「おう、流石は“流星”! 見事な大火球だったぞ!」
「また一段と精度が増したんじゃないか!?」
歓声は同じ属性科の学徒達より投げかけられるものだった。
声の中央に佇むアイオは、小恥ずかしそうに頭を掻いている。彼は口下手なようだ。
勝者は舞台で祝福され、敗者は隅で孤独になる。
安全に配慮した機構は、同じ学徒であれども勝者と敗者の違いを明確に区別する空気を生み出していた。
残酷だけど、これが勝負ってやつか。
「アイオの圧勝だったか。冷静に立ち回って戦えば苦でもないというのに、考えが足りなかったな」
「……というか、少しは黙って見てらんないのか、あんたは」
「事実だ」
今の戦闘中、クラインはずっと、駄目出し混じりの実況を続けていた。
喋る内容が的確だとしても、純粋に見ていたい私にとっては少々疎ましいものであることは言うまでもない。
そりゃあ、わからないことを説明してくれるのは助かるけど。
「魔術戦の研究はオレの大事な楽しみのひとつ。誰にも邪魔はさせないぞ」
「研究ねえ……そういうクライン、あんたはさぞかし強いんだろうね?」
食って掛かる目を見ずに、クラインは即答する。
「ああ、強いとも」
自信有りげでも、なさげでもない。
そうであって当然というような、無機質な即答だった。
私の記憶の隅にいるような、眼鏡を掛けた頭でっかちな男の挙動不審なイメージはない。
その威勢はいい。
だからといって私は、クラインに戦う実力が伴っているとも思えない。
私はクラインが杖を持っている姿を見たことが無いし、魔力による身体強化が出来そうにも見えない。
まぁ、何が不満かって、要するに今朝のいざこざもあるし、“評論家ぶりやがって”と一喝して、今までの鬱憤を絡めて一発殴ってやりたいだけなんだけど。
どうにかしてこいつを合法的に殴れないものだろうかと、ちょっと過剰に煽っているのだ。
「強い、か。言うじゃないか。なら今度そいつを見せて……」
「次の闘技演習が始まるぞ、黙れ」
軽く流され、本当に殴りたくなった私であった。
「これより、“雷鎖のジキル”および“冷徹のミスイ”による、中級保護の闘技演習を行う!」
石壇上の炎が消えると共に、間もなく次のカードが宣言された。
華やかな戦いの場とはいえ、今は学びの時。観覧席も戦う側も、余韻に浸っているほど暇はないのか。
「忙しいね」
「時間の都合があるからね、まぁダラダラやられるより良いよ」
「確かに……あ、今壇上にいるの……女も参戦するんだ」
今度フィールドに現れたのは、若い男と若い女。
中肉中背、銀のように綺麗な白髪の青年と、濃紺の長い髪を持つ少女の組み合わせだ。
青年の目は鋭く、対戦相手に恨みすら抱いているような苦々しい形相であるのに対し、少女は至って平静な様子を保っていた。
戦うのは当然であるし、これから行われることに違いはない。
ミスイと名を呼ばれた少女は、そんな事実だけを受け止めたような無感情な顔つきのまま、真っ黒な木製の長杖を握りしめて、身動き一つしない。
私には目付きの鋭いジキルという男以上に、相対する少女の方が薄気味悪く感じられた。
「おいクライン、こういうの詳しいんだろ? あっちの女の子は強いの?」
「強い」
「……相手の男よりも?」
「見ていればすぐにわかる。準備が終わったようだ。少し黙っていろ、ウィルコークス君」
促されるまま壇上へ目線を戻す。
「……」
「!」
私の背筋に冷や汗が伝った。
今にも始まろうという空気の中で、杖を握る壇上の少女は顔だけを捩り、こちらをじっと見つめていたのである。
暗いロングのローブに、紺色の長い髪。
深海のような底知れない闇色の瞳。
呪いの人形に見つめられたような気色悪さが、寒気となって私を襲う。
「闘技演習、開始!」
気味の悪い静寂は、導師の声によって破られた。
全神経を開始宣言に集中していた雷鎖のジキルが、閃光の如き速さで杖を振る。
ミスイは杖を握ったまま、視線を観覧席に向けたまま動かない。ジキルの先手は明らかだった。
「“スティグジム”!」
振られる杖が、顕れた鉄針を前へ押し出し、放つ。一般的な鉄の投擲術だ。
小さな針が纏う高圧の雷気は、衣服に掠っただけでも相手の意識を奪うには十分な威力だろう。
試合終了級の力を持つ針が迫る中、よそ見をしたままのミスイは独り言でもこぼすように、もごもごと口の端を動かした。
「“ラテル・ヘテル・コイザ”……」
彼女が小さく呟くと共に、杖からおびただしい量の水が溢れ出る。
溢れる水はすぐに見えざる流れに飲み込まれ、蛇のようにうねって針を飲み込んだ。
針が少女を貫くかと思われた間際の、一瞬の出来事である。
「ああっ!?」
高さ二メートル近くにもなる濁流の障壁は渦を巻き、ミスイを中心に勢い良く回り続ける。
ジキルが放った針はどこにいったか、もはや目で見ることは出来そうもない。
強い流れが生み出す激しい飛沫は、霧となってジキルの方にまで迫った。
水滴と風が壇上に吹き荒れ、ジキルのケープが水を含みながらバタバタと揺れる。
「く、あんな状態から即発動なんて、ふざけんなよ……!」
この時点ですでに、ジキルの得意とする雷と鉄の術のうち、雷の効力は絶望的となった。
相手が生み出す水の飛沫は空気中にも充満し、その中ではあらゆる魔術の効力が減衰してしまう。
異なる術者の魔力が干渉することで起こる術の対消滅、対抗。
水の術が最も得意とする、魔力環境の物量制圧である。
「なんだあれ、水の竜巻か? あんな事までできるのか」
私は身を乗り出し、食い入るように戦いを見つめていた。
話程度でしか知らないような高等な魔術の実演、しかも対人での実践に驚きを隠せなかったのだ。
水をコップに注ぐ程度の人間は数いれども、濁流を操り渦を保持する程となるとそういないだろうということは、私でもわかる。
観覧席から見下ろせるフィールドでは、渦潮が巻き起こす飛沫と強風に衣服をはためかせたジキルの姿と、円を描き流れ続ける濁流の壁の中で悠然と佇むミスイが見て取れる。
ジキルは新たな術を操ろうと杖を構え何かを行っていたが、ミスイは相手の姿など一切見ていない。
「……」
ただただ静かに、開始前と変わらずに、私のいる観覧席を見つめているのだ。
「おい、なんであの子はこっちを見てるんだよ」
「あの女はよそ見をしても大抵の相手に勝てるからだ」
「そうじゃなくて……」
「オレは知らん、奴が勝手にこっちを見ているだけだ」
私とクラインが言い合う内に、膠着した戦況が動く。
ジキルがフィールド上を僅かに移動して、静かに杖を掲げたのだ。
それはジキルの初期位置より数メートルほど右へ迂回した場所。
彼の行動には、ミスイには濁流越しには移動した位置を悟られないであろう、という思惑が見て取れる。
「馬鹿め、奴は水の特性を把握していないのか」
それに対してクラインの呆れたぼやきが入るが、当然ジキルには届かない。
「防御力だけで勝てると思うなよ……“ティレブ・シェット”」
やがて十分に集中して術を組み上げたジキルが、魔力の篭った杖を振り下ろす。
ただ単純に杖が振られるだけではない。
振った速さと同じ速度と力で、生み出された巨大な鉄の杭が、正面へと投擲されるのだ。
魔力核を投げ飛ばし、その上に術の形を覆い被せることで、結果として巨大な質量の射出を可能とする魔術投擲。
炎や水にとって有利なこの技術は、それ以上に“鉄”という属性と相性が良く、この鉄の属性術をより強力なものとしている。
鉄が、単純な攻撃魔術の中で最大威力を持つ理由でもあった。
重量百数十キロにもなる鉄の杭が空を飛ぶ。
杭は、容易に濁流を突き破るだろう。
その中にいる術者を貫くなり、押し潰すなりするには十分すぎる破壊力だ。
「……」
杭が濁流に入り込む。
ミスイは来ることがわかっていたかのように、即座にそちらへ杖を向ける。
あくまで顔は、観覧席に向けたままで。
「“キュア”……」
迫る鉄杭へと紡がれた短い詠唱は、水属性の初等術の一つ。
水分を凍らせるだけの、ごく単純で、簡単なものだった。
生物に対しては生体魔力が干渉するために効果がほとんどなく、攻撃としては転用し難い魔術だ。
だが、自ら生み出した魔術の水ならば、抵抗もなく簡単に凍らせることが出来る。
それがよく訓練されたものであれば、なおさらだ。
「!?」
杭が、いや、杭の周囲の水分が大きく、瞬間的に凍てついた。
鉄を内包する巨大な氷は、その表面積の広さゆえに、濁流の力に押し負ける。
濁流を貫くはずの鉄杭は氷と水によって速力を失い、流れに呑み込まれたのだ。
「まじか――」
そして濁流は、巨大な氷をいつまでも流れの中に閉じ込めはしない。
一時は内側へ迫った鉄杭も、激しい遠心力によって外側へと押し出され……。
流れを突き抜けて、逆にジキルへと襲いかかった。




