函011 望まれる一報
今日も講義室に特異科学徒が集まっている。
マコ導師が来るまでの間、最年少のボウマは特にはしゃぎ騒いで、最年長のライカンはそれを抑え……ることなく、遊び相手になっていた。
静かに本を読むクラインなどもいれば、ぼーっとしているだけのソーニャもいたりと、各々好きなように待つ時間だ。
無駄に多い席の中で、私は最初に指定された席から動いていない。
最後列だから皆の輪に混ざりにくいんじゃないかと内心でやきもきしていたけれど、前の席に人懐こいソーニャが居たことは幸運だった。一人でも友達がいてくれるなら、特に苦ではない。
彼女のおかげで私の学園生活の出だしは好調だ。
それに、最近はソーニャの他にも話す相手が増えてきた。
「やあみんな、おはよう」
彼だ。
始業開始時間一分過ぎに悠々と講義室に入ってきたのは、導師ではなくヒューゴ=ノムエルである。
ヒューゴは講義中は静かに鉛筆を走らせているし、学習用の資料教科書や自前の杖の準備も忘れない、ごく真面目な好青年だ。
ただ少々時間感覚が鈍いらしく、ちょっとした遅刻の常習犯として、マコ導師にやんわりと咎められる事が多い。
しかし彼の柔らかな人当たりは、差し引きでそんなことを気にさせない魅力があった。
「おうヒューゴ、おはよー!」
「おはようボウマ、また寝癖立ってるよ?」
「え? まじか! んぎぎぎ」
ボウマの寝ぐせなどいつもの事だし、今日は珍しく寝癖など無かったのだが、無用なアドバイスでボウマの髪に更にもう一本の総が立ってしまった。
それを見世物でも見るようにけらけらと笑いながら、私の方へ軽く手を上げ、下心のない微笑みを投げかけた。
「やあロッカ、おはよう」
「ああ、おはよう」
ヒューゴに対しては、挨拶で右手を挙げることに抵抗もない。
どこか心を許せる、優しい男。
惚れているわけではないが、彼との会話も日々の楽しみの一つである。
ヒューゴ、ライカン、ボウマ。この三人が、私に魔術の道に進む勇気をくれた。
あの焚き火の夜以来、私は彼らとより更に親密になっている。
友達と胸を張って言えるくらいには、きっと心の距離が縮まったのだろう。
彼と挨拶を交わした時に、前の席のソーニャが何故か期待するような「おや~?」とでも言いたげな顔で私へ振り向いていたんだけど、いつまで経っても彼女の意図が読むことができず、ついにマコ先生はやってきてしまった。
……謎だった。
「みなさん、おはようございます」
騒がしい講義室内も、マコ導師の入室によって静かになる。
やんちゃ盛りのボウマでさえ、その元気さは失われていないものの、ちゃんと席にはつく。
授業態度はどうあれ、マコ導師はみんなから慕われているらしい。
「ええと、今日は午前中に第二棟十階の闘技演習場で、属性科の実技を見学します」
へえ。
今日の講義は、ここではない別の場所で行われるようだ。
初めての講義室外活動、私の心が少しだけときめいているのがわかる。
ただの見学なら、座学のように難しく考える必要はない。
ならば、あとは見る内容次第である。ものによっては楽しめれば良い時間になるだろう。
しかし、私はまだ気づいていない。
今この時、講義室内の空気が一変して硬くなった事に。
『闘技演習場か』
ライカンが呟いた。
「闘技演習場ね」
ヒューゴが呟いた。
「闘技演習場!」
ボウマが色めき立った。
「闘技演習場!」
クラインが勢い良く立ち上がった。
「な、何?」
私は驚きのあまり、席から半分ずれて倒れかけた。
「しかも今日はAクラスか。こうしてはいられんな、すぐに行かなくては」
私はこの見学授業を、ただ移動して見学するだけのものと軽く考えていた。
その軽い気構えは、数年前までの特異科では一般的な反応であり、正しいものだったらしい。私は正常な特異科学徒だ。観客席でただぼんやりと眺めるだけの楽な授業、少しだらけた自然体で構えるのが、最も普通と言える。
ただ、後から知ったことなのだが、ここ最近は事情が違ってきたらしい。
「マコ先生、オレは先に闘技演習場へ移動します」
「いいですけど、廊下は走らないでくださいね?」
「もちろんです。では、お先に失礼!」
いつもより数倍以上はっきりとした滑舌と声量で、クラインは本も置き捨てて講義室を飛び出してゆく。
ドカドカと大理石の上を早歩きするブーツの底の音が、しばらく遠くからも聞こえていた。
「もう、走っちゃだめって言ってるのに……」
「マコちゃん! あたしらも行こうじぇ?」
「あ、そうですね。すぐに移動しちゃいましょうか。ユノボイド君を待たせないように」
「クラインはいいですよ、勝手に特等席に座らせておきましょう」
豹変したクラインに呆気にとられていた私だったが、ぞろぞろとゆっくり動き出した人の流れに乗り遅れないよう、慌てて席を立つ。
そこでふと、目の前で伏せる彼女のことが気にかかった。
「ソーニャ、起きな。移動だってさ」
「ん~……」
前の席で机に突っ伏すソーニャの肩を揺らすが、前向きな応答はない。
その間にも続々と学徒たちは講義室を後にしてゆく。
「ソーニャ、サボるの?」
「十階にまで登ってらんないわよぉ」
「そう……私、ちょっと気になるから行ってるよ?」
「んむぅ」
結局、私は眠そうなソーニャを置いていくことにした。
学園の五つの棟は、中央に聳える導師や学園長のための棟が最も高く、十階建てになっている。
そこから横の棟へゆくに従って、階数は変わらないが、高さが段々と低くなってゆく構造だ。
属性科、独性科、理式科などの重要学科は第二、第三棟。
特異科、理系地学科、気学科、魔族科、魔具科などの少数分野は端の第四、第五棟。
棟同士のいくつかの階は棟連絡橋によって繋がれ、隣り合う棟へ移動が可能である。
クラインとソーニャを除く特異科の学徒たちは、三つ隣の第二棟を目指し、棟連絡橋を渡り歩いている最中であった。
そんな道すがら。
「あれ? 水の音がする」
マコ導師を先頭に棟連絡橋を歩いている私は、流水の音を聞き取った。
雨だろうかと外を覗くが、大きな窓の外は曇り。雨は降っていない。
だがしかし、チョロチョロと流れる水の音は気のせいでもなく本物だろう。
「この水音は、水路の音だよ」
私の疑問に答えたのは、流木から削り出した大きな杖を抱えるヒューゴだった。
「水路? ここって四階でしょ」
「この学園の機構なんだ。屋上と外壁に、雨や朝露を溜め込んでおく仕掛けがあるんだよ。この音は、それだね」
ヒューゴが詳しく語ってくれる。
古い石造りの学園といえども、歴史だけだと侮ってはいけない。
ミネオマルタ統治時代、魔術最盛期に造られた最先端の機構が、この建物には盛り込まれているらしい。
当時の職人たちによる美しい彫刻が施された石の外壁、水を呼び込む緩いドーム状の傾斜の屋上。
彫刻の突起が朝露を捉え、屋根が雨水を受け、一度建物の内部に水分を蓄える。
取り込まれた水は柱や壁の中に埋設された管を通して流れ、建物内の噴水として吹き出されたり、花壇や壁面のプラントに水を与えるなどして、ゆっくりと流れる。
水は各所で簡易水道、水洗トイレ用の下水などに分配され、不足した場所に蓄えられて、利用されるのだ。
驟雨や霧の多いこの地方でしか造ることのできない、自然と一体の水の機構。
今や修繕も難しいと言われる、昔の職人が設計した神秘の水路建造物。
それが、ミネオマルタ国立理学学園のもうひとつの姿なのだという。
ちなみに全ての棟のドーム状の天蓋は総石造りなのだとか。
魔金も入っていないのに半球状の屋根を造るだなんて、一体どんな工法だったのやら……。
「棟連絡橋に流れてる水は、均等分配のためのものだね。全ての建物に水を渡らせるためにこうしているんだ」
「へぇー、すっごい建物なんだな……」
「そう、ただ高いだけの建物じゃないんだよ」
「ほぉー……」
改めて神経を集中し、水の音に耳を傾ける。
耳を澄ませてみれば確かに、滑らかな石の道を旅する水滴の、小さな段差から落ちる時の曇った反響音が、涼やかに響いているのがわかった。
「綺麗」
「この音がまた、本を読んでいる時に聞いていると落ち着くんだ。まるで小川のようでね」
「雨の日はごーごーうるさくて最悪だけどにぇ」
「あっ、こらボウマ、台無しにするなよな」
「へへー」
私はしばらく無言で、水のやってくる方向を意識しながら歩いていた。
第二棟十階、闘技演習場。
そこは大きなドーム状の屋根に覆われた、ひとつの広い空間である。
「わお」
高い天井と、ただただ広い空間。
中央の平らなフィールドに、その外周を囲む数メートルの壁と、すり鉢状の観覧席。
学園の設備とは思えないほど厳かな巨大コロシアムだ。
フィールド上には既にケープやローブを着用した魔道士学徒らが集まっており、杖やタクトを小脇に抱え、何かの準備をしているらしい。これから始まる戦いに向けての備えなのだろう。
初等学校では経験しなかった実技の物々しい光景に、少々気圧される。
楽隊用の広いスペースが取られている観覧席へ出た特異科一行はその場に整列し、マコ導師に人数を数えられている。
先走ったクラインは数えないとして、特異科学徒の人数が合わない。マコが指で数えるまでもなく、欠けた一人の常習犯はすぐに判明したようだ。
「エスペタルさんは、来てないんですね」
「エスペタル……? あっ、はい。ソーニャは来ないらしいです」
サボりを告げ口をするつもりではなかったが、最初からバレているならば理由を話しておくべきだろう。
が、マコ導師は一切怒る素振りも見せず、静かに頷いただけだった。
「そうですか……わかりました。ウィルコークスさん、ありがとうございます。……じゃあ皆さん、ここだと次に来る人の迷惑になっちゃうので、普通の観覧席に移動しましょうか」
ソーニャの不在には特に触れず、特異科の学徒一行は席が密集する場所へと移動を始めた。
見世物ではなく授業の一環であるためか、観覧席はほとんどが空席だった。
スペースはあるので、特異科の学徒がひとかたまりになったとしても特に問題なく座れそうである。
ただ、わざわざ密集して座る必要はない。それぞれが思い思いの人と一緒になって観戦する状態になるわけだ。
「クライン、随分と早いスタンバイだな」
「ヒューゴか、そろそろ始まるぞ」
特異科の学徒が適当な場所に腰を下ろす中、ヒューゴは少し離れた場所に座っていたクラインに近づいてゆく。
ソーニャが不在である私としては、次点で仲のいいヒューゴの近くを保持しておきたい所なのであるが、クラインがいるとなると……という些細なショックや葛藤などはさておき。
ヒューゴとクライン。
背の高い爽やかな青年と、猫背で癖っ毛のある眼鏡男の組み合わせは、とても新鮮に映る。
人当たりの良いヒューゴと、人付き合いという概念そのものを学術的側面から否定しそうな性格のクラインとが仲がいいなど、全く想像もできないのである。
「おーいロッカぁ、起きてるかー」
「え? あ、ごめんボウマ、何?」
そんな二人の姿を眺めているうちに、オイルジャケットの裾を引っ張られていることに気付いた。
後ろではボウマが白い八重歯を見せながら、にかにかと笑っている。
「どうせならクラインたちと一緒に、演習見よーじぇ?」
「……」
クラインが居るとはいえ、一人でぽつんと見るよりはマシだろう。私は彼女の提案にご一緒することにした。
しかし、と疑問に思う。
クラインという嫌味な男は、クラスメイト達から嫌われるような奴ではなかったのか、と。
ヒューゴといいボウマといい、変に慕われているような気がしてならない。




