籠018 荒ぶる風雨
まず聞こえてきたのは、水が弾ける音だ。
しかし、樋から滴る雨粒が落ちるような風情あるものではない。
それは同時に響いた岩の砕けるのと相まって、骨が折れるような響きだった。
落盤事故の際、右腕で鳴った音にそっくりだ。
「う、ぐっ……!」
そして今私が取っている体勢は、小さい頃に激怒した父さんから逃れ、小さな部屋を出てその扉を背中で押さえた時のような、そんなものだった。
けど、背中に受ける衝撃と脚にかかる圧力は、比べようもない。
同時に、圧し潰されそうな力に納得できる量の水が、石柱の脇から二つに分かれ、視界の端を迸ってゆく。
背骨が軋み、肺から咳にも似た空気が漏れる。
踏ん張るために僅かに広げた脚に、水が掛かった。
「く」
膝まで跳んでくる飛沫は、流水の力を雄弁に物語っている。
ブーツをほんの少し掠っている程度なのに、足が掬われてしまいそうだ。
しかし石柱を支えている今、脚を閉じていられるほどの余裕はない。
一本の足でも僅かに浮かせてしまえば、たちまち背中の圧力に耐え切れなくなるだろう。
私の悪い予感は当たるのだ。
今は、ただ耐えるしかない。
「……!」
脚と背中に掛かる圧力が僅かに弱まったのを感じ取り、すぐさま柱の陰を脱するため、左側へと走る。
まだ僅かに水流は残っているが、無視できる程度だ。ギリギリで、足を取られることはないだろう。
「“テルス・クォラル”」
「!」
それでも油断ならないのは、この氷結魔術だ。
私の移動を鋭敏に察知したルウナがワンドを振り、輝く凍気を投げ放った。
ルウナの放つ、“キュールズ・ミドヘテル・ディアモット”は、いわば大量の水を出現させる魔術だと言い換えられる。
術そのものが大きな破壊力を持っていることも単純に恐ろしいが、一時的に大量の水で辺りを満たしてしてしまう事ことが、“霊柩の瀑布”の真価であると言っても良いだろう。
せっかくラギロールで岩場を作ったとしても、キュールズにより生まれる洪水は、一時的に全ての環境を水没させる。
つまり、防ぐための石柱を作り出せないのだ。
「っぐ」
走ってやり過ごそうとした私の動きを笑うように、氷は先回りして襲いかかる。
素早くその場を離脱しようと大きく前に出した右脚は、氷河の御渡りに取り込まれてしまった。ルウナに、完全に動きを読まれているのだ。
固まった右足は、つま先が着くか着かないかの絶妙な体勢の途中である。
ブーツの半分以上を凍りづけにされては、膝の下が固定されているようなものだと言っても良いだろう。力を入れたってぴくりとも動きやしない。
試合中に脱げないようにきつく縛った靴紐さえ、氷に閉ざされていて、解きようがなかった。
柱から脱出するのが遅すぎたのだ。
いや、むしろ急ぎすぎて、先回りする冷気を避けられなかった。それも失態か。
自分の判断ミスを恨むと同時に、反して思考は感情論を排して、冷静に回った。
右足を封じられた。
辺りは水で満たされている。
ルウナと隔てるものはない。
ルウナは、既に次の魔術を――おそらくは確実に――当てるための杖を振りかぶっている。
絶体絶命か。
いいや、違うな。
私は頭の中で否定する。
「まだだ!」
私は鉄の右腕を、勢い良く振り下ろした。
振ると同時に開いた金属蓋の向こうから、鋭く擦るような音と共に鈍色の金属棒が飛び出す。
それは氷にぶつかって、冷たい火花を辺りに散らせた。
一瞬だけ宙に留まった棒を右手で掴み、手の中で軽やかに回して、深く握り込む。
ルウナの驚愕に染まった顔と、杖を振る姿が横目に見えた。
焦っているようだな。だが、もう遅い。
「“キュー・ディア”……!」
これはデム鉄鋼より作られた、最高硬度のクランブル・ピック。
クロエ家を示す蓬の紋が少々癪だが、これこそが私の誇りである。
まさか、また使うことになるとは。
思いながらも、私は氷に目掛けてピックを振り下ろした。
さて、世界でも有数の硬い山と称されるデムハムドの鉱山。
その未開地を拓くための道具は、果たして氷に勝てるだろうか。
愚問だ。馬鹿馬鹿しい。
たった一突き。
ピックによるただそれだけで、右足を覆い尽くしていた氷塊は清々しい音を立て、その全てが砕け散った。
「へっ」
「く……!」
すぐさま自由となった体に勢いをつけて、その場から更に踏み出し、駆け抜けた。
私が踏み留まっていた場所に巨大な水の塊が落下するのを、脇目に捉えつつ。
さあ、反撃の時だ。
「こっちの番だな!」
距離はある。けど、それを詰めるために、走る。
走って、ルウナに近づかなければならない。その理由があるのだ。
「“テルス・クォラル”!」
私の姿に恐怖でも感じたのか、ルウナは先ほど振りまいた大量の水に、強い冷風を叩きつけた。
上から下へ。
瞬間的にではあるが強烈な冷風が、ルウナの前方の水を跳ね上げ、ツララの柵を形成する。
伸びた高さは、膝程度まであるだろうか。
ルウナへの攻めを阻むように、ツララは横一列に展開された。
しかし柵が思ったよりも小さく、低く感じたのは、辺りに広がる岩場が原因なのだろう。
私が生成した岩に触れるものは、対消滅によって相手魔術の消耗を早めるのだという。
ルウナの周りでは既に、水が枯れ始めていたのだ。
股にまで鋭利なツララが伸びていれば、それは恐ろしいとは思う。
しかし膝程度であれば、私のロングブーツの保護圏内だ。
構わずに突っ込んでやる。
「オラァ!」
水たまりの上を走りながらの蹴りは、“折ってくれ”と言いたげに横一列に並んだ逆さツララの十何本かを、根こそぎに刈り取った。
脆弱な氷は容易く折れ、道が拓けると共に、飛散する氷のいくらかは数メートル先のルウナ目掛けて飛んでいった。
どんなに脆い氷だろうが、ツララはツララだ。当たって、当たりどころが悪ければ刺さりもするだろう。
ルウナのような決して厚くない服装では、場合によって致命傷とも成り得る。
「ふ」
「!」
だというのに、飛来する氷の礫たちに、ルウナは親しげに微笑んでみせた。
蹴り上げた氷によるものとは違った悪寒が背筋に走ったのを、私は気のせいではないと直感する。
私はほとんど理由のない本能で、すぐ近くに残っていたツララの柵の陰へと、今度は頼るように滑り込んだ。
「“テルザム・コヘテル”!」
ガラスを叩きつけたような音が床に響く。
ツララの隙間から漏れてくる強い風の余波は、それが吹き飛ばされた氷の礫によるものであることを私に教えてくれた。
氷の弾けた音。危機感の中で、露出した脚にでも当たったら痛いんだろうなと、ぼんやりと思う。
「“霊柩の瀑布”を防ぎ、しかも氷による束縛を術も無しに逃れるとは……本当、面白い」
「ふっ、あともう一発くらいなら、“霊柩の瀑布”も防いでやれるかもよ?」
この距離だ。相手が集中にちょっとした時間を要する“霊柩の瀑布”を唱えてくれるのであれば、その隙を見てルウナに近づくことも可能だろう。
今のルウナは、岩場に脚を踏み入れている。私はそのお膝元に到着するだけでいい。
水弾が叩きつけられる前にこちらがガミルを唱えてやれば、すぐさま逆転勝利を掴めるだろう。
「貴女の挑発には乗らないし、長話で私の水環境を失いたくない。さあ、いくわよ」
「チッ」
ダメだ。瀑布はともかくとして、閑話への誘導にも乗ってくれやしない。
真面目な奴め。舌打ちにそんな思いを込めて、私は林立するツララの陰からも逃げ出した。
今のルウナは、ツララすらも風に乗せて攻撃してくるだろう。
風だけなら、もしくは少量の水だけならば、ジャケットの厚みで防げるかもしれない。
ブーツで踏ん張り姿勢を落とせば、吹き飛ばされることもないかもしれない。
甘い見積もりだが、一発だけなら防げるかもしれない。そんな希望的観測は、私の中にある。
そんな気楽な私でも、雹を乗せた旋風を一身に受けて無事でいられるかと問われれば、そんな自信まではなかった。
この壇上で一発だけなら耐えられる攻撃なら、受けてやっても良いとは思う。
しかし、今さっきの音を聞く限り、それは望め無さそうだ。
きっと、身体に傷を穿つほどの勢いで、破片は飛んでくる。
氷混じりの、しかも辺りの水を巻き込んだ暴風雨は、きっとこの壇上から私を退場させるだけの威力を持っているに違いない。
向かい来る風の刃を前に、姿勢を低くして無傷のままやり過ごせるかどうかは、かなり疑問なところだ。
「“テルザム・コヘテル・ディアー”!」
「“スティ・ラギロ・アブローム”!」
だから、あと一歩の所で近づけない。
私にできることは、ただこれだけだ。
近くにあった岩場の上に逃れ、柱を立てて、嵐から身を守ること。ただ、それだけ。
「……チッ、まずいな」
ルウナは岩場の上だが、別の岩場だ。
距離は開いているし、向こうまではまだまだ潤沢な水溜まりで満たされている。
その上、氷の柵まであるときた。氷の礫を含むようになった嵐を相手にしては、あちらへ突入するのは至難だろう。
「うっ……」
氷の粒を含んだ嵐が、石柱に叩きつけられる。
風の流れの影響か、冷気を帯びた飛沫は、陰に潜んだ私の顔にも吹き付けてきた。
……寒い。
「まずすぎる」
焦りの汗か、敵の雫か。
私は小さな岩場の上で、一人孤立した。




