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打ち砕くロッカ   作者: ジェームズ・リッチマン
第一章 砕けるガラス
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函001 振られる鉄拳

 月が薄い雲に隠れる夜。

 湿った地面を抜け出して、車輪は石レンガの並ぶ固い道へと乗り出した。

 硬い地面だ。前を走る獣の爪蹄(そうてい)音が、軽快に響き始める。

 水路街エクトリアを発った一台の荷馬車が、たった今ようやく長旅を終え、目的地に辿り着いたのである。

 路肩に姿を見せる灼灯(しゃくとう)の輝きは、馬車が静かな街道から都市の領域へ入りつつあることを示していた。


 ここは水の国。魔術の都、古代都市ミネオマルタの西部馬車駅。首都の玄関である。


 灼灯は多くの荷馬車を仄かに照らしている。

 ぼんやりとしたオレンジの光は、星明りだけの街道に目が慣れた御者にとって昼間のように眩しかった。

 幸い、雨はない。地面は湿っていたので、止んだ後だったのだろう。

 仕事上がりの幌の手入れが省けて良かったと、御者はぼんやりと思った。


 神経質な検問を抜け、馬車は厩舎近くまで徐行する。その手前で、硬い地面を歩く爪蹄の音は止まった。

 しかし、満載した荷を下ろすのはもう少しだけ後になるだろう。

 まずは走り詰めで疲弊したコビン達の足を休ませ、彼らの昂った気分を落ち着かせなくてはならないからだ。

 そうしてしばらくコビンの平静を待った後に、荷馬車を厩舎へ移す。

 次に牽引用のコビンに繋ぎ変え、荷馬車を引かせて所定の倉庫に格納。まだまだ作業は残っている。


 近頃のミネオマルタの検問は厳重なので、面倒は多い。そこからの荷物の分配作業や再検査もある。とはいえ、一部は現地のギルド員が担当してくれるだろう。

 例の“珍しい荷物”も勝手になんとかしてくれるはずだと、御者は楽観的に考えていた。

 その後はギルドから報酬を貰い、仕事仲間が集っているであろう酒場へとトンボ返りするのみ。

 御者はミネオマルタの星空を眺めながら、今日の酒に思いを馳せていた。




「……」


 荷物を下ろすのは後になる。

 では、今まさに荷馬車の幌へ近づいている最中の、黒いケープを羽織ったこの男は何者なのだろうか。


 簡単なことである。彼は盗人だった。


 今しがた駅に入った馬車の幌は、模様からして傭兵ギルド“絢華団”の簡易品運搬馬車のもの。

 いつもは小さな錠がかけられているはずの荷馬車の幌口だが、今日はどういうわけか紐で結ばれているだけだった。

 馬車駅入口の物陰からそれを見破った盗人の男は、今夜狙う獲物をこの荷馬車に定めたのである。


 中にとびきりの金目の物がないとしても、盗ったものが何であれ、首都ミネオマルタに送られる荷物だ。それが手紙以外の何かしらの品であれば、金にはなる。彼が所属する窃盗団のノルマの足しにはなるだろう。


「……」


 男は荷台が軋まないよう、ゆっくりと暗闇の中へ足を進めてゆく。

 幌のすぐ向こう側には、御者が座っている。

 不用意な音を立てれば、たちまち逞しい男共に囲まれ、殴られるだろう。その上で牢獄行きは免れない。

 馬車荒らしには慎重さが求められた。


 彼の目的はスマートな窃盗だ。わずかな荷物を素早く盗み、安全かつ完全に、卒なくこなす。

 馬車荒らし常習犯レド。小さな窃盗団に所属する、前科ありの小悪党である。


「!」


 男は暗い馬車の端に大きなリュックを認めた。

 木箱や麻袋の多い荷馬車の中で、こういった品物に出会える機会は滅多にない。

 ほどよい膨らみからは、様々な物が詰まっていることが容易に想像できた。

 忘れ物の返却か、御者の私物か。ともあれ、そんな事情は彼にとってどうでもいい。極上の獲物に巡り会えた幸運に、ただただ舌なめずりするばかりである。


「こりゃついてるぜ」


 ゆっくりと音もなく忍び寄り、遠間から大きなリュックをそっと掴む。

 わずかに持ち上げてみると、荷物は重かった。だが、手に持って無理なほどではない。

 背負ってここから離れれば、男の姿は誰の目にも普通の旅人としか映らないだろう。後は荷馬車を降りて、静かに去るのみ。

 喉の奥から溢れそうになる笑い声を抑え、男は幌口へと忍び歩いた。


「おい」

「!」


 窃盗犯の背筋が凍る。すり足も止まる。

 凛と響いたのは若い女の声だ。

 声はすぐ近く、背後の奥からかけられた。


「その荷物、私のなんだけど」

「……」


 冷淡な声色と共に、ぎしり、と荷台が軋む。男の出した音ではない。

 額に冷や汗を流す男の顔が、ゆっくり後ろに振り向いた。


 軋んだ足音は男に近づいてくる。幌口から入り込む薄明かりによって、その姿はぼんやりと暴かれた。


 人だ。若い女がそこに立っている。


 どうやら馬車の中には人がいて、盗む瞬間と、顔を見られていたらしい。

 男は決して、幸運などではなかったのだ。むしろ、不幸だったと言えるだろう。

 荷物運搬用の馬車に相乗りで人が乗せられることなど、滅多にないことなのだから。


「あ、ああ、これね、これ」


 男の口からは、言い訳の切り出しだけが上滑りする。


「あんたさっき、こりゃついてるぜ……って言ってたよな」

「はは、いやぁ、ほんとな」


 手にしたリュック、怪しい姿。もはや言い訳はできない状況だ。

 馬車の奥の女が何者であれ、姿を見られたからにはもう遅い。

 叫ばれでもして応援を呼ばれれば、重い荷物を背負いながら逃げることは不可能だろう。

 だから、男は諦めた。


 何をか。盗む事をである。

 彼は人生までは、まだ諦めていない。男は覚悟を決めた。

 どうにかしてこの場を切り抜け、明日の朝までは地下水道に隠遁する“逃げ”の覚悟である。


「あばよっ」


 男はリュックを人影に投げつけ、すぐさま馬車から飛び降りた。

 石のタイルへ力強く降り立ち、足音も気にしない全力疾走で一気にその場を離脱する。

 男は逃げの走りには自信があった。

 この付近の地理にも明るかったし、状況によっては登る屋根にも宛てがある。


 とにかく逃げ切る。面倒臭いが逃げ切ってやる。

 全力で住宅地の路地を目指しながら、男は叫び声もしない背後をわずかに振り向いた。




「あばよじゃねえよ、私の荷物投げやがって」

「へっ?」


 月と灼灯の薄明かりの下、若い女のドスの効いた声がすぐ背後から聞こえてきた。


 鋭い目つき。

 高く括られた長髪。

 翻る大きなジャケット。


 女は足の早い男にすぐさま追いつき、ほとんど零距離にまで迫っていたのである。

 今まさに、彼女の右腕はすぐそこで振り被られようとしていた。


 絶体絶命。男にとって、緊張の一瞬。

 彼は本能的に、腰に据えたナイフを抜き放っていた。


「や、やめろ、来るんじゃねえッ!」


 真新しい銀色の刃が、斜めに大きな弧を描く。

 女は男の構えたナイフに対して十分に避けられるだけの間合いを置くように、素早く数歩飛び退いた。

 刃先はあえなく空を切ったが、相手を一歩下がらせるには十分だったらしい。


 手にした得物の威容を確認した男は、冷や汗の下に黒い笑みを浮かべる。


「……へ、へへ。多少は魔力による身体強化も使えるようだが……このナイフの切れ味に耐えられる自信はお有りかな? お嬢ちゃん」


 男は笑い、刃先を向ける。

 彼は余裕そうな態度を全面に押し出してはいたが、内心では非常に焦っていた。

 何せ、今は逃げることが第一だ。少しでもまごついていれば他の人間がやってくるかもしれない。目の前の女に構う暇など、これっぽっちも無かった。

 そして、何よりも彼には人を刺す程の度胸も、その経験もない。

 先程の一閃は咄嗟に、がむしゃらに振り抜いただけの粗末なものだった。


「邪魔するってんならその顔、ズタズタに切り刻んでやるよ」


 当然、彼にそこまで人を痛めつけるつもりはない。

 ただ、この脅しに恐怖して女が逃げ帰るのを望むばかりであった。


「下ろしなよ、そんな危ない物」

「ああ?」


 しかし男の意図に反して、目の前の女は逃げ出すような素振りを見せない。

 刃物と害意を突きつけられても尚、それ以上引き下がることなく、冷静な目で男を見つめている。


 いや、睨んでいたと言った方が正しいだろうか。

 彼女は少しも怯えず、動じていない。自分に向けられた敵意と同じ分だけ、静かな怒りを燃やしていた。


「私、この国に来たばっかだから、詳しくないけどさ。さすがに物盗むよりも、刃物向けて脅す方が罪は重くなるんだろ」

「何を言っている、俺は短気だぞ」

「無駄なことはやめて、さっさとそいつを捨てろって言ってんだよ」


 ナイフを突き出すような仕草を見せても、強い語調で威嚇してみても、女は逃げない。

 そればかりか女は男の虚勢を見破ったかのように、逆に一歩一歩と歩み寄ってくる。


「来るな、殺すぞッ」


 いくらナイフを振りかざしても、女は怯まない。

 迫る女の悠然とした態度に、男は次第に頭に血が登ってきた。


 目の前のこいつは何故逃げないのか。

 何故、武器を構えた自分を何の脅威とも見なさないような態度で、こちらに迫ってくるのか。


 手元の刃に気が大きくなっていたこともあるだろう。

 普段は弱気で臆病な男が、ついにその気になってしまった。


「殺すって……言ってんだろうが!」


 力いっぱい握りしめたナイフを振り上げ、男が女に襲いかかる。

 銀色の刃は路肩に立つ灼灯に照らされ、橙色に煌めいている。長く使われぬままであったため、切れ味は新品同然だった。


 不格好な動きだったが、刺されれば致命傷は免れない。


「ったく」


 迫り来る凶刃に、女は広げた右手をかざした。

 男は刹那、内心でその行動を笑う。

 鋼製のナイフを手で受け止められるものか。まして、掴むつもりか。


 手首を掴まれれば立場は逆転するが、女の方にはそこまでするような様子はない。ただ棒立ちのまま、ナイフの軌跡の終着点で手を構えているだけ。


 やった。

 男は窮地脱出の予感に歓喜した。


「私は、やめろって言ったぞ」

「……はっ!?」


 ナイフは、まるで骨にぶち当たったかのような感触と共に止められた。

 刃先は当たった。それは間違いない。手首を掴まれているわけでも、手を掴まれているわけでもない。


 男は困惑せざるを得なかった。当たった。その感触もあるのだ。

 ナイフはしっかりと、女の手に直撃したはずである。


「先に喧嘩を売ったのは、アンタの方だぞ」


 だが、痛みを与えられた様子は微塵も無い。

 意味不明な手応えと女の気迫に、男は総毛立った。


「う、うわああ!」


 もはや男に戦意はない。ナイフのたった一振りで、彼の勇気は振り絞られてしまったのだ。

 残るは逃げの一手、ただそれだけである。


「た、頼む、逃してくれ! この仕事はボスに頼まれてただけでっ!」

「逃すわけねーだろが!」


 ただ、その選択はあまりにも遅すぎた。

 何度も脅し、襲いかかり、その上で逃げようなどとは、どのような世界でも許される道理はないのである。


「はっ――」


 男が恐いもの見たさに振り向けば、そこには大きな握り拳が映っていた。

 鉄塊のような大きな右拳が、男の顎へと鋭く食い込む。


 ――それはまさに鉄塊であり、右拳でもあった。


「げブッ」


 顎の骨を打ち砕く鈍い音と、男が全身を打ちつけながら石の上を転がる硬い音が、夜の静かな馬車駅に良く響く。

 情けない悲鳴と穏やかではない物音に、夜の馬車駅は騒がしくなり始めた。


「調子良すぎんだよ、スカタンが」




 馬車荒らし常習犯のレドは今夜、速やかに御用となった。

 顎を複雑に骨折し、逞しい御者連中からの激しい折檻も受けてズタボロになった彼は、今後監獄を出た後でも、二度と荷馬車を襲うことはないだろう。




「……ここがミネオマルタか」


 高く括った長い茶髪。

 力の篭った鋭い目。

 機械仕掛けの無骨な右腕。

 女性らしい体躯を覆う男物の大きなオイルジャケットの裾が、涼しい夜風に翻る。



 盗賊の男を仕留めた彼女の名は、ロッカ。

 ロッカ=ウィルコークス。

 まだ特に、他の呼び名は無い。


 これは彼女、ロッカ=ウィルコークスの物語である。




『警察だ! ……ムッ!? そこの小娘ェ! 何をしている!』

「えっ」

『なんだその血まみれの右手は!』

「あ、これはあれ。あの犯人の……えっと、ほら、あれ」

『抵抗するなァ! 話は詰め所で聞かせてもらうぞ!』

「えっ、あ、ちょっと!」




挿絵(By みてみん)




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