最悪 (1)
本日は日曜日……例のテレビ放映があってから初めての週末である。鳳鳴高校全体を巻き込んだテレビ騒動が残した興奮は今でも余韻を残しているが、月曜日にでもなれば次第に収まっていくことだろう。そう思わせるような、のどかな休日だった。
暑くもなく寒くもなく……程よい春の空模様と気温の下、朝十時から始まった野球部の日曜練習は、途中昼休みを挟んで十五時ちょうどを持って終わりを告げた。休日の、しかもわざわざ昼間の一番暑い時間帯であったが、これは練習時間の確保と夏の暑さ対策を狙った山崎の指示である。時としておバカな発言があるものの、やはり野球に賭ける情熱は本物だといえるだろう。
夏の予選が日に日に近づき、野球部全体に次第に緊張感が生まれてきた。だからこそ、この休日練習にも全員が欠席することなく参加している。もちろん……“りん”も含めて、だ。
「お先ぃ~!」
「皆さん、お疲れ様でした!」
練習が終わるやいなや、素早く着替え終えた“りん”と栞がグラウンドを横切って校門に向かって駆け出していく。ポニーテールと三つ編みをなびかせて走る二人に、大村や部員たちは水浴び場から手を振り返した。
ダッシュしていく二人を見て、山崎も金属バットをケースにしまいながら二人に声を掛けた。
「おう! ちゃんと沙紀に言っといてくれよな!」
「へ? 何を?」
そう聞き返す“りん”にズッコケながらも、山崎は怒鳴り返した。
「昨日、焼きそばのお持ち帰り頼むって言っといたじゃねーか! 頼むぜ全く……」
「はいはい、ちゃんと伝えとくよ!」
山崎を軽くいなした“りん”は、トップスピードのまま、栞と一緒に校門をくぐっていった。やがてその姿はグラウンドからは見えなくなった。今日、これから家の留守番を仰せつかった身の山崎としては、一緒に行きたい気持ちをグッと堪えながら、相変らず元気なヤツだな……と苦笑交じりに呟くことしか出来なかった。
“りん”と栞が向かった先は、何を隠そう“のんちゃん堂”である。焼きそば専門店であるのんちゃん堂は今、のどかの父・大吾が足の骨折により入院しているため休業中なのだが、東子の
「アタシ、久しぶりにのんちゃん堂の焼きそばが食べたいなっ♪」
という一言に端を発し、何故か今日、のどかが店で振舞うことになっていた。ただし、肝心の焼きそばの材料がない。現在のところ店は休業中であるから、当然といえば当然だ。そこで、“りん”と栞は、焼きそばの材料の買い出しにいくために、まずはのんちゃん堂に向かってのどかと合流することになったのである。
二人がのんちゃん堂に着くと、ちょうどのどかも病院から帰ってきたところだった。学校から直行してきたため、いつものセーラー服姿のままの“りん”と栞であったが、のどかの方はといえば、まるで良家のお嬢様のような白の清楚なロングワンピース姿で、大きな麦わら帽子をかぶっているのが一際目を引いた。二人の視線が自分のかぶっている麦わら帽子に集まっていることに気付いたのどかは、尋ねられるよりも先に口を開いた。
「き、今日は日差しが強いと思ったからさ。へ、変かな?」
恥ずかしそうに俯きながら、のどかが二人の反応を窺う。その仕草に内心ドキリとしながら、なんとなく和宏は腑に落ちないものを感じた。
(今日って、そんなに日差し強いかな……)
五月の中旬……爽やかさを含んでいた春の風が、夕刻を迎えた今は蒸し暑さを感じさせるじめついた風に変わっている。ただ、確かに日差し自体は夏を感じさせるほど強くはない。和宏は小首を傾げようとしたが、それよりも先に栞が
「大丈夫ですよ! ちゃんと似合ってます!」
と言いながら手を叩いた。少し顔を赤らめたのどかを見て、和宏は「まぁ、いいか」……と苦笑した。
「さぁ、それじゃ買い出しに行こうか」
話題を変えるようにして、のどかが遠くに見えるスーパーの看板を指差した。距離にして約五百メートル……十分に歩いていける距離だ。
「のんちゃん、何を買いに行くんですか?」
「え~と、ジュースと……豚肉と……キャベツと……生卵……かな」
ジュースは別として、いずれものんちゃん堂の焼きそばを作るために必要な材料である。
だが、それを聞いて栞は目を爛々と輝かせ始めた。
「やっぱり卵が必要ですよね! 実は今日のチラシで確認したんですが、駅の近くのスーパーで生卵を特売してるんです! なんと一パック二十九円ですよ! 今から行こうとしているスーパーはいくらなんですか?」
少々興奮気味に栞は力説した。のどかは戸惑いながらも
「いつもどおりなら百五十八円だけど……」
と、まるで熟練の主婦のように迷いなく答えた。栞は、我が意を得たといわんばかりに勢いづいた。
「ほらぁ! 全然違うじゃないですか! ぜひソッチに行きましょう!」
「でも……ちょっと遠くないかな?」
駅までは方向が逆になる上に距離も遠いため、歩けば片道二十分はラクにかかるところである。だが、その程度の障害では、もはやその気になった栞を止めることはできなかった。
「それじゃあ、私がひとっ走り行ってきます! 卵は私に任せてください!」
そう言い残して、止める間もなく栞はタタタッと走り去っていった。“りん”とのどかは口をアングリ開けて呆然と見送りながら、思わず顔を見合わせた。
「タハハ……、たまに栞ってあんな風に突っ走っちゃうよなぁ」
「あはは、そうだね。昔からお母さんにお使いを頼まれるのがスキだったみたいだから……今でもああいうお買い物がスキなんだろうね」
のどかの大きな目が懐かしそうに細くなる。初めて見るのどかの表情に、和宏は微笑ましさを感じながら、同時に違和感を覚えた。
初めて聞くのどかの昔話――。
のどかは、和宏に対して昔のことを自分から話したことはない。そして、和宏から無理に聞き出そうとしたこともない。それが今、のどかの方から思い出話をしている。
「なぁ、それって何歳頃の話?」
「え……と、小学生の頃だけど」
それがどうしたんだい? ……とでも言いたげな大きな瞳が麦わら帽子の奥から“りん”の顔を無邪気に見つめた。まるでスイッチが入ってしまったかのように、和宏の鼓動が早く強くなっていく。それは、意識するなと思っても意識せずにはいられない発作のようだと和宏は思った。
「と、とりあえずスーパーに行こうか!」
先ほどのどかがしたように、和宏はスーパーの看板を指差した。のどかも「そうだね」と頷き、二人は並んで歩き出した。
◇◆◇
栞の目の前に立ちふさがっていた自動ドアが、駆動音とともに開いた。一瞬にしてそこはスーパー店内の冷房の効いた空間と、夕刻を迎えたにもかかわらず蒸し暑さの増してきた店外の空間との境目に変わる。両手にスーパーのビニール袋をぶら下げた栞は、店内と店外との湿度の差を不快に思いながら、そのまま特売品目当てで集まった客の賑わうスーパーを後にした。
「ふぅ……、ちょっと買い過ぎちゃいましたね……」
そう呟いたのも、今回の特売に限っては一人二パックまでといった上限がなかったため、つい四パックも買い込んでしまったからである。安いと感じると見境がなくなってしまう……昔からの栞の悪い癖であったが、これがなかなか直らない。
「りんさんと沙紀さんと東子さんに一パックずつ分けてあげれば大丈夫! なんだ……実はちょうど良かったんですね」
この妙なポジティブシンキングこそ、悪い癖が直らない最大の原因だ。
栞は、スキップ交じりで歩道を歩き出した。遠くに買いに来たんだから、その分早く戻らねば……と思うと、自然に足色も早まっていく。そんな栞の背後から、派手なエンジン音を撒き散らしながら近づいてくる車があった。明らかな違法改造車である。この他人への迷惑をなんとも思わない輩を非難するように、栞は眉を潜めながら振り返った。
珍しい型の真っ黒なスポーツカーだった。栞には車種がわからなかったが、左ハンドルであることから外車であることはわかった。
一体どんな人が運転しているのか……と、興味半分に栞は運転席に視線を移した。しかし、その運転者の男の顔を見た瞬間、栞の顔が凍りついた。髪型には天然のような軽いパーマが入っている以外は特に印象に残るものはなく、ほどよく整った顔立ちも決して不細工とはいえなかった。ただし、十人中十人が間違いなく挙げるであろう特徴が一つだけあった。
周囲の者を威嚇するような目つきの悪さと、左目の下にある涙のような形のアザ。おそらく日本に二人といないであろうその持ち主を、栞は知っていた。
(嘘……、どうしてここに……)
栞は、歩き方を忘れてしまったかのように立ち止まり、ただ呆然と立ち尽くした。
ここにいるはずのない男。何故。どうして。
歩道で立ち止まったままの栞を猛スピードで追い抜いていった車は、すでに視界の外に消えていた。回転が早いはずの栞の頭はまだ混乱している。それでも、目の前に現れた現実を理解する手立てを探している。そして、ようやく辿り着いた結論は……“最悪”のものだった。
「のんちゃん!」
無意識にのどかの名を口にした栞は、ビニール袋の中で卵のパックがぶつかり合うのも構わずに全力で走り出した。
――To Be Continued