いたずら (3)
時間は、午後六時半を回ろうとしていた。名残惜しそうに地表を照らしていた太陽は地平の向こうに完全に隠れ、夜の帳が急速に下りようとしている。
のどかがやってきたのは、駅からすぐ近くにあるバスセンターであった。市営バスなどの終着場と始発場を兼ねており、全部で十を超える乗降場が設けられた、比較的大きなバスターミナルである。そのうちの一つの乗降場の列の先頭に並んだのどかを、“りん”たち四人はコンクリート製の柱の影から、こっそりと様子をうかがっていた。
「なんか元気なさそうだな、のどかのヤツ……」
「そうですね……。いつもののんちゃんと違うような……」
栞がゴクリと息を呑んだ。最初は「尾行なんて……」と言っていた栞も、普段と様子が違うのどかを見て、そんな気持ちはどこかに消え失せてしまったようだった。
「どこ行きのバスに乗ろうとしてるんだろっ?」
「あの乗降場に並んでるってことは……市南方面行きかしら?」
乗降場であることを示すインフォメーションポールには「県庁方面行き」とか「県営病院行き」などの文字が見える。どれも市南方面であるが、具体的にどこに行こうとしているのかは予想がつかなかった。
「ひょっとして、親戚のおばちゃんの家とかに行こうとしてるんじゃないっ?」
「この辺にのどかの親戚がいるのか?」
「ウチの親戚ならいるよっ♪」
(関係あるかっ!)
東子のボケに付き合ってしまったことを後悔しながら和宏は、少し俯きがちにバスを待つのどかの後姿を引き続き目で追った。のどかから十分に離れた柱の影に見つかりにくい角度で身を隠している四人は、確かにのどかから発見されることはないだろう。だが、物陰からこっそりと乗降場を覗き込む女子高生の姿はハッキリ言って浮いている。ただ、幸運にも社会人の退勤の時間帯に重なって人通りが多かったのが幸いし、大して目立たずに済んでいた。
のどかを先頭にした列が二十人以上になった頃、ようやくバスが到着した。通常のバスよりも一回り小さいマイクロバスだった。ほぼ満員に近かった車内からぞろぞろと乗客が降りると、空になったバスに乗り込んだのどかが、一番奥の座席に腰を下ろしたところが“りん”たちから見えた。その他の座席も後続の乗客たちによってたちまち埋まり、バスの中の空間はつり革につかまる乗客たちで一杯になった。
「な、なんか結構混んでるよっ」
「ホントね。私たち乗れるかしら……」
沙紀の心配を裏づけするように、また一人の乗客が乗降口から車内に乗り込み、奥の方へと窮屈そうに進んでいく。幸いにもギュウギュウ詰めではなかったため、乗ろうと思えば乗ることは出来そうだった。むしろ、問題は別のところにあった。
「さ、さすがに同じバスに乗ったらのどかに見つかっちゃうよね……!?」
東子が、オロオロした様子で独り言のように呟いた。バスは、ここが始発になるため、まだエンジンを切って停車したままだった。もちろん、乗り込もうと思えば十分に乗り込めるはずだ。ただ、先に乗り込んでいるのどかに見つかってしまうことを東子は心配していた。
「別に見つかってもいいんじゃね? コソコソする必要もないだろ」
「もう! りんったらなんにもわかってないわね……」
沙紀のため息交じりの台詞に、なんだよ……と“りん”は思わず口を尖らせた。沙紀は、“りん”に言い聞かせるように続けた。
「のどか、ちょっと様子がヘンじゃない。でも、私たちが話しかけたら、きっといつもみたいに何でもないよ……って顔しちゃうに決まってるでしょ?」
人差し指を立て、まるで“メッ!”するように沙紀は一気にまくし立てた。一理あるような……騙されてるような……どっちともつかない思いが和宏の中を交錯する。しかし、逡巡する時間も与えぬように、急にバスのエンジンが始動した。いうまでもなく、もうすぐ発車するということだ。
「乗りましょう! あれだけ混雑してますし、人ごみに紛れれば多分大丈夫ですよ!」
もう考えている時間はなかった。栞の言葉に弾かれるように四人はバスに向かって走り出した。乗り込むと同時に乗降口のドアが閉まり、合図のクラクションとともにゆっくりとバスは発車した。つり革に掴まって立っている乗客たちの中に上手く紛れ込むことに成功した四人は、隙間から最後尾座席に座っているのどかの様子をうかがった。幸い、俯き加減に座っているのどかにバレた様子はなく、四人とも一斉に安堵の吐息をもらした。
ほぼ満員のバスが、決められた路線を淡々と走っていく。いくつかのバス停を通り過ぎたが、乗る客も降りる客もほとんどいなかった。
何度となくのどかの様子をチラチラと探る“りん”たちの妙な動きに、他の乗客たちのいぶかしむ視線が突き刺さる。だが、当ののどかはずっと俯いたまま。栞は銀縁の眼鏡を右手で触りながら誰ともなく呟いた。
「やっぱり、元気がなさそうな感じですねぇ……のんちゃん」
「顔色もあんまり良くないような……」
周りの景色を眺めるでもなく、どことなく沈んだ表情で俯いているだけだ。明らかに普段と様子の異なるのどかに“りん”も沙紀たちもウンウンと頷いた。
街中を走り抜けていくバスは、大きな交差点を経てバイパスに入った。その最初のバス停を前にして、車内の降車ボタンのブザーが鳴り響いた。まるで、それが合図であるかのように乗客たちの多くがソワソワし始める。“りん”たちが、何事か……と思う間もなく、バスは停留所に到着した。
大きな団地への入口が近いためか、仕事帰りのサラリーマンと思しき乗客たちが次々と降りていく。呆気に取られていた“りん”たちは、車内の混雑が緩和されていくにつれ、のどかとの間にあった“壁”がどんどんと薄くなっていくことに気付いた。このままでは、のどかの座っている場所から“りん”たちが丸見えになってしまう。だが、結果としてそんな心配は不要だった。
「あれ……? のどかは?」
つい先ほどまでのどかが座っていた座席には、もう誰もいなかった。それに気付くと同時に乗降口のドアが閉まり、満員の乗客の大半を吐き出したバスが、またゆっくりと走り出した。のどかを探して忙しなく動いていた栞の視線が、ある一点で止まる。栞は、弾けたように叫んだ。
「あっ! もう降りてます!」
栞が指差した先に、降車した乗客たちに混じって歩き出すのどかの姿が窓ガラス越しに見えた。ゾロゾロと降りていった乗客たちと一緒に、すでにのどかも降りていたのである。しかし、動き出したバスは止まることなく、のどかの姿はみるみるうちに小さくなっていく。沙紀と東子は
「次、降りよっ!」
「そうね、それしかないわね……」
と泡を食いながら、降車ボタンを押した。次のバス停まで、さして遠くはなかったのが救いだった。バスが停まると同時に慌てて降りた四人は、そのまま急いで一つ前のバス停に戻ったが、先ほど降りた乗客たちも、もちろんのどかも、そこにはもう誰一人残っていなかった。
「あ~あ、見失なっちゃった……」
東子は、消え入りそうな声で呟いた。このバイパス沿いには、いくつもの店や建物が立ち並び、夕刻の買い物客が盛んに出入りしている。もはやのどかがどこに向かったのかを探る手段はないように思われた。しかし、栞が
「あの、私あまり目は良くないんですけど……」
と、近眼を強調するように銀縁の眼鏡を触りながら控えめに言った。
「最後、バスの中から見てた限りでは、この敷地の中に入っていったような気がします……」
そう言って栞は、すぐ近くで存在感をアピールする大きな建物をおずおずと指差した。その建物を見て“りん”たちは三者三様に……しかし、同じ台詞を口にしていた。
『病院――?』
――To Be Continued