桜の下で (1)
春は卒業式のシーズンである。それは鳳鳴高校においても例外ではない。今年もまた、この学び舎の主を一年間務めた三年生たちが卒業式を経て去っていった。教室棟一階からは三年生たちの姿が消え、四月の新入生が入るまでの短い間限定であるが、校内は二年生が最上級生となる。
春休みまで、あと一週間。二年生のフロアである二階には、まるで重石が取れたような開放感が濃く漂っていた。
「りん~! 今日は沙紀も東子も栞もいないんでしょ! コッチで一緒に食べない~?」
二年A組では“姉御”と呼ばれているリーダー格の上野が、持ち前のダミ声で、四時間目が終わった直後の“りん”に声をかけた。いつもならば一緒に昼食を取っている三人が、今日に限ってはいなかったからだ。
沙紀と東子は、二人とも女子バスケ部の遠征試合で不在。栞は、家の法事とやらで休みだという。この三人が同時に不在など、滅多にない事態だった。
「サ、サンキュー。でも……」
「な~に? 先約あるの?」
「ま、まぁね……」
“りん”は、残念そうに頬を膨らます上野に苦笑しながら答えた。少々小太りのおばさん体型を揺すりながらの上野の仕草は、残念ながらカワイイというよりもユーモラスという言葉の方がピッタリであった。
「なになに? 男子? ひょっとして男子?」
上野と机を並べ、一緒にパンをかじっていた高木が、大げさなほど色めき立ちながら、そのつぶらな瞳をキラキラさせた。まさに、お年頃の女子高生そのものである。
「んなわけないって」
その答えに、高木も上野も「な~んだ」とばかりに肩をすくめた。ついに“りん”にもボーイフレンドが……という興味深い展開がご破算になっては致し方ない話だった。“りん”は、同じように肩をすくめ、笑いながら教室を出た。
(といいつつ、どっちかっていうと“男”なんだけどな……)
春の陽光が差し込む廊下を、口元を緩めながら歩く。“りん”は、売店で昼食のパンを求める生徒たちの列に紛れ込み、お気に入りのサンドイッチを買い込むと、そのまま生徒用玄関に向かった。
生徒用玄関から外に出た“りん”の頭上に、春の柔らかな日差しが降り注ぐ。軽く一伸びした“りん”は、裏山に向かって歩き出した。まだ昼休み時間に入ったばかり……みな昼食を食べている最中のせいか、校庭にもグラウンドにも人影は全くない。だが、あと十分もすれば昼食を終えた生徒たちが腹ごなしの運動をするために現れ始めるだろう。
“りん”のポニーテールを弄ぶように揺らすそよ風が、春の訪れを感じさせる芳香を漂わせる。校庭の一角で星型の花を枝先に咲かせた沈丁花の特徴的な香りだ。和宏は、もう一度深く深呼吸をした。
季節は、間違いなく春だった。
◇◆◇
体育館脇の小道を抜ければ、生徒たちが“裏山”と呼ぶ場所に出る。頂上に小さな社があるだけで基本的に何もなく、厳密に言えば学校の敷地ですらない。ゆえに生徒であろうと教師であろうと滅多に人が寄り付かない。
“りん”は、一息で斜面を駆け上がった。てっぺんまで登る必要はない。その途中……二つの切り株が茂みに囲まれた場所に“彼女”はいた。
「やぁ、和宏。思ったより早かったじゃないか」
パッチリとした大きな瞳を細くしたのどかの笑顔が“りん”を出迎えた。
「は、早いな……のどか。ひょっとしてフライングしたのか?」
「あはは、まさか。でもチャイムが鳴った直後に教室を出てきたけどね」
そう言って、のどかが再び笑う。和宏は、自分が教室を出る時も上野や高木にいろいろと勘繰られたことを思い出しながら一緒に笑った。
「でも、周りに『どこに行くんだ?』とか『誰と一緒に食べるんだ?』みたいなこと言われなかったか?」
「なかったよ。もともとわたしは、よく生徒会室でお昼を食べたりもするから」
のどかは“生徒会長”という役職を持っている。そのせいか、所属する二年E組の中では少々話しかけづらい雰囲気を周りに感じさせているようだ。持ち前の冷静で大人しい性格も一役買っているのかもしれない。和宏は、生徒会長ってヤツも楽じゃないな……と思いながら、鼻を鳴らした。
「それより、和宏はまたパンかい?」
「ま、まぁね。ことみ母さんが弁当を作ってくれる時もあるんだけど、毎日じゃないし……」
言い訳がましく説明する“りん”は、切り株の上に置かれた小さな弁当に気付いた。いうまでもなくのどかの弁当だ。
「それ……、のどかが作ったのか?」
「そうだよ。見るかい?」
切り株の上に座りながら、のどかが膝の上に置いた小さな弁当のフタを開ける。中にはミートボールやら卵焼きやらがギッシリと詰まっていた。見るからに食欲をそそる、栄養バランスまで考えられた彩り鮮やかな弁当だった。
「これ、全部のどかが作ったのか?」
「そうだよ」
“りん”は、スゲェ……と呟きながら、ゴクリとツバを飲み込んだ。
「和宏も作ったらいいのに」
「ムチャいうな」
弁当を作ろうなどとは露ほどにも思わないし、そもそも百年修行したとしても作れるようになるとは思えない。それがわかっているだけに、和宏は素直にのどかに脱帽するしかなかった。
「じゃあ、いただこうか?」
「そ、そうだな……」
二人は切り株の上に座り、弁当やサンドイッチをほおばり始めた。麗らかな春の晴天の下、二人だけの昼食会だった。
マヨネーズが残った“りん”の口元を見てのどかが笑い、のどかの弁当からミートボールを一つ奪い取った“りん”がイタズラな顔で笑う。優しく時間は流れていき、食べ終わる頃にはもう眼下のグラウンドは結構な数の生徒たちが、食後の運動がてら身体を動かしていた。その楽しげな声は、“りん”たちのいる裏山まで聞こえた。
「たまにはこういうのもいいだろう?」
「まぁな。天気も良くて気持ち良いし」
二人は、黙って空を見上げた。空は春を誇るように真っ青に染まり、可愛らしい雲がチョコンと浮かんでいるだけの申し分ない晴天。暖かな空気と相まって、このまま昼寝でもしたくなるような陽気である。
「和宏は、どの季節が好き?」
「夏!」
和宏は即答した。
「どうしてだい?」
「夏は甲子園があるからな」
「……甲子園って、春もなかったっけ?」
「あるよ。だけど、甲子園って言ったらやっぱり夏なんだよなぁ……」
そう言いながら、和宏は真夏の太陽を思い浮かべた。試合に勝って得られる充足感というのは夏も春も変わらない。ただ、それを増幅させるスパイスが真夏の炎天下なのだ。
「のどかは……?」
切り株に座る二人を撫でるような風が吹き抜け、“りん”たちの頭上にある桜のつぼみを揺らす。まだ五分咲きといったところであったが、今日のような陽気が続けば近日中には満開になりそうだった。のどかは、和宏の質問にすぐには答えずに桜の木を見上げた。
「やっぱり、春……かな」
のどかの答えに、和宏は小さく頷いた。他のどんな季節よりも、のどかには生命の芽吹く春という季節が似合っているような気がしたからだ。
右手をかざし、木洩れ日が差し込む枝葉を眩しそうに仰ぎ見ながら、のどかは続けた。
「満開の桜を見る機会ってさ……、一生のうちに何回あると思う?」
唐突な質問に、和宏は目を丸くしながらも思いを巡らした。
「さ、さぁ? 五十回くらい……かな?」
「一年に一回見る程度だろうから、大体そんなものだよね。でも……」
「でも?」
「思ったより少ないと思わないかい?」
言われてみれば確かに……と“りん”は小さく何度も頷いた。
「だからさ、毎年しっかりと目に焼き付けておきたいんだ」
そう言って、のどかはまた桜の木を見上げた。二羽のすずめが追いかけっこをするように梢から梢へと飛び回っている。その春の陽気に相応しい鳴き声を聞くために、のどかは耳を澄ました。
和宏は、そんなのどかを眺めながら、胸が高鳴るのを感じていた。のどかと一緒にいるだけで、何かが込み上げてくるような気持ちにとらわれることがある。『のどかの正体は“久保悠人”』だと知っているにもかかわらず、だ。そのたびに、和宏は『コイツは男なんだ……』と自分に言い聞かせる。そんな心の中だけのやりとりが、今までに何度行なわれたかわからない。和宏は、大きなため息をつくしかなかった。
ついばむような声とともに飛び回っていたすずめたちは、いつの間にか遠くへと飛び去っていた。グラウンドの人影も閑散とし始め、もう昼休み時間が終わろうとしていることを感じさせた。間もなく午後の授業の開始を知らせる予鈴が鳴り響くだろう。
「和宏……」
「ん?」
「いいこと思いついたんだけど」
「……いいこと?」
怪訝な顔をする“りん”を、イタズラっぽく笑うのどかが覗き込む。その表情に、また胸の高鳴りを感じながらも和宏は平静を装った。だが、そんな和宏の動揺に気付くことなく、のどかは大きな目をさらに細めながら言った。
「お花見をしないか?」
「お花見?」
「そう。みんなで、さ」
――To Be Continued