ポエティック・ワルツ
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまって」
白亜の温室に、シャンパンが弾ける音とは違う、みっともない水音が響いた。
アイボリーの繊細なシルクドレス。その胸元から裾にかけて、血のような赤ワインがグロテスクな染みを作っていく。被害者は、片隅で縮こまった伯爵家の末娘――マリアだった。
ワイングラスを取り落としたのは、この「花嫁の庭」で最大の実家を背負う公爵令嬢、セシリアだ。豊かな金髪を美しく巻き上げ、胸元をこれでもかと強調したドレスを纏った彼女は、困惑の芝居など最初からする気もない冷ややかな笑みを口元に張り付けていた。
「不注意だこと、マリア様。殿下をお迎えする大切な園遊会だというのに、そんな粗忽な真似をなさるから。……ねえ、皆様?」
セシリアが周囲に視線を投げると、同調する令嬢たちの笑い声が波のように広がった。
「本当に。おいたわしいわ、セシリア様の綺麗なお召し物にまで飛び散りそうになって」
「お花畑に泥を塗るようなものですわね」
誰もがセシリアを怒らせまいと、あるいは彼女の作る暗黙の序列から外れまいと、弱者を踏みつける側にまわる。マリアは涙をこらえ、震える声でただ「申し訳ありません……」と繰り返すばかりだった。
綺麗事の正論など、この閉鎖された空間では虫唾が走るほどのノイズでしかない。誰もが「まあ、お互い様ですわ」と綺麗事でその場を丸く収めようとする。それが、この花園の正しい善人ルートだった。
――だが、その空気が一瞬で凍りついた。
「お互い様、ね」
冷ややかな鈴を転がすような声が、温室の空気を切り裂いた。
人波がモーセの海のように左右へ割れる。そこに立っていたのは、漆黒のベルベットドレスを纏ったエリスだった。過剰に飾らないその胸元は、周囲の派手な令嬢たちと比べれば控えめな――Cカップのラインをきっちりと形作っているに過ぎない。しかし、その三白眼に宿る冷徹な光と気位の高さは、近づく者に恐怖を覚えさせるのに十分な武装だった。
「エリス……?」セシリアが眉をひそめる。「あなた、何か文句でも?」
「文句?」エリスは艶やかに、しかし絶対に目が笑っていない笑みを浮かべた。「いいえ。ただ、あなたのその下劣な手際があまりに滑稽なものだから、感心していたのよ、セシリア」
エリスはマリアに一瞥もくれない。手を差しのべるような偽善の慈悲も見せない。ただ、セシリアの足元にゆっくりと歩み寄り、彼女の顔を冷たく見下ろした。
「手が滑った、ですって? 2メートル離れた位置からグラスの角度を計算し、あえて足の重心を崩してワインを浴びせる。……いいこと、セシリア。いじめの作法を語るなら、もう少し綺麗にやりなさいな。見るに堪えないわ」
温室の空気が完全に止まった。セシリアの顔から血の気が引く。
「なっ……何を、わけのわからないことを!」
「わからないふりを続けるの?」エリスは一歩踏み込み、周囲の空気を圧殺するほどの冷酷な気位を放った。「あなたが王族の分家から預かっているという宝石の横領、そしてこの庭で他の令嬢を脅して作り上げた利権のネットワーク。すべて、この私の視界の中で綺麗に綻びを見せているけれど――」
エリスは懐から、一通の冷たい公文書の控えを取り出した。それは外の刃、法執行を司るカイルの手によってすでに署名が入れられた、家格剥奪の予告状だった。
「私の処罰は、あなたのその肥え太ったプライドごと、明日にはこの庭の外へあなたを放り出す。……さあ、どうする? まだここで、気高いお姫様ごっこを続ける気はあるかしら」




