声の無さと、ぬめり
帳場の灯りは弱く、
ミアの影だけが壁に淡く揺れていた。
アキトは机にカメラを置き、
昨夜アリイを映した映像を再生する。
──動いてはいる。
──なのに、静かすぎる。
アキトは眉を寄せた。
「……ミア。
これ、静かすぎると思わないか?」
ミアは瞬きをし、
困ったように首を傾ける。
「静か……ですか?」
「身体は動いてるのに、声がまったくない」
ミアは胸元へそっと手を当てた。
「……声を出すのは……あまり……
良いことじゃないので……」
アキトはゆっくり息を吸う。
(……“恥ずかしいから出さない”んじゃない。
文化として“出すものじゃない”んだ……)
「ミアは……声が出る場面を知らないのか?」
ミアは影をふるっと揺らして言った。
「……はい……
出し方も……意味も……分かりません……」
その答えを聞いた瞬間、
アキトの頭の中で歯車がひとつ噛み合った。
(……声が欠落しているなら──
まず“出せる状況”から作る必要がある)
アキトは材料を手に取る。
・家畜の脂
・砕いた亜麻の実
・木灰
・香草
ミアが不安げに覗き込む。
「アキトさん……それ、何に使うんですか?」
「滑りだ。
痛みを減らすための」
ミアの肩がびくりと跳ねた。
「“痛い”って……
その……“入るときの”……?」
「そうだ」
ミアは一瞬、呼吸すら止めた。
「っ……そ、そこに……塗るんですか……?」
「……まあ、そこにも塗る」
ミアの影が淡く震える。
「そ……そこ“にも”……って……
じゃあ……ほかには……どこに……?」
アキトは鍋を火にかけ、淡々と言う。
「全身だよ」
「ぜ、全身!?」
ミアは胸を押さえて後ずさった。
「な、なんでそんな……!」
「全身が滑らないと、動きの線が綺麗にならない」
ミアは混乱のまま頬を覆う。
「わ、わたし……塗られるんですか……?」
アキトは首を横に振った。
「塗らない。
……“浴びてもらう”」
ミアの影が跳ねる。
「浴び……!?
なんか……いやらしい響きがあります……!」
「いやらしくない。
技術だよ。身体を綺麗に見せるための」
ミアはそれでも不安を隠せない。
「で、でも……
洗い流すの……大変ですよね……?」
「そこは任せろ。
温かい湯を用意する」
ミアの動きが止まる。
「……お湯……?」
「風呂だよ。
身体を温めて、洗えて、
声が自然に出やすい場所」
ミアは胸元で手を重ね、
小さく息を呑んだ。
「……“声が出る場所”……」
アキトは頷く。
鍋の中では亜麻がとろりと伸び、
光を拾って揺れていた。
ミアはその粘度を見つめ、
ほのかに頬を染める。
「……綺麗……
食べ物じゃないのに……甘い匂い……」
アキトは火を止めながら言う。
「痛かったり、怖かったりすれば、声は出ない。
滑りは大事だ」
ミアは真っ赤になって俯いた。
「アキトさん……
そういう言い方……ずるいです……」
アキトはわずかに目を逸らす。
(……滑りは整った。
問題は“声”だ)
(声は……温度、安心、身体の開き……
全部が揃わないと生まれない)
ミアは影を揺らしながら、
決意のように言った。
「……アキトさん……
わたし……お湯の中なら……
もっと綺麗に……なれる気がします……」
その声は、湯気の感触を思わせた。
アキトは静かに告げた。
「じゃあ作るよ。風呂を」
ミアは胸元で手を重ね、
うつむきながら微笑んだ。
「……はい……
アキトさん。
わたし……もっと綺麗になります……」
帳場の灯りは弱いまま、
影と湯気の気配だけが濃くなっていった。




