変わった朝と、冷たい飯
朝の通りは、いつもより静かだった。
娼館の前に、男が三人。
誰も喋らない。
表情も向けない。
ただ、扉の前に立っていた。
まるで──
“影の残り香”に縫い付けられたみたいに。
「……こんな時間に人が立つなんてね」
女将は淡々と呟き、帳場へ入っていった。
驚きでも喜びでもなく、ただ異物を見たあとみたいな声。
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帳簿を開いたまま、女将はしばらく動かなかった。
「……銀貨、増えてる」
それだけで部屋の空気がひとつ沈んだ。
「アキト。
働きようによっちゃ……歩合にしてもいいよ」
説明はしない。
たぶん、できないのだ。
“理解の外の増え方”だから。
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返事をしようとした瞬間、
視界が細くすぼまる。
「っ……」
膝の力が抜け、床が近づいた。
ミアが反射的に支え、その影が俺の肩に静かに落ちる。
「アキトさん……倒れます……」
(……そういえば俺……
来てから……何も食ってない……)
女将は額に手を当てた。
「倒れてから気づくバカがどこにいるのさ。
厨房の残り物、勝手に使いな。
買い足したら承知しないけどね」
✦
厨房。
皮の厚い野菜の切れ端。
固くなったパン。
冷えた煮汁の底だけ。
(……これで何を作る……)
思った瞬間、カメラが淡く光って“手順”だけを落とした。
包丁の角度。火の高さ。
湯気の揺れが、影のように細く伸びる。
ひと口食べる。
(……悪くない……)
(……けど……栄養が足りない……)
(……ミア……昨日より線が細かった……
食わせないと……影が……重さを失う……)
言葉にならない焦りだけが、皿の湯気といっしょに消えていく。
✦
「……それ、残り物で作ったのかい」
女将がスプーンを入れた。
眉が、わずかに震えた。
「……その味なら……銀貨ひとつくらい……まけてやるさ」
数字だけを見た現実的な声だった。
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「今日もやるのかい」
女将が問う。
ミアは胸の前で手を揃え、
小さく吸って、小さく吐いた。
「……はい。
立てます……昨日より……」
その呼吸に合わせて、影の線が静かに整う。
(……まだ細い……
けど……揺れは……綺麗だ……)
✦
夜。
通りの向かいの娼館は、
布を張って、光を当てていた。
だが影はつぶれ、
輪郭は消え、
生き物のような黒い塊だけが、壁に貼りついていた。
光が強すぎる。
距離が近すぎる。
呼吸を拾えていない。
(……全部……間違ってる……)
セラが静かに言う。
「……あれ、なんか……怖い」
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ミアの影の前では、
通りすがりの男がひとり──足を止めた。
何も言わない。
説明もしない。
ただ、一歩ぶんだけ、呼吸が遅れる。
それだけでよかった。
✦
影の前に、もうひとり立ち止まった。
男は、影に手を伸ばす。
触れようと──した、その瞬間。
空気が、ひとつだけ揺れた。
布が微かに震え、
ミアの影の線が細く波打つ。
その揺れと同時に──
「ダーーーメッ!!」
通りに似つかわしくない、明るすぎる声が落ちた。
男の手を、横から乱暴に払いのけた女が立っていた。
赤毛が跳ね、笑顔だけがやたらとうるさい。
「この影は触っちゃダメなの!
触るなら──わたしにしといて!」
ミアが影の中で息を止める。
その止まった呼吸だけが、影を薄く揺らす。
女は構わず影の前に立ち、
腰に手を当てて得意げに言った。
「影ってさぁ……立つの、絶対気持ちいいでしょ?
わたし、やってみたいんだよねぇ!」
アキトの視線は、
その女の姿勢よりも──
ミアの影の線が、わずかに乱れた瞬間だけを見ていた。
女はアキトへ振り返り、笑いながら言う。
「ねぇアンタ。
これ、作ってるのアンタでしょ?」
夜に、
“まったく違う音” が混ざった。
その音が、静かな街の息をひとつ変えた。




