名前の問題と、街へ
朝の厨房は、火を落とした鍋の粘りだけが
昨日の名残を静かに抱えていた。
アキトは蓋を少しずらし、
とろり、と揺れる表面を見つめる。
(……履き違えてた……
ここを“特別な店”にしたいんじゃない。
文化を作りたかったんだ、俺は)
そんな反省だけが鍋に映っていた。
すると背後から、女将の声。
「アキト。ちょうどよかったよ」
振り向くと、腕を組んだ女将が帳簿を小突いていた。
「……あんた、いつまでここにいる気だい」
唐突すぎてアキトは言葉を失う。
女将は淡々と続けた。
「店を出たいなら、銀貨いくら必要か知ってるんだろ?」
「……え?」
「ここから出て“自分の店”を持つには銀貨三百枚。
安い場所なら二百五十。
どっちにしろ、あんたの稼ぎじゃ──しばらくは無理だよ」
アキトは黙った。
女将は銀貨袋を軽く揺らしながら言った。
「少なくとも、ミアを連れてここを出てくなら銀貨七十五枚。
それだけ貯めりゃ、あんたは自由。
風呂でも、自分の店でも、好きに作ればいい」
重い金額だった。
(……ローティンを売って、そこまで届くのか……)
女将は鍋を覗き込んだ。
「それ、名前は決めたのかい?」
アキトは答える。
「……ローションだ」
「ポーション?」
「ローションだ」
「アキト、その名前はやめときな。
あいつらに聞いて、ちゃんと考えたほうがいい」
「あいつら?」
帳場でのやりとりをミア、セラ、アリイが見ていた。
「わー!! アキト! それ“ポーション”でしょ!
怪我治るやつ!? 飲んでいい!?」
アキトは慌てて瓶を取り上げた。
「飲むな! これはポーションじゃない」
「えっ、違うの?」
セラが瓶を眺める。
「……色も粘りも……“回復薬”みたいだな……」
アキトは深くため息をつく。
(……このまま“ローション”で押しても
絶対“ポーション”として誤用される……
売り歩くなら、名前の誤解は致命的だ)
そこで、ゆっくりと言った。
「これは“飲むもの”じゃない。
“塗るもの”だ。身体の線を滑らせる液体だ」
アリイの目が丸くなる。
「じゃあ名前どうするの?
ローション? ロージョン? ロロロのロ?」
ミアが少し考えてから、静かに言った。
「……“ローティス”はどうでしょう」
アキトは拾うように呟く。
「ローティス……?」
「ポーションとも違いますし……
“滑る感じ”が……声にしたとき柔らかいので……」
アキトは瓶を光に透かす。
「ローティス。悪くないな。
滑りの線にも、響きが合ってる」
アリイは跳ねる。
「ローティス! 飲めそうじゃん!」
「飲める名前にするな」
女将は短く笑って言った。
「ローティスね。私は銀貨一枚でいいって言ったけど、
アキトは街の相場を知らないからね。
あんたら、街に連れてってあげな」
アリイは満面の笑みで叫ぶ。
「街~~!! お菓子!! 果物!! アタシ可愛い!!」
「うるさい」
セラは腕を組んだまま言った。
「……嘘の看板が多いから。気をつけてね」
アキトは眉を上げる。
「嘘?」
ミアが補足する。
「……文字を読めない人が多いので……
絵で判断するんです。
本当は魚じゃないのに“魚の絵”とか……
高いのに“安い絵”とか……
女将とセラしか字が読めないので、困ることもあります」
アキトは鍋、そして仲間たちを見た。
「……街を知らないと、文化なんて作れないからな。行こう」
ミアは影を小さく揺らして微笑んだ。




