潤沢と、潤滑
厨房の端で、粘りの強い液体が
鍋の中をゆったり回っていた。
アキトは木の杓文字でそれをすくい、
とろん、と落ちる糸を確認する。
(……これなら……滑りは完璧だ)
そのとき、背後から女将が覗き込んだ。
「……へえ。
あんた、また妙な物を作ってるね」
粘度の強い液体を指に取って伸ばす。
「ぬるっとして……悪くないじゃないか。
こいつが少しでもあれば、客も女も大助かりだよ」
アキトは女将に問う。
「……使い方、わかるのか」
「当たり前だよ。
子ども産むときにだって、こういうのは便利なんだ」
「そうだ。これがあれば痛みは減る。
動きも綺麗になる。
影の“後”の夢が……もっと広がる」
女将はわずかに眉を上げた。
「夢、ねえ」
ふっと笑う。
怒ってはいない。
ただ、商売人の冷静が混じっている。
アキトは鍋を見つめたまま言った。
「……でも、まだ足りない。
もっと量がいる。
“浴びる”くらいの量じゃないと意味がない」
女将はぴたりと動きを止める。
「浴びる? なんで浴びる必要があるんだい」
「浴びれば、ミアの影広告は根本から変わる」
「それなら……うちにはいらないね」
アキトは言葉を飲む。
女将は鍋の縁をコツンと叩いた。
厨房の空気がひとつ沈む。
「痛くない、楽になる、ちょっと気持ちよくなる。
客はそれだけで十分さ。
影の後の夢だって、それで満たせる。
うちの子らも……ずっと楽になる」
アキトは反論する。
「でも……滑りだけじゃ足りない。
“線”の根っこが変わらない。
もっと深く……もっと……」
「アキト」
名前ひとつで、厨房が止まる。
女将はまっすぐ言った。
「あんたの夢と、客の夢——履き違えんじゃないよ」
アキトは息を止めた。
ミアの影が、ふるりと揺れる。
女将は続ける。
「客が望むのはね、
“ちょっといい気分”と“ちょっと楽な時間”だよ。
特別なんて求めちゃいない。
そんなもの、うちにはいらない」
アキトは食い下がる。
「……でも……風呂がなきゃできない。
身体を温めて、声を引き出して——」
「風呂?」
女将は呆れたように息を漏らす。
「やっぱりあんたは世間知らずだね。
風呂なんて、貴族か大商人くらいしか持ってないんだよ」
アキトはなおも言う。
「風呂があれば……全身ぬるぬるで……
それこそ夢が作れる」
女将は鍋をアキトの胸へ押し返した。
「それは、あんたの夢だよ。
うちは特別になる気なんて無い。
普通に稼げりゃ、それでいいのさ」
そして背を向けながら言った。
「このぬるぬる、喜ぶ娼館なんて他にいくらでもある。
世間知らずの影に振り回されてる店もね。
売るならそこへ行きな。
金を貯めて……自分の店を作りな」
振り返らず、ぽつり。
「……うちが使うのは、最後でいい。
まあ今日一日だけ使うくらいなら、広告にはなるだろうけどね」
扉が静かに閉じた。
残ったのは、鍋の中のぬるりという音だけ。
ミアの影がそっと近づき、
胸元を握って小さく言う。
「……アキトさん……」
アキトは鍋を見つめたまま答えた。
「……風呂は……諦めない。
ただ、履き違えてた。
ここを特別にすることが……目的じゃなかった」
アキトはもう一度鍋を眺めた。
鍋の中に映った、艶と自分の顔をじっくり見直した。




