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梅散らず  作者: 花河燈
27/27

快走

「伊庭…大丈夫か?」

 歳三は、撃たれたという伊庭を見舞っていた。病院に収容されている伊庭の顔色は青い。医者も無理かもしれないと匙を投げるほどに伊庭の状態は悪かった。

「ああ…ってぇ言いたいとこだが、無理だなぁ」

 傷が化膿しているのか熱が高いらしく、伊庭は胸を上下させた。

「土方さんは勝ったのかぇ」

「ああ」

 歳三は頷く。

「やっぱり凄いなぁ」

伊庭は、愛好を崩した。額に掻いた汗を拭ってやりながら、歳三は、伊庭に黙っているように嗜める。

「土方さんなら、こんな戦終わらせられるのかもなぁ」

伊庭は、眠りに落ちる間際にひっそりと呟いた。

(終わらせてやるよ…伊庭)

 歳三は、伊庭のずれた布団を直してやりながら唇だけを動かした。


四月二十三日午後四時。

歳三の守備隊が布陣する二股口に新政府軍が二度目の攻撃を開始した。

(俺の目の届くウチは、てめぇらに良い顔なんかさせてやるもんかよ)

歳三は、敵が進軍してくるのを静観しながら、腹の中で毒づいていた。歳三の張った陣へ背面攻撃をするそぶりをした新政府軍に兵達は動揺する。

だが歳三は冷静だった。天然の要塞に陣を張っている歳三の軍の方が、二股口においては優勢な筈なのだ。劣勢の新政府軍が軍を割って背面を攻撃するような真似などするわけがないのだ。

「馬鹿野郎。そんなもん陽動に決まっているだろうが。前だけを見て新政府軍をこのまま撃退しろ」

歳三は、兵達に向かい怒鳴りつけた。

「後退なんぞしようもんなら、叩き斬るからな」

 以前、退却をしようとした兵を斬っている歳三の一言で、兵達は一様に前方に戻って行く。

そして歳三の感は、ずばり的中し、新政府軍の陽動作戦は失敗に終わる。

だが、この日の戦いも夜戦に突入した。銃を連射する守備兵の性能の良くない銃は、熱を持ち手で触れられない程になってしまう。

それに水をかけ冷やしては撃つという事を繰り返させて、二十五日午前三時、ついに新政府軍を撃退させる事に成功した。

だが、松前・木古内が陥落し、二十九日には矢不来の陣も敗れ、新政府軍は箱館に向けて進軍していた。

その進軍の速度を五稜郭で聞いた榎本は、歳三達の軍が退路を断たれる恐れが出てきた為、歳三達の即日撤退を決める。


五稜郭に戻った歳三は榎本に呼ばれ、その足で榎本の部屋を訪れた。

「土方君。困った事が起きたんだ」

 榎本は部屋の入り口まで歳三を出迎える。

「…困った事?」

 戸口に立っていた歳三は、そのまま榎本の机に向かった。

「実は思いの他、新政府軍の進軍する速度が速いんです」

榎本は、自分も机の傍まで移動し、地図を開いて指を指した。

「これだと、土方君との打ち合わせの場所よりも五稜郭に近いところでの戦闘になってしまう」

 榎本は歳三を脱出させる為の場所を一本木の関門にしようとしていた。だが、予定より早い新政府軍の進軍速度を懸念しているのだ。

「それはまずいな。ここ以外は、上手く戦線を離脱できそうな場所はない」

 歳三も机に手を付いて、地図を凝視している。新政府軍の足を止める策を考えながら、歳三はふと五稜郭と距離が離れている弁天台場に視線を落とした。

「何か良い策はないだろうか」

 いつも飄々としている榎本には珍しく心底弱ったような声を発する。

「弁天台場にいる新選組を使おう」

 歳三は、今まで自分を支えてくれていた島田達を思った。

「何ですと。味方まで囮に使うのですか」

「手段は選んではいられないだろ」

歳三の顔は、京にいた頃の鬼と言われ、山南や多くの者達を処断した時の顔に戻っていた。

「何をさせる気ですか」

「弁天台場に敵の視線をそらし、足を止めるだけさ」

「弁天台場にいる彼らが危険なのではないのですか」

榎本は、歳三の徹底的ぶりに目を疑う。

「大丈夫さ。俺が一番信頼している奴らだ。やってくれる。一人だって死なす気はない」

歳三の自信に、榎本は自然と首を縦に振っていた。



五月一日。歳三は弁天台場にいる新選組の元へ来ていた。

「島田、元気にしていたか」

「副長。武勇伝は聞いていますよ」

弁天台場で守備していた島田は歳三の面会に、全員を呼び寄せた。

「土方副長。ご無事で何よりです」

相馬も中島も近づいてきては、口々にそう言って頭を下げる。

「ああ、お前らもな」

歳三は全員の顔を見た。

「今日はお前らに出撃の要請をしに来た」

「どこへ行けばよろしいのですか」

 島田は顔を隊務の時のそれに戻した。

「ここから三日間、連続して有川にいる新政府軍に夜襲をかけてくれ」

「解りました」

「大変だとは思うが、三日間も連続でやられたら向こうはどんな大軍がいるかと脅威に思う筈だ頑張ってくれ」

「はい」

新選組の一同は、歳三の顔を見て士気を上げる。

そして三日間、歳三が思う以上の効果を上げて島田達は無事に弁天台場に戻ってきた。

「皆、よくやってくれた」

歳三は、心の底から頭を下げる。

「皆に告げる事がある。ここから数日の後、総攻撃をかける事になるだろう」

歳三から総攻撃の話が出ても、誰一人ひるんだりする者はいなかった。

「そこでお前らには俺から最後に命令しておきたい事がある」

「…」

全員が、歳三の一語一句を逃さないようにと全神経を歳三の方に向けている。

「俺が死んだら、お前達は後を追おうなんて真似は絶対するな」

「そんなっ」

「嫌です」

歳三の言葉にその場がざわつく。島田も相馬も口々に否を唱えた。

「これはお願いじゃねー。命令だ」

歳三の迫力に、皆が口を閉ざす。

「俺が死んだら、無駄な血は極力流すな。それが俺からの遺言だと言ってもいい」

歳三は、一人一人の顔を忘れないようにしっかり見た。もう会う事もないのだと思いながら、今まで自分に着いて来てくれた者達に心からの感謝の念を向ける。

そして、一番迷惑をかけた島田に最後に視線を向けた。

「もう、会う事もねーかもしんねーから言っておく。今まで本当に良くやってくれた。お前に張り倒された一発は効いたよ。多摩にいるアニキを思い出した」

「土方さん」

島田の目には、涙が浮かんでいた。歳三の目にも熱いものがこみ上げてくる。

(自分で決めた事だ)

歳三は、そのまま踵を返した。

沢山の言いきれないほどの礼を心の中で述べて、歳三は全員の視線を背中に感じながら一歩一歩を踏みしめる。

振り返る事なく歳三はそのまま馬に跨った。


五月十日。

歳三は、別れの盃を榎本達と酌み交わした後、最後の打ち合わせをする為に、斎藤の宿を訪れていた。

打ち合せをする度に何度も訪れる宿では、女将に顔を覚えられていて、歳三は小さく会釈すると斎藤が待つ部屋に入っていった。

女将には金を握らせて女と会っている事にしてもらっている。

襖を開けると、斎藤が煙管を咥えて座っていた。

「土方さんいよいよですね」

斎藤は、歳三を上座に座らせる。

「ああ」

「緊張していますか?」

「うるせぇ」

 歳三はその場にあぐらをかいた。

「俺は当日、一本木の関門で土方さんの死体工作に奔走する事になります。だから土方さんを待ち合わせ場所まで警護する役目は他にお願いしました」

「そうか。そいつは俺だって解るのか」

「ええ。一目見れば必ず解るようにしておきます」

 斎藤は、安心させるように笑顔で答える。

「なら、いい」

歳三は、斎藤の吸っていた煙管を借りて、大きく煙を吸いこんだ。


そして、

日が開けて五月十一日。

箱館市中を守備していた伝習士官隊が後退を続け、一本木関門付近まで敗走した報が五稜郭に届くと、歳三は榎本と顔を見合わせた。

「榎本さん。俺は今から弁天台場に孤立した新選組を救出しに行く」

「駄目だ。そんな事は許さない」

回りの兵達に聞こえるような大きな声で、二人は言い争った。

「止めても行く。兵は少なくて良い」

「そんな。君は死にたいのか」

歳三は、榎本の恫喝に笑みで返した。

「新選組は俺の組だ。放ってはおけない」

「勝手にしなさい」

榎本の怒声をやり過ごし、榎本の脇を歳三は通り抜ける。通りすぎ様榎本は、歳三にだけに聞こえるような声で囁いた。

「元気で…お互いの理想郷を築きましょう」

歳三は、小さく目を閉じる事で頷く。

そして歳三は、手近の兵を連れ一本木の関門に向かった。

関門に付くと、歳三は大野に先鋒で指揮を取るように命令して兵達を前線に向かわせる。

そして、退却してくる伝習士官隊の兵に向かって、無銘の刀を抜いて怒鳴りつけた。

「俺は、ここの策で撤退しようとする奴を片っ端から斬り捨てる。解ったらさっさと前線に戻りやがれ」

歳三のいつもの怒声に、兵達は一瞬で気を引き締めて前線に戻っていった。

一本木には、歳三の他には誰もいなくなった。

前線から匂ってくる硝煙の匂いに、歳三は大きく息を吐く。

そして、目の端に斎藤の姿を見つけると、歳三は小さく頷いた。

その場に陣羽織を脱ぎ捨て、関門の柵の向こうにある木陰に身を潜めた。

そして、向かえに来る筈の斎藤が手配した人物を待つ。

後ろの林から、草をわける音を聞いた歳三は、刀に手をかけた。

「土方さんですよね」

後ろからかけられた声に、歳三はその場に氷つく。

草をわけながら来るその人物の顔はまだ見えてはいなかった。

だが、歳三にはその声の主がもう解っていた。

歳三の刀を持つ手が震える。

一歩一歩大きくなる木を踏みつける音に、歳三は耳を傾けていた。

「返事位してください」

「…」

歳三は、声を出す事が出来なかった。

その男が歳三の目の前に現れても、体が動かない。

「土方さんってば、幽霊を見るような目で見ないで下さいよ」

男は笑う。

そして、動けない歳三の手を掴む。そして来た道を走り出して、人目がつかない所まで歳三を移動させた。

「土方さん?どうしたんですか?惚けちゃって」

男は歳三の顔の前で手をヒラヒラさせる。

「な…んで…」

歳三は、張り付きそうになる喉から声を絞り出した。

「だって約束したでしょう」

男はにっこり笑う。

その無邪気に笑う顔は、歳三の記憶とは対して変わらないものだった。

「総…司」

歳三の声が震える。

死んだと聞いた総司が、箱館にいるのだ。

別れた時には、青い顔をして今にも死にそうだった総司が、血色の良い顔をして目の前に立っている。

歳三は、震える手を総司の頬に伸ばした。

頬は温かく、総司が生きている事を物語っていた。

「私は嘘つきではありません」

総司は、晴れ晴れとした顔で歳三を見る。

「死んだって…聞いた」

「敵を欺くにはまず味方からっていうでしょう」

江戸を抜け出すのは簡単だったと総司は笑った。

「治ったのか」

「ええ。もう走れます。こんなところでゆっくりはしていられませんから、実際走って見せましょうか」

総司は、歳三の腕を引っ張りながら駆け出した。

歳三は信じられない思いで、前を走る総司を見ていた。次第に目がぼやけてくる。

振り向いた総司が眉を下げた。

「あ…鬼の目にも涙ですね」

総司健在の軽口に、歳三の涙は勢いを増してしまう。

「馬鹿野郎がこれは涙なんかじゃねーよ」

歳三は、涙をぬぐいながら強がりを言ってのける。

「では何だって言うんですか」

「目から鼻水が出たんだ」

「ははは」

総司は笑った。

歳三も笑う。

歳三はここ最近、土を蹴る感触が心地良いと思えた事はなかった。

だが、歳三は叢を走りながら日野にいた頃を思い出していた。

川べりを通りながら五稜郭に抜ける道は、幼い頃通った事のある道に似ていた。

歳三は日野で鬼ごっこをしていたような錯覚に捕われる。

武士になると決めて、空を見上げていたあの頃。

江戸に行って剣を学んだ頃。

今までたどった道を歳三は思い出していた。

(また、一からやるだけの話だ)

歳三は、総司の背を見ながらそんな事を思った。


 待ち合わせ場所には、一足先に斎藤が着いていた。

「全て上手くいきました」

 歳三の顔を見た斎藤は経過を話す。歳三はそれを聞いて小さく頷いた。

「ところで、驚いたでしょう」

斎藤は、にやにやと笑って総司と顔を見合わせる。総司の事をわざと隠していたのは一目瞭然だった。

「斎藤。こういう事は最初から言っておけ」

「言ったら面白くないでしょう。ねぇ斎藤さん」

総司がへらず口を叩く。

「ああ。いつも土方さんには、酷い扱いを受けているからな。これくらいの余興はあっても許されるはずだ」

「そうですよねー」

総司は、斎藤と一緒に、歳三の怒っているのか泣いているのか、はたまた笑っているのか解らない顔をにこにこ笑って見ていた。

「馬鹿野郎。こんな所でグズグズしている場合じゃねーだろ。さっさと船に乗るぞ」

「解りましたよぉ。全く土方さんったら照れ屋なんだから」

一言多い総司の頭に拳骨を食らわせながら、歳三達は歩き始めた。

春の風が、そっと歳三の頬をすり抜けていく。

歳三はその気持ち良さに、すっと目を細めた。

「土方さん。今一句出来そうとか思いませんでした?」

総司の言葉に、歳三の眉は寄る。

「てめーは一々一言多いんだ」

 歳三とのやり取りを見て、斎藤は頬を緩ませた。

「なら、何を考えていたっていうんですか」

「どうやって、検問を潜り抜けるかに決まってるだろうが」

歳三は、悪戯を思いついたみたいに口角を上げた。

「そうだ。いっそ総司に薬を売っていってもらおうか」

「まだそんな事を言ってるんですか」

「売る自信はあるんだろ?」

「土方さん」

三人は、声を立てて笑った。

(絶対俺はやれる。勇さんの為にもやり遂げる。俺達が目指した世の中に変えてみせる)

歳三は、総司と斎藤を見て、それを確信に変える。

(俺は一人じゃねー。こいつらがいれば、何度でも出直せる)

「土方さん。何を考えているんですか」

突然黙りこんだ歳三に、斎藤は声をかけた。

「あぁ?これから大変だと思っただけさ」

「江戸に帰ったらどうするのですか」

 斎藤が、ふと思った事を口に乗せる。

「ああ。作戦でも練るさ」

「作戦?」

総司がじゃれる物を見つけた猫のような目をした。

「ああ」

「その作戦に私は必要ですか?」

「ああ。お前は俺の右腕だ」

歳三は、不敵に笑う。

「俺はどうなるのですか」

いささか不機嫌に斎藤は口を挟んだ。

「お前か?お前は左腕だ」

左利きだしな、と訳も解らない理屈で歳三はそう結ぶ。

歳三達が行く道には、もう硝煙の匂いはしてはいなかった。


そして、歳三が死んだという報が、五稜郭に届けられた時。榎本は表では沈鬱な顔を作りながら、内心では歳三の門出を祝っていた。

五月十四日。

弁天台場では、歳三の訃報を聞いた隊士達が、涙を流しながら歳三の遺言を守り、降伏した。

その後、十八日に榎本達が降伏した事で、戦争は終結する事になる。



***



 話を聞き終えた子供達は、一様に口を開いている。親達から聞いていた話と全く違ったからだ。

「なら今でも、土方歳三は生きているって事?沖田総司も土方に会う事ができたんだぁ」

最初に口を開いたのは、感動で目を真っ赤にしているスズだった。話が終わった頃には日は西に傾いていて、高野は眩しそうに手を顔に翳す。そして、一瞬塀の向こうを眺めるような目をし、すぐに視線を子供達にもどした。

「さぁなぁ。どこかで暢気に暮らしているかもしんねーなぁ」

高野はからかうようにニヤリと笑う。いかにも嘘の話をしていましたという顔を作れば、子供達は一斉に体の力を抜いた。

「ひどーいっ。高野さん作り話して私達を騙したんだぁ」

中でも、一番聞き入っていたミヨがふくれっ面をして高野の背をポカポカと叩く。

「そうだよなぁ。生きてたら墓なんかあるわけないもんなぁ。墓を建てたのが高野さんなんだから本当なわけないんだ」

 ケイタは手を組みながら頷いていた。

「なぁーんだ。やっぱり父ちゃんの言って事が正しかったんじゃねーか」

三郎は、ほれ見たことかと胸を張る。

「三郎の言う通りだ。さあ、今日はもう日が暮れたから家に帰りな怖いオマワリさんが来るぞ?」

「はぁぁい」

子供達は声を揃えて返事をすると、脱ぎ捨ててあった草履を履いて中庭からそれぞれの家へと帰っていった。

高野は子供達が帰り、姿が見えなくなってもまだ外を見ていた。

(俺とした事が子供相手に何を話してやがるんだ)

高野は苦笑を浮かべながら、記憶に新しい『土方歳三』のその後を思い浮かべた。

そこに黒い影が現れる。

「怖いオマワリさんが来たか」

庭先に現れた怖いオマワリさんを見て、高野はボソリと呟いた。怖いオマワリさんと言うのは、歳三の左腕でもあった男である。警察官となっているその男は藤田五郎と名を変えた斎藤一なのだ。

「なんですかその怖いオマワリさんとは」

 斎藤が仏頂面で高野の隣に座る。

「さっきまで、子供達に昔話をしてやってたのさ」

「高野さんらしくもない。もし『土方歳三』が生きているという噂でも立ったらどうするんですか。慰霊碑を建てた意味がなくなりますよ『高野』さん」

最後の高野を強調しつつ斎藤は、天を仰いだ。

「ああ。だから適当にはぐらかして、怖いオマワリさんが来ると言って帰したのさ」

「…好きで警察官をやっているのではありません」

 誰の所為だと責めるような目を斎藤は高野に向けた。

警察として新政府側に潜入させた張本人、高野はフンとそっぽを向く。

「バレるようなヘマはしてねーよ」

「…でも、高野さん。慰霊碑を建てたのは危険だったのではないですか?高野彌七郎という人がいくら局長の身内とはいえ、建設にあたり松本良順先生ほどの人や永倉さんが一般の平民の為に尽力するのは無理があるのではないかと…」

斎藤は溜息を付いた。明治という新しい時代になったとは言え、書生が主に平伏していた時代である。表立った階級がなくなったとはいえ、人々の意識が簡単に変わるものではない。将軍の天医であった松本や新撰組の幹部であり、れっきとした武士である永倉が、平民である高野の為に奔走するとは斎藤はどうしても思えないのだ。しかも永倉においては、近藤と仲を違えている。

奇想天外な策をこの男が練りだす事には慣れている斎藤だが、今回の慰霊碑建設は危険に思えてならなかったのだ。

「近藤さんと共に慰霊碑に名を刻む事で『土方歳三』が死んだっていう事実を公明正大にしてしまえば何かと動きやすくなるのさ」

 高野は不敵に笑う。それは、先ほどまで子供達に接していた優しげな顔ではない。隙のない統率者の顔だった。

「建白書を出していれば書面も残ります。住んでいる所を暴露しているようなものではありませんか」

 斎藤は天を仰いだ。

「そこまで、明治政府は暇じゃねーよ。西南の役の後始末でテンテコまいさ。それに…」

自由民権運動を板垣にけしかけ、さらに暇じゃなくしている張本人は、含みのある笑いを口の端に浮かべた。高野の故郷である日野でも自由民権運動は広がり始めている。

ちなみに西南の役というのは、薩摩の西郷が不平士族に担ぎ上げられ、新政府に対して起こした戦争である。この時斎藤は皮肉にも抜刀隊として新政府側で出兵していた。

「…それに、何ですか?」

「隠れてコソコソするのは性に合わねー」

負けず嫌いな高野の言葉に斎藤は眉間を抑えた。

「高野さん…いい性格してますよ」

「ふんっ。ところであの野郎は見なかったか?油を買いに行かせたんだがちっとも帰ってきやがらねー。もう日も暮れるってのに」

「ああ。あいつなら先ほど茶屋で子供と遊んでいるのを見かけましたが…あ…戻ってきたみたいですよ」

斎藤の視線が入り口に向けられる。

「あれ?藤田さん来てたんですか?」

「来てたじゃねーよ。ったく油売りやがって」

暢気な同居人に高野はケチを付ける。

「やだなぁ私は油なんか売ってません。買ってきたんです」

「屁理屈いいやがって」

同居人は、買ってきた油を片付けると、居間に置いてある自慢の愛刀を持ち出して手入れを始める。

「お前ぇも好きだなぁ刀の時代は終わったってのに」

高野があきれたように同居人を見た。

「良いんです。これは私の趣味なんですから」

同居人の男は唇を尖らせる。そして男が柄の部分を外せば、そこには有名な銘が刻まれていた。


菊の紋の下にある一の文字。

男の持った刃先が夕日に反射してキラリと光った。


自慢気に刀を翳してみせる男を見て、高野が笑う。それにつられて男も笑う。普段表情を崩さない斎藤までが笑った。

誰もが笑って過ごせる世の中は、すぐそこである。




明治二十二年。大日本帝国憲法発布。

 明治二十三年。第一回通常議会開会。




多摩の梅は、散る事なく大輪の花を咲かせたのである。








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